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秋水の藩  作者: 花房清澄


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第1話 雪下の報せ

「その一行を、回覧へ入れるな」


 岩井久馬は、書役の手から書付を抜き取った。筆先を離れたばかりの墨が、末尾で黒く盛り上がっている。


 江戸藩邸の封を帯びた急報が水枝城の大手門を通ったのは、午を過ぎて間もなくだった。使者は身元を改められて使者控に留められ、急ぎの包みだけが記録奉行詰へ送られてきた。封皮の端は濡れ、紐に雪の粒が一つ残っていた。


 原報は長くなかった。京から江戸藩邸へ入った報として、十月十四日、将軍家が政権返上の旨を朝廷へ奏聞し、翌十五日に聴許された、とある。そこまでは日付を伴う報せだった。その下へ、差出元の見立てが書き継がれていた。


 ――これにて御公儀の政道は終わり、天下の政令は朝廷へ帰すものと相見え候。


 机上には回覧用の写しが三通あった。書役は、その一行まで原報どおりに移していた。


「原報を違えぬように写しました」


「将軍家が政権を返すと奏聞したことは、ここにある。聴許されたこともある。御公儀の政道が終わったとの沙汰は、どこにある」


 書役は原報へ目を落とした。


「沙汰は……ございませぬ。江戸表の見込みかと」


「見込みを、水枝の決まった事として下へ渡すのか」


 襖の外から、下役が二度目の催促を告げた。三通のうち二通は、すでに書役衆控へ運び出したという。


「誰が持った」


 名を聞くと、久馬は下役を呼び入れた。一通は年寄・家老詰へ向かう廊下から、もう一通は奉行衆へ回す書付の束から戻すよう命じる。下役が駆け出すのを待たず、残る一通の末尾へ太く墨を引き、不用と記した。


「届いてしまった時は、読んだ者と、口頭で聞いた者の名を確かめよ。それより先へは伝えるな」


 書役の顔に、ためらいが残った。


「削れば、江戸藩邸の御見立てを伏せたと取られませぬか」


「原報からは削らぬ。三原様にも原文をお目にかける。だが、回覧は藩が何を確かなものとして渡したかを残す文だ」


「では、『政道の帰するところ、いまだ定まらず』と」


「それもこちらの見立てになる」


 久馬は原報の上段を指で押さえた。


「奏聞した。聴許された。その後の沙汰は届いていない。分からぬところを、こちらの言葉で埋めるな」


「年寄衆から、諸方が待っていると」


「待たせる。遅れを問われれば、岩井が文を改めたと答えよ」


 久馬は催促の書付を引き寄せ、余白へ、回覧文改訂につき留置、責は記録奉行岩井久馬、と記した。


 取次の間では、急報を待つ者の足音が行き来していた。警固役からは今夜の門の扱いを、勘定方からは江戸へ出す荷を止めるのかと問い合わせが来ている。まだ誰も原報を読んでいない。答えだけは求められていた。


 ほどなく一通が戻った。年寄・家老詰へ渡る前に追いついたが、取次が表題を見ていた。久馬はその名を書かせ、末尾までは読んでいないことを確かめさせた。二通目は奉行衆へ回す束の上に置かれたままで、誰の手にも渡っていなかった。


 三通が揃うと、久馬はすべてに不用の二字と時刻を書き入れ、それぞれをどこから取り戻したかも一枚に記させた。


「新しい回覧を作る」


 久馬は書役の前へ白い書付を置いた。


 江戸藩邸より急報。十月十四日、将軍家、政権返上の旨を朝廷へ奏聞。翌十五日、聴許された由。以後の沙汰は未着。


「急報にしては、あまりに短うございます」


「足す根拠があるか」


「ございませぬ」


「ならば短いまま出せ」


「末に、続報を待つ旨を置け。書役衆控から諸方へ写しを出すな。触れを求められても、それまでは待たせよ」


 三通を清書させ、年寄・家老詰、奉行衆、記録奉行詰への一通ずつとした。年寄・家老詰へ送る一通には原報を添え、残る二通には改めた本文だけを載せた。久馬は日付、受取の刻、差出元を確かめ、書役に読み上げさせてから、一通ごとに自分の名を入れた。


