第10話 斬らぬ剣
「次は、若い者へ命じた役を見せていただく」
寺村が言った時、元信は二の丸の武具蔵の外にいた。
大砲、鉄砲、火薬の置き場所と口数を改める間、元信は問いに答える者として呼ばれていた。内部の役目表に、楢木宿までの運搬組を預かった者として名があるためだった。
寺村と同行の書役、吉田藤吉らは、大手門で身分札と用向きを改められ、名と人数を控えられてから城内へ入った。案内役と久馬、白井ら水枝側の立会人が付き、許された場所以外へは向かっていない。
「三原殿の死亡時刻は受け取った」
寺村は武具蔵の戸を閉じさせた。
「だが、水枝の恭順を認める決裁は出ていない。武器を持つ者と、動かせる者を、別に改める」
元信は腰の大小へ手を近づけなかった。
元服を済ませた十八歳の身である。役を預けられ、退く時を自分で決め、帰せなかった者の名も背負った。それでも、若い者の扱いを決める場では、自分より先に久馬の手が動く。
自分の名が消されたとは、もう思っていない。
久馬へ任せてよいとも、思っていなかった。
寺村方の一行は、案内に従って記録奉行詰へ移った。
内部役目表は、記録奉行詰の文庫から久馬が出した。封紙の継ぎ目と印を双方の書役に改めさせ、原本の所在と封を解く理由を別の控えへ残す。
「これより封を解く」
久馬が封紙を切った。
役目表には、救護、運搬、道路と橋の確認、火消し、連絡、町場の維持に分けて名が記されていた。寺村方の書役が役ごとの人数を別紙へ写した。
個人名へ筆を移そうとしたところで、久馬が止めた。
「名は検分に留め願いたい。写すのは役ごとの人数までだ」
「氏名を照らさず、動員の有無を確かめられるか」
「これは、水枝の内で役を渡す表だ。兵と軍夫を選ぶ帳ではない」
「役に就いている者を、兵や軍夫へ転じられぬ証しにもならぬ」
「転じれば、その役が欠ける」
「欠けることと、出せぬことは同じではない」
書役の指が一つの名で止まった。
「片倉元信。運搬組差配」
「私にございます」
「楢木宿まで道を知るか」
「道筋は存じます」
「鉄砲は」
「心得があります」
書役の筆が動いた。
「いまの答えは、役目表とは別に記すよう願いたい」
久馬が言った。
「この表から読めるのは、元信が楢木宿への運搬組を預かったことまでだ」
寺村は止めなかった。
頁がめくられた。
新田清之助の名が、輸送組の中に残っていた。
「この者は」
「帰還の列で銃創を受け、死亡しました」
「死亡者を残しているのか」
「役を担った事実を消しておりません。現に動かせる人数へは数えていません」
死亡記録が出され、役目表の名と死亡した者の名が照らされた。
元信は、清之助の名から目を離さなかった。
役を与えられた名が残っている。
帰る列にいたことも、死んだことも、別の記録にある。
清之助を、いなかった者にはしていない。
寺村方の書役が役目表を閉じた。
元信の目には、先ほど見た自分の名と、頁を隔てて残っていた新田清之助の名がまだ残っていた。
「原本は、本営で回答書と照らす」
寺村が言った。
「持ち出しの覚えを作る。返却は本営の決裁後とする」
「待たれたい」
久馬が原本の上へ手を置いた。
「許したのは城内での検分までだ。原本の持ち出しではない。要る箇所は立会いのもとで抄本とする」
「水枝が作った抄本だけで、動かせる者を都合よく外していないと、どう確かめる」
「役と人数、用いた時期、指図した者までは写す。検分に要らぬ個人名は出さぬ」
寺村は書役へ目を向けた。
「原本を持て」
「原本の持ち出しには応じられぬ」
「恭順を認められていない藩の軍用に関わる帳だ。提出するかどうかを、水枝だけでは決められぬ」
寺村方の書役が原本を布で包んだ。
清之助の名は消してはならない。
その名を、人を選ぶ側へ渡してもならない。
本来は別の手順で守る二つのことが、包まれていく一冊を見た瞬間、元信の中で重なった。
「それを置け」
元信は立ち上がった。
「元信、動くな」
久馬が命じた。
「原本は私が止める。お前は下がれ」
