第2話 名のない客
青年が目を開けた。
久馬は声を掛けず、沙江を見た。沙江は青年の腕が頭から離れるのを待ってから、夜具のそばへ膝を進めた。
「ここは水枝の岩井家です。下河原で倒れておられたので、手当てのためにお運びしました」
青年の目が沙江から篠へ移り、座敷と前室の境にいる久馬を捉えた。ひどく狭いところを確かめるような見方だった。起き上がろうとして肩を押さえ、篠に制される。
「横になっていてください。肩の傷がまた開きます」
青年は唇を動かした。
「水枝……」
掠れてはいたが、問い返す声だった。
「はい。岩井家の離れです」
沙江がもう一度告げると、青年は目を閉じた。耳もとへ手をやり、何かを聞き取ろうとするように眉を寄せる。篠が手首へ指を置いた。
「いま聞こえている音はありますか」
「鳴っています」
「どこで」
青年は答えず、両方の耳へ順に触れた。左右を決められないのか、決めようとしないのか、久馬には分からなかった。
弥七が前室で湯の器を置いた。器の底が板へ触れただけで、青年の肩が強ばった。腕は上がらなかったが、顎が胸へ寄り、次の音に備える形になった。
「湯を置いただけでござんす。戸は閉まりません」
弥七の声に、青年は一度うなずいた。
久馬は名も出所も尋ねなかった。沙江が用意していた言葉を届け、篠が水を含ませてよいかを見定める間、境に座っていた。青年は二口の水を呑み、また目を閉じた。眠ったのではなく、座敷にいる者の気配を一つずつ遠ざけるように見えた。
篠が久馬へ、今夜はこれ以上話させない方がよいと告げた。久馬はうなずき、沙江と弥七を残して離れを出た。
翌朝、青年は自分で目を開けた。
篠が名を呼ばずに声を掛けると、顔を向けた。差し出された水を見て、支えられながら身体を起こす。傷のある肩を庇う動きに迷いはあったが、椀を受け取る手は定まっていた。
久馬は夜具から二畳ほど離れて座った。沙江は前室に下がり、弥七は湯を替えに母屋へ戻っている。
「話せるか」
「はい」
前夜より声は通った。返事をしたあと、青年は椀を置き、膝の上へ手を揃えた。久馬へ向かって頭を下げる。篠にも同じ深さで下げ、前室の沙江にも向き直ろうとした。
「動かなくてよい」
篠に止められ、青年は身体を戻した。
「助けていただき、ありがとうございました」
誰へとも分けずに言った。家の主、医師、娘、奉公人の順を探る様子がない。礼は知っている。その形が、この家で求められるものと少し違っていた。
「名を聞く」
青年の指が膝の上で重なった。
「戸ヶ崎弦です」
久馬は一度だけ復唱した。
「戸ヶ崎弦」
「はい」
名には迷いがなかった。
「どこから来た」
「広島です」
「広島藩の者か」
弦は久馬を見たまま答えなかった。
「城下か。村なら、その名を」
返事はない。問いを受け取ったあとで、口を閉じていた。
「広島で、何をしていた」
「学校にいました」
「何を学ぶところだ」
弦の視線が夜具へ落ちた。
「家は武家か。町人か」
答えない。
「父の名は」
指が一度、強く組み合わされた。
「母はいるか」
弦は顔を上げた。口が開きかけ、閉じた。知らない者の顔ではなかった。久馬は次を問わずに待った。弦の口はもう一度わずかに開いたが、声にはならず、やがて口元から力だけが消えた。
「私の声は聞こえているか」
「聞こえています」
「問いも分かるか」
「はい」
それ以上は出なかった。
久馬は、同じ問いを言い換えなかった。声を和らげ、別の形で聞き直せば、答えを引き出すことには変わりがない。
「今日はここまでにします」
篠が言った。