 清書の途中で、年寄・家老詰の取次が催促に来た。久馬が完成した一通を見せると、取次は短い本文へ目を落とした。


「江戸藩邸の御見立てを載せぬのですか」


「見立ては原報に残してある。年寄・家老には読んでいただく。だが、そのまま下へ回せば、次の写しでは誰の見立てかが落ちる。水枝の沙汰として広がる」


「三原様にも、そう申し上げてよろしいか」


「岩井が止めた、と申し上げよ」


 取次はなお一通を手に取らなかった。


「次の報せで、江戸表の見立てどおりだったと知れた時は」


「その時は、その報せを回す。今日届いていない事を、今日の決定にはできぬ」


「遅れた一刻も、記録へ残りますぞ」


「残せ。急いだために見立てを沙汰へ変えた一刻よりはよい」


 取次は原報と改めた一通を受け取り、年寄・家老詰へ戻っていった。


 書役が退出しかけたところで、久馬は呼び止めた。藩の綴りとは別にしている自分の手控を開き、原報の表題、差出元、受取の刻から本文までを写す。回覧から外した見立ても省かなかった。書役は、自分が写した一行が手控へ残るのを見て、わずかに息をついた。


 不用とした三通には、どこから取り戻したかを添え、記録奉行詰へ留めた。紙を見ない者には、今夜のうちに『岩井が江戸の報せを伏せた』と言う者が出てもおかしくなかった。


 久馬は手控の末へ時刻と名を書いた。明日の続報が江戸藩邸の見立てを裏づければ、今日の留置は遅滞として残る。


 書役が改めた回覧を抱えて退出した。取次の間の向こうから、次に何を触れればよいのかと問う声が聞こえた。


 久馬は答えなかった。次を命ずる根拠は、まだどの紙にも届いていなかった。


 答えを急がせる声だけが、紙より先に城内を走っていた。


 久馬は筆を置いた。


 夕刻、城下へ使いに出た帰りの弥七は、下河原の石の間から突き出た裸足を見つけた。


 若い男がうつ伏せに倒れていた。弥七が口元へ耳を寄せると、浅い息があり、ときどき喉の奥で掠れた。


 十七、八ほどに見えた。髪は頭皮が見えるほど短く、僧のなりではない。羽織も綿入れもなく、袂のない薄い上衣と、両脚へ細く沿う見慣れぬ下衣を身につけている。片足には、木の底へ布の甲をつけたような履物が残り、もう片方には何もなかった。


 襟の後ろから指を差し入れると、身体にはまだ温みがあった。だが、裸足は石の冷たさへさらされている。日が落ちれば、この浅い息のまま夜を越せない。


 脇へ腕を入れかけ、弥七は肩口の裂けた布に気づいた。一人で背負えば傷を擦り、脚を引きずる。人を呼びに離れる間にも、息が止まるかもしれない。弥七が土手を見上げると、荷を背負った男が通りかかった。


 弥七は帯から手拭いを抜き、裸足へ巻いた。片方の履物は脱がせず、ずれた布の甲だけをそっと直した。肩へ触れずにしてやれるのは、いまはそこまでだった。手拭い越しにも、足の冷たさが掌へ移った。


