第9話 四人で暮らす家
第9話 四人で暮らす家
古い家の引き渡しまで二週間となり、廊下には引っ越し用の段ボール箱が積まれていた。美紀は土曜日も午前五時に起き、朝食の支度を終えてから荷物の整理を始めた。薄い灰色のトレーナーに黒い動きやすいズボンをはき、髪を後ろで一つに結んでいる。台所では大根と油揚げの味噌汁が湯気を上げ、魚焼きグリルからは塩鮭の皮が焼ける匂いが漂っていた。
修一は段ボール箱を避けるように居間へ入り、茶色いセーターの裾を引き下ろした。廊下が狭くなったと文句を言い、自分の釣り道具が入った箱を足で端へ押す。美紀が筆記用具で「修一・釣り道具」と書くと、修一は文字が小さいと言った。
「引っ越し業者が読めればいいでしょう」
「大きく書かないと、別の部屋へ運ばれるぞ」
「新居の和室へ運んでもらえばいいのよね?」
「釣り道具は庭の物置だ。和室へ入れたら狭くなる」
「物置はまだ買っていないでしょう」
「向こうへ行ってから買えばいい。俺の金で買うんだから、お前は気にするな」
修一は美紀が焼いた塩鮭を皿へ載せ、朝食が並ぶのを待たずに食べ始めた。美紀は味噌汁と御飯を運び、残った鮭のうち小さい一切れを自分の皿へ置く。修一は大根おろしがないと言い、美紀が冷蔵庫から出すまで箸で皿をたたいた。
「父さん、母さん、ちょっと相談があるんだけど」
黒いスウェット姿の拓也が、間取り図を持って二階から降りてきた。後ろには白い部屋着を着た沙織もいる。沙織は眠そうに髪をかき上げながら、椅子へ座るとスマートフォンをテーブルへ置いた。
「朝御飯を食べながらでいい?」
「俺は腹が減ったから、それでいいよ」
拓也は間取り図を四人分の食器の間へ広げた。紙の端が味噌汁の椀に触れそうになり、美紀は急いで鍋敷きを挟んで離す。間取り図には、沙織が書き込んだらしい赤い文字や丸印がいくつもついていた。
「ここがリビングで、こっちが俺たちの寝室。二階の六畳は沙織の衣装部屋にして、もう一つは将来の子ども部屋にする」
拓也は箸の先で部屋を指しそうになり、美紀が慌てて止めた。
「油がつくから、お箸では触らないで」
「ああ、ごめん」
「鉛筆を使って」
美紀が台所の引き出しから短い鉛筆を持ってくると、拓也は一階の和室を丸く囲んだ。六畳の部屋には、押し入れと小さな床の間がついている。
「母さんたちは、ここを使えばいいよ。階段を上らなくて済むから楽だろう」
「私たち二人で、この部屋を使うのね?」
「そうだよ。父さんも母さんも、これから足腰が弱くなるだろ。トイレも近いし、玄関からもすぐだから便利だよ」
「まだ階段くらい上れるぞ」
修一が塩鮭の皮を噛みながら口を挟んだ。拓也は父親の言葉を笑って受け流し、一階の廊下を鉛筆でなぞる。
「でも、夜にトイレへ行くときは一階のほうがいいだろ。わざわざ階段を上り下りしなくて済むし」
「俺は二階の部屋でもいいぞ」
「二階は使い道が決まっているの」
沙織がスマートフォンを見たまま言った。修一は気に入らない顔をしたが、美紀は一階の和室をもう一度見た。
六畳の部屋へ布団を二組敷けば、残る場所はわずかだった。それでも窓際に小さな机を置き、壁際に低い本棚を一つ置くことはできそうだった。会社の資料を確認する場所があり、好きな本を数冊並べられれば十分だと、美紀は考えた。
「この窓の前に、小さな机を置いてもいいかしら」
美紀は間取り図の和室を指で示した。拓也は味噌汁を飲みながら、簡単にうなずいた。
「いいんじゃない? 母さん、家でも仕事をすることがあるもんな」
「仕事の資料だけではなく、本も少し置きたいの」
「大きな本棚でなければ大丈夫だろ。地震で倒れないよう、低いやつにしてよ」
「今使っている本棚は大きすぎるから、処分するわ。小さい物を探してみる」
「母さんの本なんか、段ボール一箱で十分だろう」
修一が言った。美紀の本棚には、仕事に関する経営書、料理本、拓也が幼い頃に読んだ児童書、母から譲られた古い小説が並んでいる。すべてを一箱に収めることはできなかった。
「どれを持っていくか、これから選ぶわ」
「読まない本は捨てろ。古い紙は虫が出るぞ」
「あなたの釣り雑誌も、何年分も積んであるでしょう」
「あれは資料だ。魚が釣れる場所が載っている」
「十年前の釣り場が、今も同じとは限らないわよ」
