第3話 敗報の字
「秋水」
小原衡志は二字を書き終えると、館生たちの方へ料紙を向けた。
「何と読む」
「しゅうすい」
何人もの声が重なった。
「何を指す」
今度は返事が揃わなかった。秋の川、井戸の水、雨あがりの淵。座る場所ごとに違うものが挙がり、小原はどれも退けなかった。
清倫館へ来ていた久馬は、館生の後ろで聞いていた。王政復古の回覧を若者へどう読ませるか、小原から相談を受けたためだった。回覧本文をもう一度教える用はない。届いた文の外にあるものを、館生がどこまで自分の考えで埋めているか確かめたいと、小原は先に告げていた。
「片倉。秋の水は、春の水と何が違う」
呼ばれた元信は、前へ身を傾けた。
「濁りが沈みます。底の石まで見えます」
「新田。底が見えれば、それで澄んだと言えるか」
足軽家の新田清之助は、すぐには答えなかった。隣の館生が笑いかけたが、清之助は水の中を覗くように目を細めた。
「流れがあれば、見える石も違います。上からだけでは、深さを取り違えます」
「そうだな」
小原は二字の横へ、細く「眼」と書き添えた。
「澄んだ眼で見るとは、きれいなものだけを見ることではない。石があれば石を、泥が残れば泥を、そのまま見ることだ。書いた者が見たことと、そうに違いないと考えたことも、同じ行に並ぶ」
そこで久馬を振り返った。
「岩井殿。記録奉行は、どちらを残されます」
「どちらも残す」
館生の間に小さな動きが起きた。久馬は続けた。
「ただし、同じものとして下へ渡さぬ。見たことは見たこと、考えたことは差出元の判断として残す。判断が書かれていたことは事実だが、その判断が正しいことまで確かになったわけではない」
「二人が同じことを書けば、確かなことになりますか」
清之助が聞いた。
「二人が別々に見たなら、一人よりは重い。同じ者の話を二人が写したなら、元は一人だ」
「写しかどうか分からない時は」
「分からぬと残す」
清之助の筆先が動いた。元信は書かずに久馬を見ていた。
「では、急ぎの報でも、疑って読むのですか」
元信が尋ねた。
「疑うためではない。急ぐほど、どこまで確かめたかを分ける」
「分けている間に、手遅れになることは」
「ある」
久馬が答えると、元信は口を閉じた。避ける言葉を待っていた顔ではなかった。久馬は言い足さなかった。急いで誤ることと、確かめて遅れることのどちらが軽いかは、届く文ごとに違う。
小原が再び「秋水」の二字を館生へ向けた。
「分からぬものを見えたことにしない眼も、学ばねば持てぬ。今日の二字は、そのために覚えよ」
座の後ろで人が動いた。清倫館の者ではない。城から来た下役が小原へ一礼し、久馬を探してきたと告げた。
「記録奉行詰へ、急ぎお戻りを。京筋から続報が入りました」
館生の顔が一斉に上がった。元信は何の報かと聞きかけ、小原に目で止められた。
久馬は立ち、二字の脇を通った。出口へ向かう時、清之助が筆を止めたままこちらを見ているのが目に入った。
久馬は下役と清倫館を出た。城へ戻り、書役衆控を経て記録奉行詰へ入ると、差出元の違う三通が待っていた。
一通は江戸表からの急報で、京と大坂から入った知らせを継いだものだった。別の一通は道中の宿から早く送られた写し、残る一通は会津方と往来のある者がもたらした覚えである。どれも、書かれた日から幾日も経て水枝へ着いていた。
正月三日、鳥羽と伏見で戦が始まった。
そこまでは三通が一致していた。伏見奉行所が焼け、徳川方が淀へ退いたことは二通にある。会津、桑名の兵が戦ったとの記載も重なる。その先は、語が揃わなかった。
久馬は文面だけでなく、文の来た順も確かめた。宿からの写しは江戸表の急報より早く着いていたが、その中には、江戸へ向かった使いから聞いたとある。三通の数だけ、別の目が戦場にあったとは限らない。同じ知らせが街道の途中で枝分かれし、違う手を通って水枝へ着いたとも読めた。
日付が古いからといって、後の出来事まで含んでいるわけでもなかった。最も遅く書かれた一通が、最も詳しいとは限らない。急いで発った使いが見なかったことを、あとから出た者が風聞で埋めていた。