「耳の血は止まっています。肩も、当て布を替えれば済むほどです。ただ、耳の中の鳴りと、強い音に身体が縮むことは残っています。話を重ねれば熱も上がるでしょう」
久馬は弦から目を離さなかった。
「覚えを失っているのでしょうか」
「傷から決められることではありません。名も広島も、問いを聞き違えずに答えました。何を覚えていて、何を話さないのかは、私には診られません」
「父母の問いだけ、耳へ届かなかったとも考えられますか」
「そのあとに尋ねた声は聞こえています。耳の鳴りで言葉を取り違えることはあるでしょう。けれど、どの問いにだけ答えられなくなるかを、傷で決めることはできません」
篠は弦へ、久馬の声で聞き取りにくかったところがあったかと尋ねた。
「ありません」
弦はそう答え、父母については何も足さなかった。
篠は弦へ向き直った。
「大きな音がした時、肩を動かさずにいられますか」
「分かりません」
「では、分からないままにしておきます。できると請け合わなくてよい。耳の鳴りが強くなった時は、話してください」
「はい」
篠が当て布を替え始めると、久馬は座敷を出た。前室にいた沙江が道を空ける。弦は沙江へも頭を下げようとしたが、肩が動いて顔をしかめた。
「戸ヶ崎様、そのままで」
初めて名を呼ばれ、弦は顔を上げた。
「岩井……」
「沙江です」
「沙江様」
弦はその名を一度で言った。久馬や篠へ返したより、声が一息だけ長く残った。
久馬は北側の廊下を母屋へ戻り、書きつけの間へ入った。
前夜に白いまま残した料紙を机の中央へ置く。町方へ出す覚えには、下河原で負傷した若者一人を認め、岩井家へ運び、篠の手当を受けさせたことを書いた。傷が癒えるまで同家に置き、容体が整いしだい出所を確かめる、と続ける。運び入れた刻と、届けが朝になった理由も省かなかった。
名を書く場所で筆が止まった。
戸ヶ崎弦。その四字を聞いた者は、久馬と篠と沙江である。弥七は名乗りの場にいなかった。町方へ出せば、名は一人で歩き始める。広島藩へ照会する者が出て、該当する家がなければ偽名と書かれる。学校という返答は藩校へ置き換えられ、父母を答えぬことは、隠したこととして先に綴られる。
久馬は料紙に名を書かなかった。
「身元不明」とも書かなかった。名は聞いたが、出所も家も確かめられていない。久馬は、確かめていないことを一語で決めず、公へ出す覚えには負傷した若者一人とのみ記した。末へ自分の名を記し、折って封をした。
名をあとから書き足すための空きも作らなかった。受け取る者が書き漏らしと思わぬよう、若者一人を岩井家で預かる文として行を閉じた。名を尋ねられれば、載せなかったのは久馬の判断だと答えるほかない形にした。
次に私的手控を開いた。前夜の記載の下へ、若者が戸ヶ崎弦と名乗ったこと、広島、学校と答えたことを書いた。藩、村、家の身分、父母には答えず、問いは聞こえていると答えた。最後に、公へ出す覚えには本人の名を載せず、岩井久馬の判断により岩井家の預かり人として留める、と記した。
書いた行を消さず、その下へ刻と名を記した。
名を外せば弦を守れるとは限らない。名のない一人を家へ置くことで、岩井家が怪しまれる余地は増えた。三人の運び手がいる以上、負傷者の存在は公へ出す覚えに残す。町方へは若者一人を預かる事実までを渡し、戸ヶ崎弦という名はまだ渡さない。その境を引いた者として、久馬は自分の署名を残した。
弥七が呼ばれて入ってきた。久馬は封じた覚えを渡した。
「町方へ届けろ。尋ねられたことには、見たまま答えてよい」
「若え方のお名前も、でござんすか」
「覚えには書いていない。お前は名乗る場にいなかった。知らぬことを足すな」