元信は下がらなかった。
自分の名をどう扱うか、久馬は自分へ聞かずに決めた。
今度も任せて座っていろという。
寺村方の書役が包みを抱えて戸口へ向いた。
元信は机の端を回った。
藤吉が一歩前へ出た。
右手は刀へ掛けなかった。左腕だけを元信の胸の前へ伸ばした。
「検分中だ。下がれ」
「退け」
「触れるな」
藤吉の左手が元信の肩を押し返した。
元信は鞘を押さえた。
久馬がもう一度制するより先に、右手が柄を引いた。
鞘走った刃を、元信は行く手を遮る左前腕へ振り下ろした。
藤吉の袖が裂けた。
刃は腕を抜けず、肉に入ったところで止まった。藤吉が身を引くと刀身が外れ、開いた傷から血があふれた。
藤吉は左腕を胸へ抱えた。右膝が畳へ落ちた。
寺村方の兵が刀へ手を掛けた。
「抜くな」
白井が言った。
「水枝の者が取り押さえる。吉田殿を先に運べ」
水枝側の一人が折った布を藤吉の左前腕へ押し当てた。藤吉は右手でその上を強く押さえた。
久馬は元信の正面へ立った。
「刀を置け」
元信の手には、抜いた刀が残っていた。
斬られた藤吉の左腕が、離れたところで血に濡れている。役目表は寺村方の書役が抱えたまま、戸口の手前で止まっていた。
「元信」
久馬がもう一度呼んだ。
元信は刀を畳へ置いた。
水枝の詰番二人が両腕を取り、後ろへ回した。縄が手首へ掛かる。白井が刀を拾い、鞘とともに別の者へ預けた。
「片倉元信の刀は、水枝が預かる」
久馬は寺村へ向いた。
「逃走させぬ。藤吉殿にも近づけぬ」
「身内で預かって終わらせるつもりか」
「身内預かりで済ませぬ。抜刀と傷害を記し、上様へ直ちに処分を伺う」
元信は詰番に立たされた。
「吉田殿」
運ばれようとしていた藤吉が顔を上げた。
元信の方へは来なかった。
右手を上げ、近づけるなと示した。
「その者を先へ出せ」
寺村が言った。
元信は詰の外へ連れ出された。
背後で書役が刃傷の覚えを読み上げた。
片倉元信、抜刀。
吉田藤吉、左前腕負傷。
内部役目表をめぐる検分中の傷害。
発生した刻。
居合わせた者の名。
元信は、自分の名に続いて藤吉の名が読み上げられるのを聞いた。
藤吉は傷口を押さえられたまま、城下の篠の診療所へ運ばれた。寺村と久馬が付き添い、知らせを受けた沙江と弦が篠の手伝いに入った。
藤吉は左袖を肩近くまで外され、折った敷物の上へ腕を載せていた。
沙江が布を篠へ渡す。弦は血のたまった鉢を下げ、新しい湯を入れた鉢へ替えた。
「指を動かしてください」
篠が言った。
藤吉は左手の指を一本ずつ曲げた。薬指を動かしたところで息が詰まった。
「もう一度、開いてください」
指は震えながら開いた。
篠は手首の向きを変え、傷を確かめた。弦は言われた位置で肘を支え、篠が布を求めれば渡した。
「筋は断たれておりません。骨にも刃は届いていないようです」
篠は藤吉の指先へ触れた。
「触れているのは分かりますか」
藤吉がうなずいた。
「手は残ります。ですが、傷は浅くありません。少なくとも二十日は、この腕で務めへ戻してはなりません。傷の閉じ方によっては、ひと月ほどかかります」
「今日のうちに、我らの宿へ移せるか」
戸口にいた寺村が尋ねた。
「今は動かさぬ方がよいでしょう。今夜はここで、血が戻らぬか見ます」
篠が傷へ薬を当て、布を重ねた。
診療所の表から、水枝の使いが取り次がれた。
「岩井様。片倉元信が、吉田殿へ詫びを申し入れたいと」
藤吉の肩が上がった。
「入れるな」
「言葉だけでもと」
「受けません」
藤吉は使いの方を見なかった。
久馬が取次へ告げた。
「それ以上取り次ぐな。藤吉殿へ近づけぬことも、拘束の命へ加えよ」
取次が下がった。
「藤吉殿の治療は水枝が負う。療養中の食と宿、後送に要する人馬と費えも同じだ」
寺村が言った。
「口で済ませるな」
「傷の所見とともに記し、私が署名いたす。水枝の責めまで元信一人へ負わせぬ」
ほどなく義政の下知が届いた。
片倉元信は本日より帯刀停止。大小は城預かり。後沙汰まで押込。呼出しのほか外へ出ることを許さず、見張りを付ける。