「誰か、手ァ貸してくんねえか」


 男は河原へ降り、若者の姿を認めると足を止めた。


「生きてんのか」


「息はある。東の武家地の岩井様のお屋敷まで走って、お嬢様へ伝えてくんねえか。戸板と夜具をお借りしてえ。篠先生にも知らせてもらいてえ、とな」


 男は若者の衣へ目をやった。


「先に町方でねえか。どこの者だかも分かんねえ」


「町方へ行って戻るまで、ここさ寝かせておくのか」


「そんでも、岩井様のお屋敷さ入れて、もしものことでもあったら」


「その時は、オラが旦那様に申し上げる。おめえに咎めは掛けねえ」


 弥七は着ていた上着を脱ぎ、若者の背から腰へ掛けた。


「頼む。まだ温けえうちに運びてえ」


 男が土手を駆け上がった。


 耳から流れたらしい血が片頬へ乾き、肩口の裂け目には黒い血がにじんでいた。布から出た片頬と前腕は火にあぶられたように赤いが、衣に焼け焦げた跡はない。弥七には、何を受けた傷なのか見当がつかなかった。


「聞こえるか。じき屋根のあるとこさ運ぶからな」


 若者の唇から、言葉にならない息が一つ漏れた。


 弥七は上着の隙間を塞ぎ、背のかすかな上下を見て待った。山の端の明るさが細くなり、指先は掌で包んでも温まらない。


 岩井家まで走った男の名を聞いていなかったことに、いまさら気づいた。見ず知らずの弥七に頼まれ、武家屋敷へ駆け込む義理はない。門前で追い返され、戻るのをやめたとしても責められなかった。


 弥七は土手の道へ耳を澄ませた。荷車の軋みが一度遠くを通り、犬が吠えた。若者の呼吸とは違う音ばかりが、暗くなる河原へ降りてきた。


 一度、喉の掠れが聞こえなくなった。弥七は口元へ耳を寄せ、背に目を凝らした。やがて掛けた上着の背が小さく持ち上がった。弥七は詰めていた息を吐き、若者の裸足を包む手拭いを締め直した。土手の道へ目をやる。まだ足音はなく、川風だけが上着の裾を鳴らした。


 どこの誰とも知れぬ者を屋敷へ入れれば、久馬も沙江も町方へ申し開きを求められる。使いの男が戻らなければ、手順を外したうえに手遅れになる。それでも、町方の沙汰を待って若者の温みを失う方を、弥七は選べなかった。


「ここさいる。置いてはいかねえからな」


 空に明るさがほとんど残らなくなったころ、使いに走った男が二人を連れて戻ってきた。古い戸板と畳んだ夜具を抱えている。弥七は三人の名をそこで初めて聞き、一人ずつ顔を見て声に出した。忘れれば、今夜ここへ戻ってくれた者の名まで消える。


「お嬢様が、篠先生んとこへも人を出しなさった」


 弥七は立ち上がりかけ、痺れた膝をつき直した。待たせた詫びを言う男を遮り、まず三人を若者の周りへ呼んだ。


 戸板へ夜具を敷き、一人が首と肩、もう一人が胴、弥七たちが腰と脚を受けた。声を合わせて身体を移すと、片足の履物が外れた。弥七はそれを若者の脚もとへ入れた。


「頭ァ下げねえよう、そっちを先に持ってもらいてえ」


「肩の血がまた出てるぞ」


「布は引っ張らねえでくれ。屋敷まで、このままで頼む」


 四人で戸板の四隅を持ち上げた。河原の石は踏むたびに動き、後ろの男の足もとで一つが転がると、戸板の右側が沈んだ。若者の眉間に皺が寄った。


「待ってくれ。いったん下ろすべ」


 弥七は口元で息を確かめた。土手へ上がるところでは戸板が傾かないよう、前の二人に歩幅を小さくしてもらった。武家地へ入るころには、日はすっかり落ちていた。行き合った者が戸板を覗こうとしたが、弥七は怪我人だとだけ告げて先を急いだ。


 曲がり角で、前を持つ男が振り返った。


「ほんに岩井様まで入れるのか。門先で町方を待つんでねえのか」


「門先で冷やすために、ここまで運んだんでねえ。お嬢様へ話は届いてる」


 男は黙って前を向いた。四人の歩幅が、もう一度揃った。


 脇門が見えた時、弥七は初めて屋敷へ運び込んだ後のことを考えた。沙江が門を開けていても、久馬はまだ城にいる。町方へ知らせず入れるという最後の判断は、門を越える弥七自身に残っていた。