「女には分からないんだよ」
修一は食べ終わった鮭の骨を皿へ残し、新聞を取りに立ち上がった。間取りの相談は自分には関係ないというように、居間の座椅子へ移ってしまう。美紀は修一の椀を流し台へ運び、戻ってから沙織の顔を見た。
「沙織さん、和室に私の机と小さな本棚を置いても大丈夫?」
沙織はすぐには答えなかった。スマートフォンの画面には、白い収納棚の写真が映っている。美紀の問いかけが聞こえなかったのかと思い、もう一度口を開こうとしたところで、沙織は画面を拓也へ見せた。
「拓也くん、この棚、和室に合うと思わない?」
「どこへ置くの?」
「押し入れの中。布団だけだと上の段が余るでしょう? 収納棚を入れれば、季節の服を置けるから」
「和室は父さんたちが使うんだぞ」
「押し入れを全部使うわけではないでしょう。少しくらい貸してもらってもいいじゃない」
沙織は美紀の机や本棚には反対しなかった。ただ、了承する言葉も口にせず、押し入れの一部を自分の衣類に使う話へ変えた。美紀は、新居では限られた収納を四人で分けなければならないのだから、多少は譲り合うものだと考えた。
「いいわよ。上の段の右側なら、沙織さんの服を置いても」
「本当ですか? 助かります。コートって、かさばるんですよ」
「その代わり、私たちの布団と衣類を入れる場所は残しておいてね」
「分かっていますよ」
沙織は笑い、収納棚を注文するため、画面を何度も押した。拓也は「まだ寸法を測っていないだろ」と止めたが、沙織は一般的な押し入れ用だから大丈夫だと答える。美紀は、和室を使うことについて沙織も認めてくれたのだと受け取った。
朝食のあと、美紀は二階の自分の部屋で本を選び始めた。窓際の本棚には薄い埃が積もり、棚の奥から古い紙と防虫剤の匂いがした。美紀は白いマスクをつけ、青色のエプロンのポケットへ小さな雑巾を入れ、一冊ずつ表紙を拭いた。
最初に手に取ったのは、拓也が小学生の頃に読んでいた昆虫図鑑だった。ページの間には、夏休みに見つけたセミの抜け殻を描いた紙が挟まっている。鉛筆で書かれた文字は曲がり、「おかあさんとみつけた」と小さく記されていた。
「こんな物まで取ってあったのか」
後ろから拓也が図鑑をのぞき込んだ。美紀は紙が落ちないよう、ページを両手で押さえた。
「あなたが八歳のときに描いたのよ。朝早く、二人で公園へ行ったでしょう」
「覚えていないな」
「木の根元でセミの幼虫を見つけて、羽化するところを見たいと言ったの。夜まで待てないから、翌朝の四時に起こしてって」
「昔から母さんは四時に起きていたんだな」
「あなたに起こされた日も多かったわよ」
拓也は笑ったが、図鑑を持っていきたいとは言わなかった。美紀は処分する本の箱へ入れかけ、手を止める。結局、昆虫図鑑を新居へ持っていく箱の底へ置いた。
「母さん、本はそれだけにしてよ。引っ越し屋から、本は重いから小さい箱へ分けろって言われたんだ」
「分かっているわ。仕事の本もあるから、三箱くらいになると思う」
「三箱も? 和室に置く場所がなくなるぞ」
「低い本棚を一つ置くと話したでしょう」
「沙織が押し入れに収納棚を置くらしいし、父さんの荷物もあるからな」
「それでも、私の物を置く場所は必要よ」
「母さんの物は少ないと思っていたけど、意外とあるんだな」
拓也は部屋を見回した。机の上には会社の資料、家計簿、縫いかけの修一のシャツ、使いかけのハンドクリームが置かれている。床には洗濯物を畳んだ籠があり、そのほとんどは美紀以外の三人の服だった。
「私は服も靴も少ないわ。これくらいの本は持っていかせて」
「別に駄目とは言っていないよ。沙織と相談しておいて」
「さっき聞いたけれど、反対はされなかったわ」
「なら大丈夫だろ」
拓也はそれだけ言い、階段を下りていった。美紀は間取り図を思い浮かべ、六畳の和室に置く物を頭の中で並べた。窓際に机、壁際に本棚、押し入れには布団と夫婦の衣類を入れる。小さな湯飲みと急須を置く盆もあれば、夜に一人で茶を飲めると思った。
昼になると、美紀は荷造りの手を止め、四人分の焼きうどんを作った。豚肉、キャベツ、人参、もやしを炒め、うどんを入れてソースを回しかける。鉄板に焦げたソースの匂いが家中へ広がり、二階から沙織と拓也が降りてきた。