使者は同じ文言を二度読み、水枝側と寺村方の書役がそれぞれ控えた。
白井が押込までの見張り、食を運ぶ者、呼出しの記録を定めた。
元信の抜いた刀と脇差は城預かりとなり、受け取った者と保管先が記された。
藤吉は元信を赦さなかった。
日が傾き始めてから、沙江は久馬とともに記録奉行詰へ入った。
内部役目表は、検分を中止した刻に再び封じられていた。寺村方の書役は、持ち出さなかったことと、原本を記録奉行詰へ戻すことを控えへ残している。
持ち出しの求めを取り下げたとは、どこにも書かれていなかった。
久馬は原本を文庫へ戻した。
机上には、朝からの経過を記した完全記録が開かれている。
沙江は父の肩越しに最後の行まで読んだ。
検分に入ったこと。
原本の持ち出しを寺村が求め、久馬が拒んだこと。
元信が原本を奪い返そうとし、藤吉を斬ったこと。
藤吉の左前腕の傷について、筋は断たれておらず、骨にも刃は届いていないようであること。
元信が帯刀停止、押込となったこと。
藤吉が詫びを拒み、水枝が治療と療養、後送の費えを負うこと。
「父上」
「何だ」
「元信様が、清之助殿の名を見たことは」
「本人の申し立てを取るまでは、見たと決めて書かぬ。いま書けるのは、役目表が開かれ、二人の名が見える状態にあったことまでだ」
「忠義や、名を守ったという言葉は」
「加えぬ」
久馬は完全記録の末へ目を落とした。
「抜いた理由を飾れば、藤吉殿の傷が後ろへ退く」
沙江はうなずいた。
完全記録には、元信の行為だけでなく、原本をめぐる検分の失敗も、その前後の順に残った。
久馬はその隣へ新しい料紙を置いた。
証拠抄本、と記す。
「完全記録を持って行くのですか」
「持って行かぬ」
久馬は筆を動かした。
「本営へ渡すのは、検分に要るものだけだ」
寺村方がその日に検分した大砲、鉄砲、火薬の数。内部役目表からは、救護、運搬、道路と橋の確認、火消し、連絡、町場の維持について、役ごとの人数、用いた時期、指図した者までを抜いた。
清倫館を閉じ、家へ帰した館生へ正式な役を示せず、館生らが命に背いて往還へ出たこと。
その後、救護、運搬、道と橋の確認、火消し、連絡、町場の維持を正式な役とし、帰る刻限と撤退条件を定めたこと。
帰還の列で輸送組の一名が銃創を受けて死亡したこと。
奥羽側へ兵も軍夫も出さず、人別控も提出しなかったこと。
一つずつ出典を添えた。
「清之助殿の名は」
「抄本には書かぬ。問われれば答える」
「元信様は」
「傷害の事実経過には記す。藤吉殿を斬った者の名は外せぬ」
「完全記録には名を残し、外へ出すのは必要な名だけなのですね」
「そうだ」
それ以上、沙江は尋ねなかった。
久馬は証拠抄本へ署名し、作成した刻を書き添えた。
次に、年寄・家老詰から、早坂へ渡した自署の拒否回答の控えを取り寄せる。持ち出した刻は、同所の控えへ残した。
三枚目には、裁可前の拒否回答、三原の別時刻の追認、寺村からの重き身命の要求、三原を「重き身命」とした正式回答、切腹と死亡時刻、今日の検分、元信による藤吉傷害までを順に記した。
四枚目には、久馬自身の責任を書いた。
裁可前に拒否回答を発送した責め。
内部役目表原本の提出を拒んだ責め。
水枝の検分中に官軍側の兵を傷つけたことについて、記録奉行として負う責め。
藤吉の治療、療養、後送を水枝の負担として履行させること。
元信の抜刀は元信の名に残した。
久馬自身の判断は、自分の名に残した。
末へ、記録奉行・岩井久馬と自署した。
四文書をそれぞれ包んだ。
「これだけですね」
「これだけだ」
内部役目表は文庫から出さない。
完全記録も本営へ持って行かない。
完全記録の原本を岩井家へ移すこと、記録奉行詰から持ち出した刻、預かり先を別の控えへ記し、その控えは詰へ残した。
寺村方へは、今夜、先鋒本営へ出頭する旨を伝えさせた。
その夜、岩井家へ戻ると、久馬は完全記録を書きつけの間の文箱へ納めた。
沙江の前で蓋を閉め、錠を掛ける。
鍵を沙江へ差し出した。