大敗。
敗走。
官軍。
賊軍。
錦の旗が出たため、昨日まで将軍家に従っていた兵が朝敵になった、と断じる添書もあった。だが、朝廷から水枝へ届いた沙汰の写しはない。誰が錦旗を見たかも、将軍家方がどこまで退いたかも、三通だけでは一つに決められなかった。
書役が、回覧の草案を久馬へ差し出した。
「『鳥羽伏見において将軍家大敗、賊軍となり大坂へ敗走』とまとめました。三通の趣は、そこへ落ち着くかと」
「落ち着いてはいない」
久馬は草案を返した。
「戦が始まったことは三通にある。退いたことは二通だ。大敗と書いたのは一通。賊軍は添書を書いた者の判断だ」
「錦旗が出たなら、朝廷の御意では」
「旗を見た者の名はあるか」
「ございませぬ」
「朝廷の沙汰そのものは」
「届いておりません」
「ならば、水枝が先に賊軍と定めるな」
書役は草案を受け取ったが、筆を動かさなかった。
「会津の兵が退いたことまで伏せれば、軽く見せたと取られます」
「伏せぬ。退いたとの報が二通にある、と書く。大坂へ敗走したと一つにまとめるな」
「それでは、読む者が結局を尋ねます」
「結局はまだ届いていない」
「『敗報』の二字も外しますか」
書役の問いに、久馬は三通を見た。
「回覧には入れぬ。誰の敗けかを、水枝が先に定めることになる。受け取った覚えには、差出元がそう記したことを残せ」
「城内では、もう皆が敗けた報と申しております」
「人の口を消す役ではない。城から出す文を、人の口と同じ速さで走らせぬ役だ」
久馬は三通を、戦闘、退却、朝廷の扱い、将軍家の動静に分けて置き直した。戦闘と退却は回覧へ移せる。確かめられぬところは、草案から外した。
年寄・家老詰から取次が来た。三原主膳が、小会議へ三通を持参するよう求めているという。
三原は久馬が入ると、会津方の覚えを先に取った。会津兵が伏見で退いたとの行を読み、しばらく次へ進まなかった。
「京で戦が起きたことは、もはや疑えぬか」
「はい、三原様。三通が同じ日、同じ二か所を挙げております」
「会津が敗れたことは」
「退いたとの報が二通ございます。どこまで退き、どれほどを失ったかは揃いません」
「賊軍とされたことは」
「その語は添書にございます。朝廷の沙汰の写しは届いておりません」
三原は添書を開き、賊軍の二字を見た。
「この字を回せば、我らの立つ側も決まる」
「はい」
「外せば、決めることから逃げたとも取られる」
「外した者の名を残します」
三原は久馬を見た。
「また岩井が負うか」
「届いていない沙汰を水枝の決定へ変えた責よりは、負えます」
小会議の外では、門の番を増やすか、武具を改めるか、会津往還の使いを止めるかという問いが待っていた。どれも、報の言葉より先に答えを欲しがっている。三原は添書を畳まず、開いたまま久馬へ戻した。
「賊軍は回覧へ入れるな。だが、会津の兵が退いたとの報は落とすな」
「承知しました、三原様」
「門も往還も、いま閉じる沙汰は出さぬ。次が来るまで、見張りを怠るなとだけ伝えよ」
久馬は記録奉行詰へ戻った。新しい回覧には、正月三日、鳥羽・伏見において戦闘が起こり、将軍家方が淀の方角へ退いたとの報が届いたことを書いた。会津、桑名の兵が交戦したとの記載も置いた。戦の結末、朝廷の扱い、将軍家の所在は確認できないと続けた。
末へ、続報未着につき、各役は持ち場を離れず、風聞による出立を禁ず、と加えた。
書役が読み上げる間にも、取次の向こうで「敗けた」と言う声がした。回覧へ入れなかった一字は、すでに人の口で城下へ向かっていた。
読み上げが終わると、別の書役が尋ねた。
「この文を受けた者が、持ち場とはどこかと聞いてきた場合は」
「いま命じられている場所だと答えよ。新しい役を、この回覧で作ったことにはするな」
「館生からも、何か務めたいとの願いが来ております」
久馬は清倫館で筆を止めた清之助と、答えを待った元信を思い出した。城へ呼び戻されてから、まだ半日も経っていない。
「願いは願いとして受けろ。敗報を読んだことを、そのまま命令へ変えるな」
久馬は回覧文の末に、自分の名を書いた。