「へえ」
「戸ヶ崎弦と名乗った。家では、そう呼ぶ」
弥七は口の中で名を繰り返し、頭を下げた。
「旦那様。今朝までのお預かりでねえんですか」
「傷が癒え、立って行き先を選べるまでは置く」
「町方から、引き渡せと言われたら」
「その時は私が答える。お前は覚えを届けてこい」
弥七は封を懐へ入れた。
久馬は離れへ戻った。篠の手当ては終わり、弦は上体を起こしたまま壁へ背を預けていた。沙江が前室で汚れた布をまとめている。
「戸ヶ崎」
弦が顔を向けた。
「町方へは、昨夜お前を運び入れたことの届けを出した。傷が癒えるまで、この家へ置く」
弦は久馬の次の言葉を待った。
「お前の名は、その覚えから外した。広島も学校も書いていない。だが、いま答えたことと、答えなかったことは私の手控に残した」
「なぜですか」
初めて弦から久馬へ問いが返った。
「名だけが先に外へ出れば、お前の口より先に出所を決める者が現れる。私がそれをさせなかったことも、残しておく必要がある」
「私が、違う名を言ったかもしれません」
「ならば、違う名を言った事実が残る」
弦は膝の上の手を見た。しばらくして、久馬へ頭を下げた。今度は肩を動かさず、首だけを折った。
「ありがとうございます」
「礼で出所は確かにならぬ」
「分かっています」
「名を言ってはいけないのですか」
久馬は弦の顔を見た。
「お前の名だ。私が禁じることではない」
「では、どなたかに聞かれたら」
「答えるかどうかは、お前が決めろ。私は名を捨てたのではない。公へ出す覚えに載せなかった」
弦はすぐには答えなかった。
「家を出てはいけませんか」
「傷が癒えるまで、一人で外へは出すなと篠先生に言われている。癒えたあとは、どこへ行くかを私が決めるつもりはない」
「行く場所がない時は」
弦の問いは、広島へ戻る道を尋ねる言い方ではなかった。
「その時に、改めて決める」
弦は、その答えだけを二度聞くように小さくうなずいた。
久馬が立ち上がると、前室では沙江が布をまとめ終え、弦の水を新しいものへ替えていた。弦はその手元を見てから、もう一度だけ口を開いた。
「沙江様も、ありがとうございました」
沙江が振り返る。
「私は、お伝えしただけです」
「伝えていただいたので、ここが分かりました」
久馬へは礼を一言で返した弦が、沙江には理由まで添えた。
町方への覚えを持った弥七の足音が、母屋の向こうへ遠ざかっていった。
弥七が戻ったのは、昼を過ぎてからだった。町方では覚えを受け取ったが、若者が目を覚ましたなら、名と出所を追って届けるよう言われたという。
弥七は言いつけどおり、自分は名乗りの場にいなかったと答えた。町方はそれ以上、弥七には問わなかった。
「名前は分かったのかと、オラにも聞きなすった」
「何と答えた」
「オラは名乗りを聞いておりません。家のことは旦那様がお話しなさると申しました」
「それでよい」
久馬は追って出す短い書付を作った。若者は目を覚ましたが、出所はなお確かでない。容体が整うまで岩井家に留め、家の責において見る。初めの覚えと同じく、末へ自分の名を書いた。
弦の名は、この書付にも入れなかった。
二通目を封じたあと、久馬は私的手控へ、町方から名と出所の届けを求められたことを記した。町方へ出した二通には弦の名がなく、手控には戸ヶ崎弦の四字と、答えたこと、答えなかったことが残った。二つの記録の違いも、久馬自身が作ったものだった。
「これも届けろ」
弥七は二通目を受け取ったが、すぐに懐へ入れなかった。
「旦那様。若え方は、名前を言ったんですべ」
「言った」