「預かれ」
「開けることも、誰かに見せることも、私が決めるのですか」
「預けるのは原本と鍵だ。閲覧を決める権限ではない」
「父上がお戻りにならない時は」
「次の正式な決定が届くまで、文箱を開けずに守れ。口上だけで取りに来た者へは渡すな」
沙江は鍵を受け取った。
「戻らない場合にも、ですか」
「戻らない場合にもだ」
鍵へ紐を通し、沙江は帯の内へ結んだ。
久馬は四つの包みを一つの風呂敷へ収めた。
沙江は、前から支度していた平素の登城着を出した。
久馬は受け取らなかった。
衣類箱の下から白小袖と白袴を取り出す。
「父上」
「これを着る」
「なぜですか」
「本営で身柄を留められ、その先で死を命じられた時、水枝へ着替えを取りに戻す者を出さずに済む」
沙江は手を出さなかった。
久馬は自分で白小袖へ腕を通し、白袴を着けた。
鏡へ向かうこともなかった。
着替えを終えてから、自分の印を懐へ入れた。
「戻ると、言ってください」
久馬は風呂敷を手に取った。
「言えぬ」
「では、戻られた時、最初にどこへ知らせが来ますか」
「大手門で帰着を確かめた後、岩井家へ使いが来る」
「誰が受けますか」
「お前だ」
「分かりました」
沙江も父に従い、大手門まで歩いた。
寺村方への引き渡しを受け持つ水枝側の者が待っていた。
久馬は大小を外し、その者へ預けた。
門外には寺村方の者がいた。
「岩井久馬殿。先鋒本営へ御同行願う」
「承知した」
久馬は四つの包みを収めた風呂敷を持ち、大手門を出た。
門番が出立の刻を控えた。
沙江は父の背を追わず、岩井家へ戻った。
本営へ近づくと、焚火の周りにいた兵たちが久馬を見た。
最初に見られたのは、顔でも風呂敷でもなかった。
白小袖と白袴だった。
「何じゃ、そのなりは」
一人が声を上げた。
別の者が笑った。
「腹でも切りに来たか」
「水枝の者だろう」
「会津にも兵を出さん。こっちにも出さん。都合が悪うなれば白いものを着て命乞いか」
笑いが重なった。
薩摩、長州、土佐から来た者が交じっていた。言葉の端には違いがあったが、水枝へ向けられるものは似ていた。
「腰抜けの藩め」
「刀まで置いてきたぞ」
「卑怯者が、死ぬ支度だけは立派じゃ」
「白いの。帳面で腹は切れんぞ」
久馬は足を止めなかった。
四つの包みが風呂敷の中でずれぬよう、持つ手を替えただけだった。
「おい、水枝」
背後からまた声が飛んだ。
「官兵を斬った若造がおるそうじゃないか」
「そいつの首を持って来い」
「人を斬っておいて、帳面で済ませる気か」
久馬は振り向かなかった。
「白いものを着るなら、先に腹を切って詫びろ」
本営の入口に立つ者まで笑った。
その奥から寺村の声が飛んだ。
「騒ぐな」
笑いが細くなった。
「軍務の邪魔だ。通せ」
庇う声ではなかった。
久馬はその間を通った。
通された席へ、四つの包みを順に置いた。
寺村のほか、本営側の者と書役が向かいに座った。戸口や縁側には、護衛と下役が残っていた。
久馬の白小袖と白袴について、席では誰も尋ねなかった。
「記録奉行・岩井久馬。奥羽側への拒否回答を、藩主高森義政公の御裁可前に発送した者でございます」
一つ目の包みを開いた。
「先に、水枝の失敗から申す」
清倫館を閉じ、館生を家へ帰した後の役を示さなかったこと。
館生らが命に背いて往還へ出たこと。
その後、救護と運搬を正式な役とし、帰る刻限と撤退条件を定めたこと。
寺村が途中で止めた。
「つまり、閉門で済むと思った」
「はい」
久馬は頭を下げた。
「私が誤りました」
「続けろ」
「輸送組の一名は、命じた時に退き、帰還の列で銃弾を受けて死にました」
「撃った者は」
「分かりませぬ。所属も取れておりませぬ」
「名は」
「新田清之助。抄本には名を載せておらぬ。いま問われたゆえ、申し上げた」
「なぜ伏せる」
「死を隠すためではない。役を担った名は完全記録へ残してある。その帳を、人を選ぶ帳へ変えぬためだ」
二つ目を開いた。
「これが、私が評定と主の御裁可を待たずに発送した拒否回答の控えにございます」