片倉元信は、回覧が読み終えられる前に、膝の上の拳を開いていた。
握ったままでは、小原に見咎められると思ったからだ。怒っていることまで子どもの癇癪にされれば、次に何を言っても届かない。
清倫館へ渡された文は短かった。鳥羽と伏見で戦が起こり、将軍家方が退いた。会津と桑名の兵も戦った。結末は確かでない。持ち場を離れるな。風聞で出立するな。
城下で聞く話の方が、はるかに長かった。錦の旗が上がった。大筒の一撃で隊が崩れた。大坂まで追われた。どの話も、語る者は見てきたように口にした。小原は一つずつ、誰から聞いたかと問い、答えられない話を止めた。
「確かでない軍談を継ぐな。回覧にある範囲を越えるな」
「では、何をすればよいのです」
元信は声を抑えて尋ねた。
「次の報を待つ」
「待って、会津が押し潰されたと知るのですか」
「押し潰されたとは、どの報にもない」
「退いたとはあります」
「だからこそ、熱だけで動くなと言っている」
小原の言葉は筋が通っていた。だからこそ、元信には座らされている時間が重かった。京から来る報は、届く時には何日も前の出来事になっている。
前日、父へ、使いに出してほしいと申し出た。返事は、清倫館へ戻れ、だった。馬を引く者が足りぬなら引く、書付を運ぶなら走ると重ねても、いまは若い者を動かす時ではない、と言われた。
動かす時が来れば、誰から名を取るのか。
要職の家の子である元信は、幼い頃から、家の名に恥じぬようにと言われてきた。だが、役に立とうと前へ出れば、家の名を軽々しく使うなと退けられる。大人が必要と認めた時だけ呼ばれる名なら、その時には断る余地も残らない。
「先生。城門の番でも、往還の見回りでも、館生にできることを一つお命じください」
「清倫館から門番を出す権限は、私にはない」
「では、その権限のある方へ願ってください」
「願いが通るまで、お前たちを勝手に出すことはできぬ」
「結局、待てということですか」
「お前は何をもって、役に立ったと決める」
小原は問い返した。
「人の足りないところへ行き、命じられたことを果たした時です」
「刀を取ることだけではないな」
「初めから、そう申しています」
馬の世話でも、夜番の交代でも、書付を運ぶことでもよい。できぬなら別を選ぶ。ただ、試す前から若いというだけで役の外へ置かれるのが耐えられなかった。
「役には、できることのほかに、失敗した時に誰が負うかが要る」
「失敗する前から、何もさせない理由にするのですか」
「お前一人の失敗で済まぬから言っている」
「ならば、誰の下へ付けばよいかをお示しください」
小原はすぐに答えなかった。元信は、示せる名がここにはないのだと受け取った。それが、拒まれるより重かった。
やがて小原は、先ほどの「秋水」の二字を示した。
「いま学んだことを、いま捨てるな」
元信の隣で、清之助が姿勢を直した。
「澄んだ眼で見れば、オラたちに役がねえことまで、よく見えます」
改まらない言い回しに、何人かが息を呑んだ。小原は叱らず、清之助の顔を見た。
「役がないのではない。いまは命じられていない」
「同じでねえですか」
「違う。命じられていない者が、戦の近くへ自分で行けば、誰も戻す責を負えぬ」
「戻す責なら、初めからオラたちにねえべ」
清之助は言い切り、唇を結んだ。元信は横を見なかった。自分一人なら、要職の家に育った者の我がままと処理される。清之助の言葉まで同じにはできない。
小原はその日の講を早く終えた。年少の者から先に帰した。元信と清之助らには、すぐ退出せよとも、座り続けよとも言わなかった。
元信と清之助らは残った。小原は少し離れた場所で別の館生の問いを受けている。
清之助は、先ほど取った書付を元信へ寄せた。「見たこと」と「考えたこと」の間に線を引き、その下へ、城から役を命じられていない、と記している。
「これが、見たことだべ」
「そうだ」
「オラたちが要らねえってのは、考えたことか」
「誰も、要らぬとは言っていない」
「言わねえで座らせておけば、同じだ」