「お義母さん、私、青のりはいりません」
「まだかけていないわよ」
「紅生姜も別にしてください」
「拓也は青のりをかけるでしょう?」
「多めにして。あと、肉も多め」
美紀は一人ずつ皿へ盛り、修一の分にはキャベツを少なくした。自分の皿には、フライパンの底に残った短いうどんと、もやしが多く入った。食卓にはまだ朝の間取り図が広げられていたため、汚れないよう端へ寄せた。
「母さん、和室のカーテンはどうする?」
拓也が焼きうどんをすすりながら尋ねた。美紀は箸で短いうどんをつまみ、間取り図の窓を見た。
「今の家で使っている薄い緑色のカーテンを持っていこうと思っているの。丈を直せば使えるでしょう」
「ええ? あの色、新しい家には合いませんよ」
沙織がすぐに言った。ソースが飛ばないよう髪を後ろへ押さえ、皿へ顔を近づけている。
「和室だから、薄い緑でも合うと思うけれど」
「リビングから和室が見えるんですよ。そこだけ古いカーテンだったら変です」
「では、どんな色がいいの?」
「白かベージュですね。リビングと同じ店で注文しましょう」
「特注のカーテンは高いでしょう?」
「一部屋分くらい、大した金額じゃないですよ」
沙織は間取り図へ手を伸ばし、和室の窓に赤い丸をつけた。美紀は止めなかった。自分たちが使う和室のカーテンまで沙織が選ぼうとしていることに引っかかったが、新居全体の色を合わせたいのだろうと考えた。
午後、美紀は修一と一緒に古い箪笥の中身を整理した。修一は使っていないネクタイや古い上着まで持っていくと言い、自分の物はほとんど処分しなかった。一方で、美紀の本や食器を見るたび、それは捨てろと指を差した。
「この湯飲み、欠けているぞ」
修一は青い模様の湯飲みを持ち上げた。縁には小さな欠けがあるが、美紀が母からもらった物だった。
「私が使うから、持っていくわ」
「新しい家には、新しい食器があるだろう」
「これは母が使っていたの」
「死んだ人間の物まで持っていったら、きりがない」
「あなたのお父さんが使っていた釣り竿は、三本とも持っていくのでしょう?」
「釣り竿と欠けた湯飲みを一緒にするな」
修一は湯飲みを処分する箱へ入れようとした。美紀はその手から取り戻し、新聞紙で丁寧に包んだ。新居で自分が使う物を、誰かに決めてもらう必要はないと思った。
夕方までに、「新居・和室」と書いた段ボール箱が四つできた。一箱目には美紀の本、二箱目には仕事の資料、三箱目には夫婦の衣類、四箱目には母の湯飲みや裁縫箱を入れた。箱の側面には、黒い油性ペンで大きく「一階和室」と書いた。
美紀は四つの箱を廊下の壁際へ並べた。新居では窓際に机を置き、朝食の支度が終わったあとに会社の資料を読むことができる。休日には母の湯飲みで茶を飲み、昆虫図鑑を開いて、拓也が幼かった頃を思い出すこともできる。
「四人で暮らす家なのよね」
美紀が確認するように言うと、居間でテレビを見ていた拓也が振り返った。
「そうだよ。何度も言っているだろ」
「和室は、私たち夫婦が使っていいのね?」
「もちろん。母さんたちは、そこを使えばいいよ」
沙織はソファの端でスマートフォンを見ていた。美紀の問いかけに顔を上げなかったが、反対もしなかった。画面には、白い収納棚と新しい衣装ケースが何種類も並んでいた。
美紀は沙織の沈黙を、同意だと思った。少なくとも、自分が新居へ移ることを嫌がってはいないのだと受け取った。そうでなければ、一千万円を受け取り、毎月十五万円の援助まで頼むはずがないと考えた。
その夜、美紀は「一階和室」と書いた箱の上へ、薄い緑色の座布団を一枚置いた。引っ越し当日にすぐ使えるよう、洗って乾かしたばかりの物だった。柔軟剤の匂いが残る座布団を両手で整え、美紀は新しい家で四人が囲む食卓を思い浮かべた。
翌朝の米を研ぐため台所へ向かうと、沙織が箱の横を通り過ぎた。大きく書かれた「一階和室」の文字を一度見たが、何も言わず二階へ上がっていく。美紀は、その足音を聞きながら炊飯器の蓋を閉めた。
新居へ持っていく物を決めるたび、古い家から自分の暮らしが少しずつ消えていった。それでも美紀は、行き先が決まっているのだから大丈夫だと考えた。四つの段ボール箱には、迷うことなく「一階和室」と書かれていた。