「三原殿の名はないな」
「ありません。三原様は後から知り、別の文、別の刻で追認された」
三つ目の事実経過を開いた。
三原を「重き身命」とした正式回答。
その受理も恭順認定も定まらないうちに三原が切腹したこと。
死亡時刻を追報したこと。
寺村は言った。
「死亡時刻の追報は受けた。だが、三原殿一人で水枝の処分が終わったとは伝えていない」
「承知している」
久馬は今日の検分まで頁を進めた。
「寺村殿が内部役目表原本の提出を求め、私が拒んだ。その場で片倉元信が原本を奪い返そうとし、吉田藤吉殿の左前腕を斬った」
戸口の外で声がした。
「それだ」
別の声が重なった。
「官兵を斬った奴を出せ」
「首を取れ」
寺村が顔を上げた。
「黙れ」
だが声は止まり切らなかった。
「人斬りを匿う藩に恭順もあるか」
「若造一人も差し出せんのか、水枝は」
「白装束の記録奉行殿は、自分の腹より人斬りの首が惜しいらしい」
笑いが起きた。
久馬は四つ目の包みへ手を置いたまま聞いていた。
寺村が立とうとした。
久馬が先に立った。
それまでと同じ声ではなかった。
「其許らに、一つ伺う」
戸口の笑いが一つ止まった。
久馬は寺村だけを見なかった。
戸口、縁側、その向こうに立つ兵たちへ顔を向けた。
「其許らの申す新しい世は、若い命を、子らを、また差し出して成る世か」
「何を――」
誰かが言い返しかけた。
久馬の声が重なった。
「元信は十八だ。元服を済ませた成人で、藤吉殿を斬った罪は元信の名に残す。赦されたとも申さぬ」
一度、息を継いだ。
「だが、元信一人の首を出せば、その次は人別控から別の若い名を拾うのか。その次も、また若い者か」
縁側にいた兵が口を閉じた。
久馬の声はさらに大きくなった。
「二本松では、まだ親の庇護を離れきらぬ年の者までが戦へ出され、死んだと聞いた」
誰も笑わなかった。
「会津でも、若い者が戦の中へ入っている。其許らも、ここへ来るまでに見て来られたであろう」
久馬の声が一度だけ揺れた。
「年端もいかぬ者が倒れているのを。親を失った子を。子を探す親を。自分の子や、孫や、弟ほどの者が、戦の中へ消えていくのを」
久馬はそこで言葉を切った。
目の縁に水がたまった。
拭わなかった。
「そのような世を終わらせるための、新しい世ではないのか」
声が掠れた。
それでも久馬は続けた。
「大人が始めた戦の責めを、若い者と幼い子らへ負わせる。それをまた繰り返して、何が新しい世か」
戸口で「首を出せ」と叫んでいた男が、口を開いたまま黙った。
槍を握っていた別の者が、石突を地へ下ろした。
縁側の端から、小さな声がした。
「……二本松で見た」
誰もその男を見なかった。
「俺の弟より、小さかった」
それ以上、その男は言わなかった。
別の兵が目を伏せた。
先ほどまで笑っていた者の一人が、白小袖から顔を逸らした。
久馬の頬を、涙が一筋だけ伝った。
「戦を始めた者の責めを、若い者へ負わせ続けるのか」
寺村は久馬を見ていた。
久馬も寺村を見返した。
やがて寺村が言った。
「座れ、岩井」
久馬は座った。
寺村の声は変わらなかった。
「言葉で軍勢は止まらぬ」
「承知している」
「では、何をもって水枝が害にならぬと示す」
久馬は涙を拭わなかった。
「道と蔵と救護です」
会津往還と越後境往還。
道と橋を直す者。
荷を継ぐ者。
蔵を開ける者。
負傷者を手当てする者。
「その者らを兵として外へ出せば、水枝の道も蔵も止まる。報復の兵を城下へ入れ、家々を捜しても同じだ。本営にとっても、占めて崩すより、道と蔵と救護を動かしたまま使う方が、荷も負傷者も止まらぬ」
「兵を入れず、武器は残すのか」
「大砲、鉄砲、火薬は封じ、数を照らして提出する。城門と二の丸武具蔵は再検分に応じる。監視役も受け入れる」
「米は」
「石数をここで定め、そこまでを出す。追加を求めるなら、その都度あらためて数を定め願いたい」
「道は」
「水枝領内の会津往還と越後境往還を直す。現に道を担う者をその持ち場で使う」