「それを出さねえのは、あとで旦那様の落ち度になりませんか」
「なる」
弥七の手が止まった。
「なるから、私の名を入れた」
久馬がそう言うと、弥七は書付を懐へ収めた。
「へえ。今度も、見たままだけ話してきやす」
弥七が出ていったあと、久馬は書きつけの間に残った。一夜の預かりなら、朝の届けで遅れを詫びれば済んだ。二通目の書付は、目を覚ました若者を名のないまま留めると、久馬が改めて引き受けたものだった。
戸ヶ崎弦が自分で椀を持ち、粥を残さず食べられるようになるまで、幾日か掛かった。
沙江は朝夕、湯と食事を離れへ運んだ。篠が来る日は当て布と冷ました水を揃え、来ない日は言いつけられたとおり、熱が上がっていないか、耳の鳴りが強くなっていないかだけを尋ねた。
「熱はありませんか」
「ありません」
「耳は」
「鳴っています」
「昨夜より強くなりましたか」
「同じです」
傷や食事の問いには、弦は短く答えた。出所に触れなければ返事は早かった。広島や家のことへ近づく時だけ、膝の上の指が止まり、口が閉じた。
弥七が粥を置いた時も、弦は必ず礼を言った。
「毎度そっただに頭ァ下げられっと、こっちが困っちまう。食えるなら食って、早えとこ身体ァ戻してくなんしょ」
「はい。いただきます」
弥七が身を返したあと、弦は沙江へ小声で尋ねた。
「いまの、最後は何と言われたのですか」
「早く身体を戻してください、と」
「戻す」
弦はその言葉を確かめるように繰り返した。
「傷を治す、という意味です」
「そうですか。分かりました」
同じ家の者でも、弥七の言葉は聞き取りにくいらしい。広島から来たなら訛りが違うのだろうと考えかけ、沙江はやめた。どこの言葉なら、弦の話し方になるのかを自分は知らない。
食事を自分で終えられるようになると、弦は空の膳を前室まで運んだ。沙江が受け取ろうとしても、肩に無理がない日は手放さない。
「このくらいはできます」
「戸ヶ崎様は、いまはお客様です」
「客なら、何もしなくてよいのですか」
「傷が開かないことをしてください」
弦は膳を見、沙江の顔を見た。
「では、前室までにします」
ある時、弥七がその膳を下げに来た。弦はそれを渡す前に立ち上がり、弥七の持っていた湯桶へ手を掛けた。
「そっただにしたら、また肩の傷を開いちまう」
「これは両手で持てます」
「手の数の話じゃねえ。客人に湯を運ばせたら、オラが旦那様に叱られっぺ」
弦はそれを聞き、湯桶から手を離した。それでも弥七が膳と湯を両方持つのを見ると、先に北側の廊下へ出て戸を開けた。
「どうぞ」
弥七は足を止め、沙江を見た。
「この方は、何家のお育ちなんでござんしょ」
弦は戸を押さえたまま弥七へ道を譲り、急かさずに待っていた。身分を問われても口を挟まず、沙江が戸を受け取るまで手を離さない。その礼は整っていたが、客と奉公人のどちらが戸を開け、荷を持つかというこの家の作法には収まっていなかった。
「分かりません」
沙江が答えると、弥七は「そうでござんすねえ」と首を捩り、湯桶を運んでいった。
ある朝、勝手で薪が割れた。
離れまで届いたのは一度の乾いた響きだった。弦の手から椀が傾き、粥が縁へ寄った。傷のある肩を動かす前に、もう一方の腕が頭へ上がる。すぐに椀を置いたが、指が畳から離れなかった。
「薪です。弥七が割っています」
沙江が告げると、弦はうなずいた。息を整え、上げかけた腕を下ろす。
「分かっています」
「少し待ってもらいましょうか」
「いいえ。止めないでください。音が来ると分かっていれば、大丈夫です」