 それでも足は止めなかった。若者の顔へ夜気が当たらぬよう、前へ掛けた上着の端を直してから、門内へ声を掛けた。


 沙江の返事がすぐに返ったことで、四人の肩から戸板の重さがわずかに抜けた。


 弥七は戸板を持ったまま、門の内へ一歩踏み込んだ。


 岩井家の脇門が開いていた。沙江が門内に立ち、土間には湯と布が揃えてあった。


「息はありますか」


「へえ、お嬢様。浅えですが、続いてござんす」


「篠先生はこちらへ向かっています。離れへ」


 沙江は若者の身なりを見たが、足を止めなかった。戸板の前へ回り、自ら手燭を低く持って、土間の段差を弥七たちへ知らせた。


 戸板は土間から勝手の脇を抜け、北側の廊下を進み、短い渡りを越えた。離れ座敷へ下ろしても、若者は目を開けなかった。


 その直後、脚もとへ入れてあった履物が戸板から滑り、敷居へ落ちた。木の底が板を打つ乾いた音が座敷へ返った。


 青年の両腕が跳ね上がった。目を閉じたまま、肘で挟むように頭を庇う。肩口に新しい血がにじんでも、腕を下ろさなかった。


「目ェ覚ましたんでねえか」


「いいえ。まだです」


 運び手の一人が、戸口から声を落とした。


「なら、いまのは何だ。オラたちを嫌がったんでねえか」


「皆様の方を見てもいません。音がしてから動いたのです」


 沙江が答えると、男は敷居の履物へ目を落とした。青年の腕は人を払いのける形ではなく、頭上から来るものを遮る形だった。沙江は自分の考えまでは口にせず、『音のあとに動きました』とだけ繰り返した。


 沙江は弥七たちに夜具の四方を持たせ、青年の首と胴を曲げぬよう身体をわずかに浮かせた。その間に戸板を抜き、勝手側へ戻してもらった。敷居の履物は前室の隅へ置いた。手を貸した三人へ礼を言い、最後の一人が渡りを越えるまで見送った。その間も、青年の腕は頭の脇から動かなかった。


「町方へは、知らせなくてよいのですか」


 最後の男が渡りの向こうから尋ねた。


「父が戻りしだい、家からお話しします。今夜ここへ運んでくださったことを、隠していただく必要はありません」


 沙江が答えると、男は黙って頭を下げた。戸を閉めたあとも、三人がこの家へ入った事実まで消えたわけではなかった。


 袂のない薄い上衣も、脚へ細く沿う下衣も、この季節に町を歩く者のなりではない。それでも沙江の目に残ったのは衣より腕だった。人の顔も見ず、声にも応じず、ただ頭だけを守った。その動きが、怪しさより先に痛ましさを残した。


 ほどなく篠が離れへ入った。青年の傍らへ膝をつき、呼吸と脈、瞼、首筋を順に確かめる。


「見つけた時から、目を覚ましていません。息は浅いまま、途切れてはいないそうです」


「吐いた様子は」


「ござんせん」


「返事がなくても、動かす前には声を掛けてください。聞こえていないとは、まだ決められません」


 沙江は青年の耳もとへ身を寄せ、これから傷を洗うと告げた。瞼は動かなかった。篠は青年を横向きにしたまま、肩口の血と砂を湯冷ましで洗う。傷は深くなく、畳んだ布を当てて押さえると、新しい血は次第に止まった。赤くなった片頬と前腕には冷ました布を置き、胸と腹へ触れた。