「片倉元信は」
「押込を続ける。監視にも応じる。ただし、直ちに引き渡して処刑することには応じられぬ」
「官兵を斬った」
「隠しておらぬ。藤吉殿も赦していない。元信の処分をなくせとも申さぬ」
久馬は四つ目の文書を前へ出した。
「抄本に偽りがあれば、岩井久馬を処分されたい。水枝が負うべき責めは、自署の一通に私の名で記した」
書役が末尾を読んだ。
記録奉行・岩井久馬。
「若い者の首を、処分の初めに据えぬことを願いたい」
寺村はしばらく何も言わなかった。
戸口からも声は上がらなかった。
やがて書役へ向いた。
「書け」
水枝側が差し出すもの。
大砲、鉄砲、火薬の封印と提出。
城門と武具蔵の再検分。
監視役。
元信の帯刀停止と押込。
藤吉の治療、給養、後送。
上限を定めた米。
領内道路の修繕。
その下へ、水枝側の求めを書かせた。
報復を目的とする城下への武装進入を行わない。
家々の一斉捜索、一斉拘束を行わない。
定めた米の上限を超える徴発は、改めて数量を定めるまで行わない。
若者の追加人別を徴しない。
水枝兵を会津攻撃へ投入しない。
元信を直ちに引き渡して処刑しない。
「監視役と検分の者は入る」
「受け入れる。報復のための兵とは分けて記されたい」
「個別に疑いが生じた者を取り調べぬとは約せぬ」
「求めるのは、一斉の名集めと一括拘束をせぬことだ」
「水枝が武器を隠し、米を出さず、道を閉じれば、この条件は保てぬ」
「その時は、違えた事実と刻を記し、改めて処置されたい。先に報復の兵を入れ、後から違反を探す順には応じられぬ」
文言は一度では定まらなかった。
本営側の書役が、まず米の数量へ筆を入れた。
「この石数では足りぬ」
寺村が言った。
「水枝を通る兵と荷が増えれば、追加は要る」
「追加そのものを拒んではおらぬ」
久馬は答えた。
「初めから上限をなくすことには応じられぬ。蔵にあるだけ出せという文では、水枝の内に残す米を決められぬ」
「本営が必要とする数を、水枝が止めることになる」
「追加を求める時は、数量と受け取る者を改めて記されたい。水枝側も残量を記す。出せぬ時は、その数を隠さず示す」
本営側の者が、書役の紙を引き寄せた。
「追加には双方の確認を要する、とするか」
「確認すれば必ず出す、という意味では困る」
久馬が言った。
「残量と必要量を照らし、改めて数量を定める、と願いたい」
寺村はしばらく黙り、うなずいた。
書役が一行を消し、書き直した。
次に道路の条で止まった。
「道路修繕に必要な人足は、本営が求めれば増やせるようにする」
「それでは、追加人別を徴しない条が空になる」
「道を直す者まで若者だから出さぬと言うのか」
「そうではない」
久馬は、証拠抄本へ指を置いた。
「現に道を担う者は使う。交代も水枝の役から出す。本営が新たに氏名を並べ、人を選ぶことには応じられぬ」
「人数が足りなくなれば」
「道のどこが止まり、何人足りぬかは水枝が報じる。不足を埋める者も水枝で定める」
「選ぶのは水枝か」
「その責めも水枝が負う」
寺村は書役へ言った。
「道路修繕に必要な人員は水枝が責任をもって配置する。氏名の提出は求めぬ。ただし人数は報告させる」
「承知した」
監視役については、本営側が城内の文庫まで立ち入れる文言を求めた。
久馬は拒んだ。
「武具蔵、城門、元信の押込は見せる。兵糧の受渡しと道路の履行も検分に応じる。記録奉行詰の文庫へ自由に入ることは認められぬ」
「また帳を隠すか」
「帳は隠さぬ。必要なものは立会いのもとで開く。監視を捜索にはさせぬ」
「疑いがあれば」
「対象と理由を示されたい。その帳を立会いのもとで開く」
寺村は書役の文を読み、文庫の語を消させた。
元信については、本営側から別の条件が出た。
「押込の場所を監視役が毎日確かめる」
「所在は見せる」
「本人にも会う」
「生存と拘束を見るためなら」
「刀を持たせていないことも」
「城預かりの大小と保管控を照らされたい」
寺村が言った。
「逃がした時は即時引渡しの停止を解く」