沙江は前室へ出た。弥七へ、次に割る前に一声掛けてほしいと頼む。薪割りをやめてしまえば、弦が家にいる限り、家の仕事を一つずつ消すことになる。
「次ァ割るぞ」と渡りの向こうから弥七の声が来た。
木の裂ける音がした。弦の肩は動いたが、腕は上がらなかった。三本目には、椀を持ったままでいられた。
「もう、知らせなくてもよいです」
弦は沙江へ言った。
「今日は知らせてもらいます」
「でも、皆さんの仕事が」
「弥七は、声を掛けても薪を割れます。戸ヶ崎様は、肩が開けば粥を食べられません」
弦は言い返さず、椀へ目を落とした。
「では、今日だけお願いします」
沙江はそれ以上言わず、膳の縁に寄った粥を布で拭った。
肩の当て布が薄くなり、頬と前腕の赤みが引くと、篠は座敷の中を歩くことを許した。さらに数日して、離れの縁までなら出てもよいと言った。
沙江は昼の薬を運んだあと、弦のために家の羽織を前室へ置いた。
「風に当たるなら、これをお召しください」
弦は羽織を手に取り、袖を通す前に前後を確かめた。形は知っていたが、紐の扱いで一度手が止まった。沙江が結び方を示すと、それを見て自分で結んだ。
座敷から縁へ出るまで、弦は柱へ手を添えた。沙江は身体を支えず、倒れそうな時だけ手を出せる距離で歩いた。
軒の下へ着いた弦は、中庭ではなく空を見た。
雲の切れた広さを端から端まで見て、次に屋根の稜と木の梢へ目を移した。日を眩しがるのとは違った。視線は何度か空へ戻り、弦は縁から足を下ろさなかった。
「庭へ降りなくても、ここで休めます」
沙江が言うと、弦は柱から手を離した。
「ここは、空がよく見えます」
「見えすぎますか」
「いいえ。見えないところが少ないので」
弦はそれ以上を言わず、軒の下へ戻った。
「ここで十分です。ありがとうございます、沙江様」
篠や弥七には『はい』で終えることが多いのに、沙江へは一言あとへ足す。そう気づいた時、沙江は数えた自分の方を恥じた。返事の長さを待つために離れへ来ているわけではなかった。
空を見上げていた弦が、屋根の内側へ一歩戻った。遠くで木戸の閉まる音がしたのだ。頭を庇いはしなかったが、視線が音のした方へ走った。
「あれは隣の通りです」
「はい」
「もう一度、座敷へ戻りますか」
「もう少し、ここにいます」
弦は軒の下から空を見た。沙江は薬の器を持ったまま、座敷の境に座った。言葉は交わさず、弦が空から目を戻すまで、沙江もそこを動かなかった。
座敷へ戻る時刻も弦が自分で決め、沙江は薬の器を持って、その後ろから入った。
十一月も半ばを過ぎると、弦は北側の廊下を通って勝手まで来られるようになった。沙江が食事を運ぶ代わりに、弦が弥七から膳を受け取る日もできた。母屋の居間や表側へは入らず、食べ終えると離れへ戻る。客として家の内にいるが、家の者と同じ場所にはまだ座らなかった。
その日、沙江は勝手で湯を注いでいた。外の道から、若い男たちの声が聞こえた。
「京がどちらへ動こうと、会津が立てば奥羽は黙っておられまい」
「水枝だって譜代だ。いざとなれば、刀を提げて出る者はいる」
笑いを含んだ声だった。戦を見た者の話ではなく、戦へ出る自分を先に見ている声に聞こえた。
弦は膳を受け取る手を止めた。板の間へ置かれた椀が傾き、汁が縁まで上がった。軍談が続くうち、薪を割った時より身体が固くなっていた。
若い声は道の先へ去っていった。
「近くのお家の方でしょう」
沙江はそれだけ言った。
「いくつくらいの方ですか」
「声だけでは分かりません。けれど、戸ヶ崎様とあまり違わないように聞こえました」
弦は膳を持ち直した。
「あの人たちは、戦へ行くのですか」
「決まった話はありません」