 篠が胸へ手を当てると、青年の眉がわずかに寄った。腹は硬くならず、骨が折れている徴も見えない。だが、目を開けない理由だけは、身体の外から探せなかった。


「火に巻かれた傷ではありません。腹の内を深く傷めた徴も、今のところは見えません。ただ、耳から血が出ています。強い音と、身体を倒すほどの力を受けたのでしょう」


「肩は刃物で斬られたのでしょうか」


「刃を引いた傷には見えません。飛んできた何かで裂けたのでしょう。熱と強い音と、身体を倒す力を、近いところで受けたのかもしれません」


「助かりますか」


「今すぐ命が尽きる脈ではありません。けれど、なぜ目を開けないのかは分かりません。今夜のうちに息が変わることもあります」


「水を含ませなくてもよいのですか」


「いまは飲ませないでください。目を開けず、うまく呑み込めなければ、かえって息を塞ぎます。吐くか、呼吸の間が長くなるか、急に熱が上がれば、すぐ知らせてください」


 沙江は水差しへ伸ばしかけた手を引いた。何かしてやりたい気持ちが、かえって息を奪うこともある。手を出さずに待つことを手当てと呼ぶのは、沙江には難しかった。


 篠が赤くなった頬の布を替えた。耳の血、肩の裂け目、身体の打ち身は、同じ出来事で負ったものらしい。けれど、その出来事を知っているのは、目を閉じた青年だけだった。


 弥七が前室で水桶を持ち替えた時、柄杓が縁から滑り、板の間を打った。


 青年の息が詰まった。片腕が額へ上がり、傷のある肩まで動いたため、当て布がずれた。瞼を固く閉じ、首をすくめて頭を守っている。


「柄杓が落ちただけです。もう済みました」


 沙江がそう告げると、篠は当て布を直し、呼吸が戻るまで青年の手首を離さなかった。


「肩の痛みで動いたのではありませんね」


「肩だけの痛みなら、音が鳴るたび頭を隠しはしません。この方は、何の音かを聞き分けるより先に身を縮めています。よほど恐ろしい目に遭ったのでしょう。目を覚ましても、問いを一度に重ねないでください」


「目を開けた時、ここがどこか分からなければ、また恐れるかもしれません」


「屋根の下にいて、傷の手当てをしている。それだけを先に伝えてください。分からないことまで、いま約束する必要はありません」


 沙江は青年の腕を無理に下ろそうとはしなかった。傷のある肩へ力が掛からぬよう折った布を差し入れ、腕そのものは力が緩むまで待った。篠も急かさなかった。


 沙江は前室と渡りの戸を急に閉めないよう弥七に頼み、自分は離れへ残った。父が戻ったら、まず伝えるべきことは身なりの異様さではない。青年が、音のたびに頭を庇ったことだった。


 湯を取りに立つ時も、誰か一人は座敷へ残るようにした。篠が手当てに目を落とせば沙江が呼吸を見、沙江が前室へ出れば弥七が戸口へ座った。家の中を無音にはできない。それでも、次の音まで青年を一人にすることはなかった。


「お嬢様。旦那様がお戻りになったら、オラが初めから申し上げます」


「父上は、町方へ知らせなかったことをお尋ねになるでしょう」


「咎めなら、オラが受けます」


「私が門を開けました。弥七だけのことにはできません」


 弥七は沙江を見返した。叱られると怯える娘の顔ではなかった。「なら、見たままを初めから話します」と言い、久馬を迎えるため母屋へ戻った。


 沙江は、また一人ぶん近くなった座敷で青年を見守った。


 沙江より二つほど上にしか見えないその顔を、異装だけで怪しい者と呼ぶ気にはなれなかった。


 本丸表門を出てほどなくして久馬は岩井家の表門をくぐった。式台へ上がると、弥七が手燭を持って玄関の間で待っていた。


「旦那様、お帰り早々、申し訳ござんせん。下河原から、若え者を運び入れました」


 久馬は式台で足を止めた。


「生きているのか」


「へえ。息ァ浅えですが、見つけた時から途切れちゃいません」


「町方へは」


「まだ知らせておりません」


「運んだ者は」


「オラのほかに三人。離れまで入っております」


 久馬は脇門から離れまでの道筋と、三人の名を確かめた。三人とも、青年を岩井家へ運び入れたことを知っている。町方へまだ届いていないことと、知る者の範囲だけを押さえ、それ以上、弥七に理由を言わせなかった。