元信は否定できなかった。言葉を正しく分けた先に残ったのが、清之助のその一言だった。
「先生から願いが出るまで、何日掛かる」
誰かが言った。
「願いが出ても、若いからと退けられる」
「なら、こちらから役のある所へ行けばよい」
元信がそう言うと、清之助が顔を向けた。
「会津へ行くのか」
「会津まで着けるかは分からぬ。往還を進めば、使いでも荷運びでも、人を求めている所はある」
「戦う役でなくてもよいのか」
「何もせず座っているよりよい。負傷した者を運ぶにも、道を知らせるにも人は要る」
「道を知っているのか」
清之助の問いは冷やかしではなかった。
「水枝から先のすべては知らぬ。だから、知る者の指図を受ける。ここにいては、その指図を受ける所へも行けない」
「行けば、すぐ使ってもらえると思うか」
「思わぬ。追い返されるかもしれない」
「だったら、何のために出る」
「役に立てるかを、役のない場所で決められたくない」
元信は、役がないと決められたまま、あとで家の名だけを呼ばれるのが耐えられなかった。
「許しは出ねえぞ」
清之助が言った。
「だから、願わない」
その言葉で、相談が出奔へ変わった。
一人が、連名で願書を出してはどうかと言った。元信は首を振った。朝に出せても、受け取る者から上へ回り、返事が清倫館へ届くころには、京から次の報が着く。次の報がさらに悪ければ、願いは危険を理由に退けられる。良ければ、必要がないと退けられる。
「どちらに転んでも、ここに置く答えになる」
「片倉の名を先に書けば、読まれんじゃねえか」
清之助が言った。
元信は腹の奥が冷えるのを覚えた。父の役が、ここでだけ戸を開けるかもしれない。その戸を通れば、清之助たちは元信に従った者として後ろへ並べられる。
「俺の家の名で願いを通すつもりはない」
「けど、出れば、片倉様の倅が連れ出したって書かれるべ」
「俺一人で行けばよい」
「それじゃ、オラの名はまた要らねえことになる」
清之助は笑わなかった。元信も返せなかった。自分の名を正面から置けと求めながら、清之助の名を守るために後ろへ置けば、同じことをする。
「行くなら、それぞれ自分で決めたと告げる」
「誰に」
答えは出なかった。許しを求めず、責任だけ受け取らせる都合のよい相手などいない。それでも誰も、相談をやめようとは言わなかった。
翌朝、いつもどおり清倫館へ向かうと家へ告げて出れば、途中から会津往還へ向かえる。どこで道を変えるか。誰が行くか。言葉がそこへ及んだ時、元信は声を落とした。小原に聞かれれば止められる。それでも、止める大人が役を示さぬなら、同じところへ戻るだけだった。
「帰りは」
清之助が尋ねた。
「役を得たら、その役に従う」
「得られなかったら」
元信は答えに詰まった。
「戻って、また待てと言われんのか」
別の館生が吐き捨てた。
「戻ることまで考えて出るなら、初めから出ねえ方がましだ。立派に役目を果たせば、名は残る」
元信はその言葉を好かなかった。返事の代わりに、先の話へ戻した。
「まず、役を得ることだ」
元信は言った。
館の端に人影が止まった。岩井久馬の娘と、見慣れぬ若者だった。若者は岩井家の羽織を着て、包んだ書物を両手に持っている。短い髪だけが、借り物の身なりに収まっていなかった。
小原が二人に気づき、こちらへ来る前に、清之助が小さく言った。
「聞かれたべか」
若者は返事をせず、元信たちを見ていた。
沙江は、清倫館の中へ入るつもりではなかった。
篠から預かった書物を小原へ返し、すぐ岩井家へ戻るはずだった。篠から短い外歩きを許された戸ヶ崎弦が、持って行くと言った。元の衣は離れ前室の衣類箱に、片方だけの履物は内納戸に置かれたままである。弦は岩井家から借りた着物と羽織を身につけ、弥七が出した草履を履いていた。
篠が許したのは、疲れたら戻ることと、不意の大きな音が続く場所へ近づかないことを条件にした外歩きだった。沙江が清倫館へ行くと知ると、弦は、自分もそこまで歩いてよいかと尋ねた。書物を運ぶことは、そのあとで弦が見つけた用だった。