「そうですか」
声は安堵にも落胆にも聞こえなかった。
沙江は、なぜ若い者の話にだけ身体が固くなるのかを口にしなかった。弦の腕は頭を守る位置には上がっていない。それでも指は膳の縁に止まったままだった。
弦は膳を持って北側の廊下へ出た。いつもなら先に行くよう沙江へ道を譲るが、その日は二、三歩進んでから振り返った。
「沙江様」
「はい」
「あの方たちに、戦へ出ろと言う人がいるのですか」
「今はおりません。少なくとも、私は聞いていません」
弦はうなずき、離れへ戻った。沙江はその背を見送った。道の若い声について、それ以上の説明はなかった。弦が返した問いは、その一つだけだった。
夕刻、沙江は洗い替えの寝衣を離れへ運んだ。弦は座敷の端まで歩いて受け取り、畳んだまま枕もとへ置いた。
「先ほどの方たちは、お侍ですか」
「おそらく。お名前までは知りません」
「侍なら、皆、戦へ出るのですか」
「皆が同じお役目ではありません。父上は記録奉行ですから、城で届いた書付を確かめます。戦になれば何を命じられるか、私には分かりません」
弦は、畳んだ寝衣の襟へ手を置いた。
「岩井様は、私が答えなかったことも書くとおっしゃいました」
「はい」
「何も答えない者を、この家に置いてよいのでしょうか」
「戸ヶ崎様は、何も答えておられないのではありません。お名前と広島と学校のことは、父上にお話しになりました」
「それだけです」
「それだけをお話しになりました」
弦は沙江を見た。広島の先を問われると身構える時と同じ目だった。沙江は畳んだ寝衣の襟を整え、枕もとの空いた場所へ寄せた。広島の先には戻らなかった。
「着替えは、ご自分でできますか」
「できます。肩に触るところだけ、弥七さんにお願いします」
「では、弥七を呼びます」
沙江が前室へ出ると、弦が「沙江様」と呼んだ。
「何でしょう」
「それだけ、と言ってくださって、ありがとうございます」
沙江は返事をせず、弥七を呼びに母屋へ戻った。
その数日後、篠が小さな薬瓶を置いていった。肩の傷を洗ったあと、新しい当て布に含ませる薬だという。傷が塞がれば、長く使うものではなかった。
瓶の側には、沙江の読めない文字が横に並んでいた。篠は異国から入った薬の空き瓶を使っているだけで、中身は自分で調えたものだと言った。
沙江は夕刻、その瓶と湯を盆へ載せて離れへ運んだ。瓶を置くと、弦の目が文字へ留まった。薬を見る目ではなかった。一列目から下へ移り、途中で瓶が逆さになっていることに気づいたように手を伸ばす。瓶を半回し、文字の向きを直した。
「篠先生は、今夜の当て布にも使うようにと、おっしゃいました」
「分かりました」
弦は瓶から手を離した。沙江が盆を持ち上げても、視線は横に並ぶ文字へ残っていた。
「学校で」
弦が言った。
沙江は盆を膝へ戻した。
「はい」
「学校で、英語を習いました。少しだけです」
久馬には「学校にいました」までだった。今は「英語を習いました」と、そこから一つ先まで口にした。
「英吉利の言葉なのですね」
「はい」
沙江は瓶の文字を自分でも一度見直し、弦の手の届くところへ置いた。弦が口にした「英語」以外のことへ、次の問いは出さなかった。
「では、こちらが上ですね」
「そうです」
「次からは、この向きでお持ちします」
弦はすぐに返事をせず、やがて「ありがとうございます」と言った。
沙江は立ち上がった。前室まで出た時、背後からもう一度呼ばれた。
「沙江様」
振り返ると、弦は瓶を見ていた。
「何でしょう」
「聞かないのですか」
「薬の使い方は聞きました」
「それではなく」
弦は言葉を止めた。