 居間では沙江が待っていた。


「あの若者は話したか」


「いいえ。まだ目を開けません」


 沙江はそれだけ答え、膝の上で手を重ね直した。


「父上。履物が落ちた時と、柄杓が落ちた時、あの方は頭を庇いました。目を閉じたままです」


「音がしてからか」


「はい。二度とも」


「篠先生は、何と」


「傷の痛みだけで動いたのではないと。身体が音を恐れているのだろうと、おっしゃいました」


「お前は、どう見た」


 沙江は答えを急がなかった。


「何かを防いだのだと思います。音を立てた物ではなく、そのあとに来る何かを」


「見たことか」


「いいえ。私の考えです」


「ならば、いまはそこまでだ」


 沙江は「はい」と答えた。


 久馬は立ち上がった。


「篠先生は」


「離れにおられます」


「お前も戻れ。私が話を聞く」


 沙江は一礼し、久馬より先に北側の廊下へ出た。その足が、ふだんよりわずかに速いことを久馬は見た。


 北側の廊下を抜け、短い渡りを越える。前室からでも、袂のない上衣と、頭の形が分かるほど短い髪が見えた。篠が青年の傍らから顔を上げた。


「命に関わる傷でしょうか」


「脈は、まだ保っています。ただ、目を覚まさない理由は分かりません」


「篠先生、動かせますか」


「首と身体を支えれば運べます。ただ、揺れや強い音で息を詰め、頭を庇おうとします。肩の傷もまた開くでしょう」


「今夜、問いに答えられる見込みは」


「ありません。目を覚ますかどうかも、朝まで容体が変わらないかどうかも、いまは請け合えません」


「町方まで運んだ場合は」


「運ぶことはできます。ただ、今と同じように頭を庇えば、肩の傷は開きます。押さえれば、なお強く身体を縮めるでしょう」


「篠先生は、この家へ置く方がよいとお考えですか」


「私が言えるのは、動かした時に身体へ何が起こるかまでです。町方へ届けるか、こちらへ置くかは、私が決めることではありません」


 篠は久馬の判断を促しも止めもせず、青年の手首へ指を戻した。その答えで、久馬はかえって決断を他人へ預けられなくなった。


 久馬は座敷へ入った。


 青年は夜具の上で横を向き、胸もとだけが浅く上下していた。片頬と前腕には冷ました布が置かれ、肩には血のにじみが止まりかけた当て布がある。耳の外には、拭いきれなかった赤黒い筋が残っていた。


 武家とも町人とも、旅の僧とも見分けられない。前室の隅にある片方の履物も、木と布を合わせた、鼻緒のない形だった。どちらにも、名や家へつながる文字はない。


 久馬が身を寄せると、青年の指が夜具をつかんだ。問いを向けたわけでもないのに眉間へ皺が寄る。久馬は伸ばしかけた手を引いた。町方へ運べば、まず衣を改められ、名と出所を問われる。答えられない沈黙が、隠している沈黙と同じに扱われることは、容易に想像できた。


 強い声や戸の音にまた腕を上げれば、逃げる気配か、手向かう動きと取られるだろう。押さえられてなお頭を庇えば、縄を掛けられるかもしれない。本人が何も語らぬうちに、周りの申立てと異装を怪しむ書付だけが先に揃う。後で何を話しても、最初に書かれた疑いとの違いを問われる。


 だが家へ置けば、弥七の独断では済まない。三人の運び手が見ている。夜のうちに息が絶えれば、記録奉行の家が身元の知れぬ者を隠した、と最初に書かれる。昼に回覧から見立てを外したことまで、都合の悪い話を伏せる性分だと結びつける者も出る。