道では、沙江が先に荷車と槌の音を告げた。弦は音がする前に一度歩みを緩め、通り過ぎれば元へ戻した。驚きはする。それでも、来ると分かっている音なら、身体の置き場を選べるようになっていた。
ひと月前より歩みは確かだった。清倫館までの道で立ち止まることもなく、沙江が書物を代わると言っても渡さなかった。初めて家の外へ出る弦が転びそうなら支え、疲れれば連れ戻す。それが沙江の用だった。館生の話を聞くことは予定に入っていなかった。
小原が二人を見つけた時、奥では元信たちの相談が続いていた。小原は書物を受け取り、沙江へ礼を言ったが、弦の顔を見てすぐには帰るよう促さなかった。
「岩井殿のお客人か」
「はい。戸ヶ崎様です」
沙江が答えると、弦は小原へ頭を下げた。
「戸ヶ崎弦と申します」
「小原衡志だ。騒がしいところへ来られたな」
小原はそれだけ言い、元信たちへ向き直った。
「いまの相談を、初めから話せ」
元信は隠さなかった。役を与えられないなら、会津往還へ出て求める。許しを願えば止められるため、願わない。清之助たちの名も、自分たちから告げた。
話が軍勢の向きへ移ると、弦の指が羽織の端をつかんだ。道で荷車が板を鳴らした時にも、ここまで強く握らなかった。元信は刀も戦功も口にしていない。それでも、自分たちと同じほどの若者が役を求めて出るという話だけで、弦の肩から動きが消えた。
清之助が、使いでも荷運びでもよいと言った時、弦は一度息を吐いた。別の館生が「戻ることを考える者に役は果たせぬ」と言うと、また呼吸が浅くなった。
薪の音を聞いた時とは違う。頭を庇わず、音の方も見ない。言葉が続く間、身体だけが何かの前へ立たされている。
元信たちの相談が、役の有無から翌朝の出立へ進むにつれ、弦は羽織の端を離さなくなった。
沙江は、王政復古の報を聞いた時の弦を思い返した。あの時も、弦は言葉より先に息を変え、政治の先は語らなかった。いまも何かを言い当てようとしているようには見えない。ただ、「戻ることを考える者に役は果たせぬ」と出た時だけ、羽織を握る指が強くなった。
沙江は声を掛けなかった。弦が自分から話すのを待った。
「先生がご心配なら、行く先を届けます」
元信が言った。
「届ければ許しになると思うか」
「誰にも知らせず消えるつもりはありません。自分の名で行きます」
「その名を誰が迎え、誰が戻す」
「戻るために行くのではありません」
元信が答えた瞬間、弦が一歩出た。
「帰ることを教えぬ支度を、若い者に立派と言うな」
座にいた者が弦を見た。
声は大きくなかった。けれど、弦は言い終えたあとも息を戻せずにいた。握った羽織には深い皺が残っている。
「誰だ、お前は」
元信が立ち上がった。
「いま名乗ったではないですか」
沙江が答えると、元信は弦から目を離さなかった。
「名のことではない。どこの家で、何の役を持つ者だ。俺たちと同じほどに見える者が、何を知って言う」
弦は答えなかった。
「お前は会津へ行ったことがあるのか。戦から戻った者を見たのか」
唇が動いたが、言葉にならない。
「帰ることを教えるとは何だ。退けと教えるのか。役を捨ててもよいと教えるのか」
弦は元信を見返した。答えを探しているのか、出せない答えを押しとどめているのか、沙江には分からなかった。
「分かりません」
「分からぬことを、なぜ俺たちだけに言う」
清之助が元信の横へ立った。
「オラたちは、死ぬ相談をしてたんでねえ。使ってもらえる所へ行く話だ。戻れねえって、あんたが決めるのか」
「決めていません」
「なら、何を見てそう言った」
弦の喉が動いた。沙江は、返事が来ないと分かった。言葉を選んでいる時の間とは違う。どの言葉を選んでも、元信たちの問いへ届かないとでもいう止まり方だった。
「理由も言えぬのに、俺たちへ帰れと言うのか」
「帰れとは言っていません」
「同じことだ」
元信は弦の借りた羽織を見た。
「家も役も明かさず、岩井家に守られている者が、役を求める者だけを止める。臆病者」
沙江は元信を責められなかった。弦が父母にも家にも答えなかった場に、元信はいない。それでも、いま目の前にいる弦が何一つ説明できないことは見えていた。