「戸ヶ崎様がお話しになることは伺います。お話しにならないことは、お尋ねしません」
弦は一度うなずき、瓶へ目を戻した。
沙江はそれだけ言い、渡りを越えた。
翌朝、薬瓶は文字が読める向きのまま前室へ返されていた。沙江は瓶を篠へ返すため、その向きを崩さず包んだ。
その日から、弦は沙江が用事を告げて離れへ入ると、何を持ってきたのかを先に見るようになった。湯なら椀を寄せ、薬なら袖を上げ、食事なら起き直す。やがて、沙江の用向きへ自分から応じるようになった。
沙江も、用事が済めば離れを出た。話すことがないのに座り続けることはしなかった。別れ際、弦が「沙江様」と呼び止めることが時折あった。頼むのは水や当て布のことだけで、広島の話はしない。それでも、篠や弥七へ頼めることを、沙江が来るまで待っていたと分かる時があった。
沙江は、それを父へ話さなかった。弦が篠や弥七へも頼める水や当て布を、自分が来るまで待つことがある。それは父へ届けるべき異変ではなかった。
王政復古の報が水枝城へ届いたのは、十二月に入ってからだった。
久馬は記録奉行詰で封を解き、江戸藩邸から送られた報を読んだ。京で王政復古の大号令が発せられ、従来の政の仕組みを改め、新たな職を置くという。報には京で沙汰があった日が記されていたが、水枝で受け取った日とは隔たっている。その間に何が起きたかを埋める続報はなかった。
書役が回覧の文を待っていた。
「『天下の政、朝廷へ一統』と置きますか」
「原報にその言葉はあるか」
「大政奉還の折とは違い、王政復古と」
「王政復古の沙汰があったことは書ける。その先に、諸藩がどう従い、誰が何を握ったかは届いていない」
久馬は、京で発せられた沙汰と、水枝へ届いた報の範囲を分けた。前の回覧を写し直す必要はなかった。大政奉還のあとに届かなかった沙汰が、別の形で届いたのである。だが、御公儀が政権を返したことと、諸方の争いが終わることは同じではない。
三原主膳は原報を読み、久馬が改めた回覧へ目を通した。
「岩井。これで徳川が消えたと書かぬのはよい。だが、消えておらぬとも書くな」
「はい、三原様」
「次に来る報が、言葉だけで済めばよいがな」
三原は原報を返した。久馬はその言葉を回覧へ加えなかった。
回覧が出たあとも、久馬の机には原報が残った。「王政復古」の四字は、水枝へ届いた範囲ではそれ以上の出来事を含まない。京で何が続いたかは、まだ分からなかった。
久馬は戸ヶ崎弦の名を思い浮かべた。弦は広島と学校には答え、父母と家には答えなかった。ひと月の間、都の政について問うたことはない。私的手控に増えたのは、傷の回復と家での受け答えだった。
岩井家の預かり人へ藩政の急報を聞かせる用はなかった。それでも久馬は、王政復古の報だけを弦へ伝えると決めた。知っているかとは先に問わない。まず、城で受けた文面をそのまま告げる。そこで弦が何を返すかを見ることにした。
城を出る前、久馬は回覧の控えとは別の小紙に、王政復古の沙汰が発せられた日と水枝へ届いた日、その間の続報がないことだけを書き写した。原報の文言を持ち出すためではない。帰宅後、私的手控へ受取の順を移すための覚えである。小紙を二つに折り、懐へ入れた。
岩井家へ帰ると、弥七が式台で待っていた。
「旦那様。戸ヶ崎様が、昼の音でまた耳ァ悪うしたようでござんす。篠先生は、今夜は静かにしておけと」
「何の音だ」
「町場で木を倒したとかで。こっちまで響いたんでさ」
「肩は」
「開いてはおりません。お嬢様が薬をお持ちで」
久馬は居間へは入らず、北側の廊下へ回った。短い渡りの前で、沙江が空になった湯の器を持って出てきた。