 短い渡りの向こうに沙江がいた。近づいてよいのか迷うように、座敷の境で膝を止めている。久馬は呼び寄せた。娘は青年の顔を一度見てから、父の前へ来た。


「町方へ渡せば、この者は詮議を受ける。ここへ置けば、今度は家が咎めを受ける。お前は、それを承知で門を開けたのか」


 沙江の視線がわずかに下がった。叱責を待つ顔ではなかった。考えたことのない先まで父に問われ、答えを探している顔だった。やがて手を膝の上で握り直した。


「そこまでは考えませんでした。弥七が連れてきて、息がありました。あのまま門を閉めたら死ぬかもしれないと思いました。私には、それが先でした」


 久馬は返さなかった。娘の答えは申し開きにはならない。だが、いま決めなければならない順だけは、そこにあった。


「動かさずに置けば、朝までは見られますか」


「息と脈がこのままなら。ただ、朝まで変わらないとは申せません」


「変わった時は」


「呼吸の間が長くなるか、脈が弱まれば、すぐに人を呼んでください」


 久馬は膝を進め、青年の肩からずれた夜具の端を戻した。傷へ触れぬほどのわずかな動きにも、青年の眉が寄った。久馬は手を止めた。


 昼の回覧なら、届いていない事実を空白のまま残せた。目の前の若者には、朝まで空白でいろと命じることはできない。久馬は自分が正しいから残すのではなく、ほかの誰にも決めさせないために口を開いた。


「今夜一夜、この離れで預かります。目を覚ましても、名も出所も尋ねません」


 篠は一度うなずき、青年へ目を戻した。


 居間へ戻ると、沙江と弥七が立ったまま待っていた。


「今夜は離れへ置く。町方への届けは、明朝あらためて決める」


 弥七が畳へ手をついた。


「旦那様。町方さ知らせねえで運んだのは、オラでさ」


「運んだのはお前だ。預かると決めたのは私だ。問われれば、その順で答える」


 弥七は顔を上げたが、久馬はそれ以上言わせなかった。


「下河原でお前が見たことは、お前の名で話せ。今夜ここへ置くと決めたことまで、背負うな」


「旦那様のお名前を出して、ええんですか」


「私の名を伏せれば、今度はお前が嘘をつくことになる」


「三人には口止めをするな。誰かに問われても、見たままを話してよい。明朝、私から礼を言う」


「へえ」


 弥七は一度だけ強く唇を結び、頭を下げた。


 畳へついた掌には、戸板の縁を握り続けた赤い跡が残っていた。弥七は指を曲げて隠したが、久馬は見ていた。


 沙江は久馬を見た。


「父上。あの方が目を覚ましたら、初めに何と申し上げればよいのでしょう」


「ここは水枝の岩井家だ。手当てのために運んだ。そう伝えろ」


「その言葉は、私が伝えてもよろしいでしょうか」


「朝まで目を開けぬかもしれぬ」


「それでも、篠先生のお側におります」


 沙江は目を伏せなかった。


「よい。残れ」


「水を求めた時は、どういたしましょう」


「篠先生の指図に従え。返事を得ることを先にするな」


 沙江は一礼した。


「父上。公の帳面には、何とお書きになるのですか」


「今夜は書かない」


「それでは、隠したことになりませんか」


「預かった刻と私の名は手控へ残す。名も事情も聞けぬ者へ、こちらから先に疑いの名をつけることはしない。明日届けるなら、下河原で見つけたところから順に私の名で差し出す」


 沙江はすぐにはうなずかなかった。久馬は答えを急かさなかった。


 二人が離れへ戻ると、久馬は書きつけの間へ入った。机上には、公へ回す白い料紙と私的手控が並んでいる。久馬は料紙を脇へ押し、昼に原報を写した頁を開いた。受取の刻と自署の下に、半日分の余白があった。


 『身元不明』と書きかけ、久馬は筆を止めた。名を聞けていないことと、名のない者であることは違う。四字を塗り、負傷した若者一人を今夜一夜、岩井家離れへ預かる、と書き直した。決めた刻を添え、その末へ自分の名を置いた。