「逃走を水枝が助けたと認められた場合、と願いたい」
「自力で逃げても同じだ」
「その時は水枝が追捕する。逃走そのものと、水枝が匿ったことを一つにはできぬ」
本営側の者が寺村を見た。
寺村は筆先を止めさせた。
「逃走時は水枝が直ちに追捕し、本営へ報告する。匿った時は条件違反とする」
「それで承知した」
藤吉の後送についても、日を急がせないという篠の所見が条件へ加えられた。寺村方が後送先を定めても、篠が移動可能と判断する前には出さない。水枝はそれまでの食と宿、薬を負担する。
こうして一つの条件を詰めるたび、書役の紙には消した字と書き直した行が増えた。
米の上限。
追加協議の手順。
道路修繕を水枝側の既存役で行うこと。
監視役が立ち入れる範囲。
元信の押込確認。
藤吉の後送。
最後に、先鋒本営の上席による追認を得るまで、双方が新たな武力行使と徴発を行わず、現在の持ち場を崩さないと記された。
「これは、まだ恭順の認定ではない」
寺村が言った。
「処分の免除でもない」
「承知している」
「上席が追認しなければ、改めて条件を出す」
「その時も今日の文は破棄せず、認められなかった刻と理由を残されたい」
久馬は暫定文書を読んだ。
懐から印を出し、押した。
二通が作られ、一通を久馬が受け取った。
証拠抄本、事実経過、自署責任書は本営側へ預けられ、それぞれの受取を記した控えが久馬へ渡された。
早坂への拒否回答の控えだけは、照合を終えると久馬へ返された。
久馬はそれを暫定文書とともに収めた。
席を立つ時、久馬は戸口へ目を向けなかった。
先ほど「首を出せ」と叫んだ者からも、もう声は飛ばなかった。
帰路にも、久馬の大小はなかった。
大手門で水枝側の者が久馬を受け取り、帰着の刻を控えた。
預けていた大小が返された。
白井が待っていた。
「本営からは」
「追認待ちだ。それまでは双方とも持ち場を動かさぬ」
「承知した」
白井は、元信の押込、武具蔵、大手門の控えだけを確かめた。
久馬の出立後、新たに城内へ入った寺村方の者はいない。
元信も押込から動いていない。
「城内へは暫定の文言だけを伝える。元信へ余計な知らせを持ち込ませぬ」
久馬は帰着の控えへ署名した。
その足で年寄・家老詰へ寄り、早坂への拒否回答の控えを元の場所へ戻した。
持ち出しを記した控えには、返却の刻が加えられた。
大手門からの使いが岩井家へ着いた。
「岩井様、御帰着です」
沙江は相手の名と用向きを確かめてから通した。
帯の内から鍵を外す。
帰宅した久馬へ返した。
久馬は文箱の錠を確かめたが、蓋は開かなかった。
暫定文書と、本営から受け取った三通の受取控えだけを文箱とは別に置いた。
「戻りましたね」
「ああ」
沙江は、白小袖に血が付いていないことを見た。
それから食を温め直すよう伝え、篠のもとへ向かった。
弦は藤吉の血が付いた布を洗っていた。
薄い赤が鉢へ広がっている。
「弦様」
弦が手を止めた。
「父上が戻りました」
「そうですか」
「はい」
沙江は新しい水を入れた鉢を横へ置いた。
「こちらへ移します」
「ありがとうございます、沙江様」
二人はそれ以上話さなかった。
三原の死も、藤吉の傷も、久馬が戻った意味も、赤みの残る布の前では言葉にならなかった。
翌日の昼を過ぎて、先鋒本営から使者が来た。
沙江は、久馬が義政、白井らとともに文を受け取る席にいた。
昨夜の暫定文書に記された条件を水枝が履行する限り、本営は水枝の恭順を認める。
武器の封印と提出。
城門と武具蔵の検分。
監視役の受け入れ。
定めた上限内での米。
領内道路の修繕。
元信の押込継続。
藤吉の治療と後送。
その履行を条件として、城下への報復進入、一斉捜索と一斉拘束、定めた上限を超える追加徴発、若者の追加人別、水枝兵の会津攻撃への投入、元信の即時引渡しを停止する。
処分をすべて免ずるとは書かれていなかった。
違反があれば改めて処置すると、末にあった。
久馬は文を二度読んだ。
「恭順認定、でよろしいですね」