「眠っているか」
「いいえ。横になっておられます。耳の鳴りが強いそうです」
「話はできるか」
「短くなら」
沙江は父が何を聞くのか問わず、前室へ戻った。
弦は夜具の上で身を起こした。肩の当て布はすでに取れている。頬と腕の赤みも薄れ、寝衣の上に家の羽織を掛けていた。ひと月前より身体は戻っている。耳の後ろへ指を当てていたが、顔色はいつもと変わらなかった。
「戸ヶ崎。今日、京から新しい報が届いた」
弦の目が久馬へ定まった。
「王政復古の大号令が発せられた。朝廷が従来の政の仕組みを改めるとの沙汰だ」
弦の顔から、残っていた色が失われた。
耳の鳴りを堪えた時とは違った。音を避けるために首を縮めず、頭も庇わない。久馬が告げた言葉を聞き終えたまま、膝の上で片手を握っていた。
「知っていたのか」
弦は答えなかった。
「広島で聞いたことがあるのか」
視線が久馬から外れた。父母を問うた朝と同じ沈黙だった。返事を探すように口を動かすこともなく、久馬が待つ間、弦は黙ったままだった。
沙江が湯の器を脇へ置いた。弦はその音には反応しなかった。
「京では」
弦が声を出した。
「京では、戦は始まっていませんか」
久馬は答える前に、弦の顔を見た。王政復古の報には、戦が始まったとはない。城内でも、三原が次の報を恐れただけで、戦の場所も相手も定まってはいなかった。
「届いた報に、戦の知らせはない」
「そうですか」
弦は息を吐いたが、顔色は戻らなかった。
「なぜ、戦を問う」
返事はない。
「王政復古の次に、何が起きると思っている」
弦は握っていた手を開いた。
「言えません」
知らない、とは答えなかった。
久馬は懐の手控へ触れなかった。ここで弦の言葉を取れば、また外へ出す記録と、家の内へ置く事実を分けなければならない。問うだけなら容易だった。その答えが水枝の判断を先に決めるものなら、聞いた久馬にも責任が生じる。
「言えぬのか。言わぬのか」
弦はしばらく久馬を見た。
「今は、言いません」
久馬はうなずかなかった。許したとも、信じたとも示さず、立ち上がった。
「篠先生の言うとおり、今夜は休め」
「岩井様」
弦が呼び止めた。
「水枝から、京まではどのくらい掛かりますか」
「道と使いによる。少なくとも、今日の出来事が今日届く距離ではない」
「では、この報のあとに何か届いても、それはもう起きたことですね」
「そうなる」
弦は目を伏せた。
「分かりました」
久馬が前室へ出ると、沙江も湯の器を持って続いた。二人で短い渡りを越え、北側の廊下へ入る。居間へ向かう途中で、沙江が足を止めた。
久馬は居間へは入らず、書きつけの間へ向かった。沙江は後ろからついてきたが、戸口の外で待った。
久馬は私的手控を開き、王政復古の報を告げたこと、弦が「戦は始まっていませんか」と問うたことを書いた。「今は、言いません」と答えたことも、語を変えず残した。
公の回覧には弦の反応を書かなかった。弦が顔色を失ったことも、「戦は始まっていませんか」と問うたことも、王政復古の報そのものには加えない。届いた文と、岩井家で起きた受け答えを同じ記録へ混ぜなかった。
私的手控には、王政復古の報を告げた時刻、弦が戦を問うた順、「今は、言いません」と答えたことが残った。久馬はその下へ刻と自分の名を添え、手控を閉じた。
「父上」
久馬は振り返った。
「何だ」
「戸ヶ崎様は、王政復古の意味をお尋ねになりませんでした。次に届く報せを、先に心配しておられました」
「戸ヶ崎様は、遠い土地から来たのではなく、報の届く先から来たのではありませんか」