 公の料紙は白いまま残した。手控の黒い塗り跡だけが、書き直した言葉より濃く残った。


 廊下の向こうで離れの戸がかすかに鳴り、久馬は顔を上げた。呼ぶ声はない。それでも筆を置く時、指先が硯の縁へ触れ、乾いた音を立てた。昼にはなかった音だった。


 久馬は手控を閉じた。記したことで正しくなったわけではない。明日、町方へ差し出せば遅れを問われ、差し出さなければ隠したと問われる。そのどちらにも、今夜の青年の息は答えてくれない。


 筆を置き、立ち上がった。


 青年は家の寝衣に替わっていた。脱がせた衣は前室の衣類箱へ収められ、片方だけの履物は内納戸へ移されている。見慣れた寝衣に包まれても、短い髪と耳もとの血は、この家の誰とも似ていなかった。篠は手首に指を置き、沙江は夜具を隔てた向かいに座っていた。弥七は湯の器を抱え、置き場所を探していた。


 久馬は座敷と前室の境へ膝をついた。


 この場には、青年を呼ぶ名がなかった。篠は容体を見るために名を要さず、沙江は用意した言葉をまだ届けられない。久馬も、若者という呼びかけさえ口にしなかった。


 火は顔から離してある。沙江は唇の内で『ここは岩井家です』と一度だけ形を作り、声にはしなかった。弥七は器を両手で抱えたまま、戸板を握った跡の残る掌を湯気にかざした。誰も青年を起こそうとはしなかった。


 青年の喉がかすかに動いた。久馬の指が膝の上で開く。名を問う言葉が口元まで上がったが、沙江が声を待っている横顔を見て止めた。答えを求めるのは、青年のためではなく、自分の不安を終わらせるためだと気づいた。


 燭芯が一度はぜた。沙江の目が青年の腕へ動き、弥七は器を持つ手を止めた。篠も手首から指を離さず、久馬自身も次の音を待った。


 青年の乾いた舌が唇を湿らせた。沙江が水差しへ目をやる。篠がわずかに首を振ると、沙江は膝へ手を戻した。


 胸が上がり、沈む。しばらくして、次の息が来ないまま胸が沈んだきりになった。


 沙江が身を乗り出しかける。篠は片手を上げて制し、手首に置いた指を動かさなかった。


 やがて青年が細く息を吸った。胸がわずかに上がり、ゆっくり沈む。


「息は戻りました」


 篠が手を下ろした。沙江は膝の上で握っていた指をほどいた。


 青年の瞼は開かなかった。沙江は声を掛けず、次の息が同じ間で続くまで傍らを動かなかった。


 しばらくすると、青年の指が一度だけ曲がり、夜具をつかんだ。沙江はその指先へ目を落とした。布に深い皺が寄り、手の甲に筋が浮く。やがて力が抜け、皺もゆっくり戻った。


 沙江は居間で教えられた言葉を口にしかけ、青年の瞼が閉じたままなのを見て止めた。そのまま声を掛けず、青年の呼吸を見ていた。篠も何も言わなかった。


 家の内が静まると、城から持ち帰った紙のことが遠い昼の出来事のように思えた。久馬は境に座ったまま、次の息を待った。


 立てば書きつけの間へ戻れる。久馬は一度膝を浮かせ、青年の指が夜具を離すのを見て座り直した。今夜ここへ置くと決めた者が、最初に席を外すわけにはいかなかった。


 弥七が湯を替えるため、渡りへ出た。戻って板戸へ手を掛けた時、中庭を回った風が背後から戸を押した。引き留める間もなく、戸が柱へ強く当たった。


 青年の息が詰まった。両腕が跳ね上がり、横向きのまま頭を抱えた。肩の当て布がずれ、身体が夜具の上で固く丸まった。


 沙江が傍らへ寄った。


「ここは――」


「来る」


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