弦の手が羽織から離れた。指の跡だけが布に残った。
「そう見えても、言えません」
元信の頬が動いた。止めるなら、止めるだけのものを差し出せと、その目が迫っていた。弦は何も渡せなかった。
「なら、俺たちのことも決めるな」
「はい」
弦が答えると、元信の顔から怒りの行き先が一瞬消え、すぐ眉間が狭まった。
「はい、で済むか」
「そこまでだ」
小原が二人の間へ入った。
「片倉。お前たちが出立を相談したことは、私から城へ届ける。新田らも同じだ。処分を求めるためではない。清倫館で止められぬところまで来たことを、止める権限のある者へ渡す」
「それで、また待てと」
「待たせるなら、何をさせるかまで答えを求める」
小原は約束をそれ以上に広げなかった。
「今日は帰れ。明日、一人ずつここへ戻ったことを確かめる」
元信は弦を見たまま、清之助へ言った。
「今日はやめる」
「明日は」
清之助が尋ねた。
「城の答えを聞く」
出奔を捨てたとは言わなかった。小原も、改心したものとして扱わなかった。
館生たちが去ったあと、弦は小原へ頭を下げた。
「騒ぎを大きくしました。申し訳ありません」
「大きくなったものが、外へ見えただけだ」
小原は弦を慰めず、責めもしなかった。
「岩井殿には、私から報告する。お客人の名は書かぬ。館生の騒ぎを、客人の素性へすり替えるつもりはない」
「あの方々の名は」
弦が尋ねた。
「私が見聞きした者の名は書く。出た者はいないことも書く。何を処分とし、何を手当てするかは、受け取る側が決める」
弦は小原へ何かを言いかけた。元信を止めた時とは違い、声になる前に口を閉じた。
沙江は父の名を聞き、弦の顔を見た。弦は安堵を見せず、もう一度頭を下げた。
帰り道では、弦の歩幅が清倫館へ向かった時より狭くなった。耳の鳴りが強くなったかと尋ねると、「少し」と答えた。沙江が書物を持たせたせいだと言うと、弦は首を振った。
「持ったのは、あの方が来られるまでです」
「歩くことより、先ほどのお話の方がお疲れになったのですか」
弦は答えなかった。
岩井家の脇門へ着くまで、沙江は問いを重ねなかった。
元信に問われた時の、返事の前の長い間だけが、沙江の目に残っていた。
清倫館からの報告は、その日のうちに書役衆控へ入り、記録奉行詰へ回ってきた。
小原の草案には、相談が始まった経緯、無断で会津往還へ出ようとしたこと、実際の出立には至らなかったことが順に書かれていた。片倉元信、新田清之助と、同席した館生の名もある。岩井家の客人については、小原が告げたとおり、「同席の客人一名が制止の言を発し、口論となる」とだけ記されていた。
久馬は名の並んだ行を二度読んだ。元信も清之助も、名に誤りはない。小原は見た者として正しく書いている。
相談に至った事実を消すつもりはなかった。だが、その名を処分へ回る文へ移すかは別だった。
草案には、館生たちが問われる前に自分の名を告げたことも記されていた。久馬はその行を残したまま、正式報告の料紙を別に出させた。
城下を出る前に止まった事実は残す。名だけを、別の効き方をする文へ先に移すつもりはなかった。
久馬は書役を呼び、正式な事件報告を清書させた。
清倫館において館生数名、風聞を受け、許しなく会津往還へ出る相談に及ぶ。講師小原衡志これを制止。同席の客人一名との間に口論あり。館生らは往還への出立に至らず、館を退出。負傷なく、道具類にも損じなし。
「名は入れないのですか」
書役が尋ねた。
「館生数名とする」
「草案にはございます」
「読んだ」
「では、書き漏らしではなく」
「私の判断だ」
「後に同じ相談が起きた時、前にも加わった者か確かめられなくなります」
「後の一件は、後の事実で定める。この報告で先に咎人を作るな」
「小原殿の草案を残せば、名は辿れます」
「正式報告には添えぬ。小原殿へ返す」
「では、尋ねられた時は」
「私へ回せ」
久馬は事件の経過を削らせず、名だけを正式報告から外した。
書役が清書を終えると、久馬は末尾へ、清倫館より届出を受け、記録奉行岩井久馬が報告文を定めた旨を書いた。