書役が尋ねた。
「『条件付き』と記せ」
久馬は答えた。
「免罪とは書くな」
沙江は、その文が控えへ写されるのを見届けた。
文を受け取っただけでは、条件は動かない。
その日のうちに、城内の各所から履行を示す控えが記録奉行詰へ届き始めた。沙江は父の脇で、書役が一通ずつ受け取るのを見ていた。
最初に届いたのは武具蔵からだった。
白井が前日に改めた大砲、鉄砲、火薬の数を再び照らし、寺村方の監視役二人が立ち会ったこと。種別ごとに数を確かめ、封を施し、封じた全数を提出の対象として双方の控えへ残したことが記されていた。
封を破る必要が生じた時は寺村方の立会いを求める。火事や暴発の危険があれば、先に人を退かせ、その後、開いた理由と刻を記録する。
久馬はそこまで読むと、控えを次へ回した。
「封じた数と、寺村方の控えの数を明日もう一度照らせ」
「承知しました」
次は大手門からだった。
監視役と検分の者については、身分、人数、用向きを確かめた上で城内へ通したこと。まとまった兵が来た場合には、昨夜の文書に照らすまで門を開かないこと。個別の取調べを求める者については、誰を何の理由で求めるのかを記させること。
沙江は、昨夜父を送り出した門を思い出した。
今度は同じ門に、通す者と止める者の境が文で定められていた。
三通目は、元信の押込から来た。
監視役が本人の所在を確認したこと。大小が城預かりのままであることを保管控と照らしたこと。押込から出していないこと。確認した刻。
元信の言葉は記されていなかった。
久馬も書き足させなかった。
「所在と拘束の確認だけでよい」
四通目は米蔵からだった。
最初に渡した俵の数と、昨夜定めた上限から差し引いた残りが、双方の控えに同じ数で記されていた。
「次の受渡しは、この残りから始める」
久馬が言った。
「今日の数を消して、新しい総数へ書き直すな」
「控えを継ぎます」
書役が答えた。
道路の控えは夕方に届いた。
会津往還と越後境往還の傷んだ箇所へ、すでに道と橋を受け持つ者の中から人数を割り振ったこと。新しい人別を作らなかったこと。不足した場所には氏名ではなく不足人数だけを記したこと。その日の作業を終えた者について、帰着の確認を始めたこと。
沙江は一枚ずつ並べられる控えを見た。
武器。
門。
元信。
米。
道。
昨夜まで一枚の暫定文書に並んでいた言葉が、その日は別々の場所で実際の役へ変わっていた。
若者の名を集める新しい帳は、その中になかった。
藤吉の後送については、その日のうちには出立の控えが来なかった。
篠がまだ移してよいとはしていなかったからだった。
翌朝、篠の所見を添えた後送の覚えが届いた。傷からの出血が戻っていないことを確認し、道を急がせないことを条件に移してよいとされている。後送先は寺村方が定め、水枝から人馬と道中の食を出す。
その後に、出立した刻と、付き添った者の人数が記された控えが届いた。
元信の名は、そこにはなかった。
久馬は後送の控えを読み終えると、ほかの履行記録と同じ場所へ置いた。
沙江は、それを見ていた。
元信の押込は解かれなかった。
藤吉の傷も消えなかった。
けれど、誰かの首を差し出したという一行も、その日の記録には増えなかった。
それから幾日かを経て、会津が降伏したとの報が水枝へ届いた。
沙江は、久馬が報を受け取る場にいた。
到着した覚えには、会津が兵を退き、抗戦を終えたことが記されていた。正確な経路も、最初に告げた者の名も揃わない箇所には、その旨が添えられた。
水枝の城と町は残っていた。
若い者の追加人別は出されなかった。
水枝兵が会津を攻める列へ加えられることもなかった。
会津を救えなかったことも、同じ日付の下へ記された。
久馬は記録へ「勝」と書かなかった。
義政の命により、大手門が開かれた。
武装した兵を通すためではなかった。
門番が名と行き先を確かめ、避難する者と、救護の布、薬、食を積んだ荷を城内へ通した。
開いた門を最初に通ったのは、避難民を乗せた荷車と、救護の荷だった。