小原が、館生を留める手立てを城へ求めたことは、報告の末へ一行置いた。講師の怠りを訴える文にも、若者へ新しい役を約す文にも変えなかった。
事件報告のほかには手を触れなかった。清倫館に置かれている館生の記録も、城内の人数を扱う帳面も開かなかった。
久馬は報告を持って年寄・家老詰へ向かった。
三原は末尾まで読み、初めの一行へ戻った。
「館生数名」
「はい、三原様」
「小原が名を書かずに上げるとは思えぬ」
久馬は否定しなかった。
「ございました」
「誰だ」
「その問いへ答えれば、ここから名を外した意味がなくなります」
三原の目が上がった。
「家老へも伏せるか」
「名をお知りになることを恐れているのではありません。この報告が、名による処分の材料になることを避けました」
「出奔を謀ったことは事実であろう」
「はい」
「小原が止めた。客人とも争った。そこまで書いた」
「事実を軽くはしておりません」
「名だけを軽くしたか」
「名を置けば、事の重さより家の重さで処分が変わります。まだ城下を出ていない者を、先に名で分けたくありません」
「名がなければ、一人ずつ家へ帰ったかも確かめられぬ」
「明朝、清倫館へ戻ったかを小原殿が確かめます。この報告には、館を退出したところまでを記しました」
「明日、消えた者が出てもか」
「明日起きたことを、今日の相談だけで決めません」
三原は指先で報告の端を押さえた。館生数名とある行の脇には、名を書き戻せるだけの余白があった。指はその上を過ぎ、報告を机上へ置いた。
「片倉の倅か」
久馬は答えなかった。それだけで、三原には足りたようだった。
「岩井の名は末にある。館生の名はない。上から名を出せと言われれば、名を外したのは岩井だと答えることになるぞ」
「そのために書きました」
「このまま収めよ。若者を待たせるなら、待つ間に何を担わせるか、小原からも聞く」
「はい、三原様」
「次に問われるのは名ではなく、役と持ち場だ」
三原は訂正を命じなかった。事件報告を閉じ、受け取った書付の側へ置いた。
久馬は報告を受け取り、年寄・家老詰の受取を記させた。館生数名の四字は、訂されないままそこへ収まった。
記録奉行詰へ戻ると、久馬は提出の刻を添え、事件報告を綴じた。元信と清之助の名はない。代わりに、自分の名が一つ、末に残った。
城を出るころには、清倫館の館生が無断出立を企てたという噂が、東側武家地にも回っていた。誰の名かを知りたがる者もいた。久馬は問いに答えず、本丸表門を出て、大手門から岩井家へ戻った。
城下へ下りる道で、清倫館から出てきた若者を見たという話まで耳に入った。人数は、語る者ごとに増えていた。明朝には、実際に往還へ出た話へ変わるかもしれない。だが、城で受理された報告には「館生数名」とだけある。
式台では弥七が待っていた。
「旦那様。お嬢様も戸ヶ崎様も、清倫館からお戻りでござんす。戸ヶ崎様は耳ァ鳴るとかで、離れに休んでおられます」
「篠先生には」
「お嬢様が人を出しなすった。今夜見に来てくださるそうで」
久馬は書きつけの間へ寄らず、居間から北側の廊下へ向かった。報告に弦の名はなく、館生の名を外したことを、家の内でだけでも伝えておくつもりだった。
短い渡りの手前で、沙江が離れ前室から出てきた。空の薬の器を持っている。久馬に気づき、一礼したが、弦もその後ろまで来ていたため、声は掛けなかった。
弦は家の羽織を脱ぎ、借りた着物のまま前室に立っていた。清倫館で元信と向き合った者には見えないほど、顔から力が抜けている。沙江が、座敷へ戻るよう促した。
「耳の鳴りは、強いままですか」
「先ほどよりは、弱くなりました」
「篠先生が来られるまで、お休みください」
「はい」
久馬は渡りへ踏み出さず、北側の廊下にいた。沙江からも弦からも見える位置だった。二人の話を隠れて聞く形にはしたくなかった。
沙江は父を一度見た。視線は久馬の袖から顔へ上がり、すぐ弦へ戻った。久馬は何も告げず、その場に留まった。
弦が座敷へ戻ろうとした時、沙江が呼び止めた。
「どこで、そのような若者を見たのです」
「帰らなかったところで」




