第10話 これで報われる
第10話 これで報われる
引っ越しまで一週間となった日曜日、美紀は朝食を片づけると、居間のテーブルへ大きな布を広げた。新居の和室で使うために買った、淡いベージュ色のカーテン生地だった。美紀は薄紫色のセーターに黒いズボンをはき、首から銀色の老眼鏡を下げている。窓から入る冬の日差しの中で、布の細かな織り模様が白く浮かんで見えた。
テーブルの端には、前夜に沙織が飲み残したミルクティーと、修一が食べた煎餅の欠片が残っていた。美紀は布を汚さないよう、濡らした台布巾で何度も拭く。甘い紅茶の匂いが消えたことを確かめてから、巻き尺と裁ち鋏を並べた。
「お義母さん、本当に自分で縫うんですか?」
白いフリースの上下を着た沙織が、二階から降りてきた。寝起きの髪を大きなクリップで留め、片手にはヨーグルトの容器を持っている。美紀が昨日買って補充した物だった。
「直線に縫うだけだから、難しくないわ。窓の寸法も測ってきたでしょう」
「でも、手作りっぽく見えません?」
「生地は、沙織さんが選んだものよ。縫い目も裏側だから、外からは見えないわ」
「リビングのカーテンと、色が少し違う気がするんですよね」
沙織は生地の端をつまみ、照明の下へ持ち上げた。美紀が最初に持っていこうとしていた薄緑色のカーテンには反対したため、沙織の希望に合わせてベージュ色の生地を買い直した。それでも沙織は、すぐには納得しなかった。
「リビングの物は光沢があるけれど、和室には落ち着いた布のほうが合うと思うわ」
「お義母さんたちの部屋だから、まあいいですけど」
「遮光の裏地もつけるから、朝はまぶしくないわよ」
「私は和室では寝ないので、どちらでもいいです」
沙織はヨーグルトを食べながらソファへ移った。空になった容器とスプーンは、テーブルの端へ置かれる。美紀はそれを流し台へ運んでから、布へ待ち針を刺し始めた。
古い足踏み式のミシンは、美紀が結婚した頃に母から譲られた物だった。今では電動ミシンを使う人が多いが、美紀は自分の足で速さを調整できる古いミシンを気に入っていた。黒い本体には細かな傷があり、引き出しには使いかけの糸巻きや、拓也の幼稚園服につけた名前札の余りが入っている。
「母さん、まだそのミシンを持っていくつもりなの?」
拓也が黒いパーカー姿で台所へ入ってきた。冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップへ注ぎながらミシンを見た。
「新居でも裾上げや直し物に使うでしょう」
「重いし、場所を取るぞ」
「和室の机の下へ入れるわ。あなたが幼稚園で使った手提げ袋も、このミシンで縫ったのよ」
「そんな昔のこと、覚えていないよ」
「青い電車の布を自分で選んだの。完成するまで横に座って、まだできないのって何度も聞いたでしょう」
「俺、昔からせっかちだったんだな」
拓也は笑い、麦茶を飲んだ。空になったコップを流し台へ置くと、リビングに届く予定の大型テレビについて沙織と話し始める。美紀は二人の会話を聞きながら、ミシンの踏み板へ足を載せた。
規則正しい音とともに、ベージュ色の布へ白い糸が縫いつけられていく。布の折り目を指で押さえながら、美紀は新居の和室を思い浮かべた。窓へこのカーテンを掛け、畳の上へ低い机を置けば、小さくても自分の部屋らしくなる。
「お義母さん、縫い目、曲がっていません?」
沙織が後ろからのぞき込んだ。美紀はミシンを止め、縫った場所を定規で確かめた。
「一ミリくらいずれたけれど、吊るせば分からないわ」
「新築だから、できればきれいにしてくださいね」
「気になるなら、ここだけ縫い直すわ」
「お願いします。お友達が遊びに来たとき、和室も見るかもしれないので」
美紀は糸切り鋏で縫い目をほどいた。沙織が友人へ見せるための和室なら、自分たちの部屋もきれいにしておく必要があるのだろう。そう考え、もう一度ゆっくりと縫い直した。
昼食には、冷蔵庫の残り物で焼きそばを作った。キャベツの芯、人参、豚肉の切れ端を炒め、最後に青のりを振る。ソースの焦げた匂いが台所へ広がると、庭で引っ越し用の箱を整理していた修一も居間へ戻ってきた。
「俺の釣り竿を、処分する箱へ入れただろう」
修一は椅子へ座る前に言った。美紀は焼きそばを四枚の皿へ分け、修一の前へ置く。
「古くて先が折れている物だけよ」
「直せば使える」
「十年以上、使っていないでしょう」
「使わないことと、いらないことは違うんだ」
「では、自分で持っていく箱へ入れておいて。私はカーテンを縫わなければならないから」
修一は不満そうに箸を取り、焼きそばの中から豚肉を探した。肉が少ないと言い、拓也の皿をのぞき込む。拓也が自分の肉を二切れ分けると、修一は礼を言わず口へ入れた。
「そうだ、食器棚の支払いはどうなった?」
沙織が焼きそばの紅生姜を皿の端へ寄せながら尋ねた。新居の台所には収納がついていたが、沙織は大きな食器棚も欲しいと言っていた。白い鏡面仕上げで、炊飯器や電子レンジを置く棚まで一体になった物だった。
「今日の夕方、家具店へ行って支払う予定よ」
「カードで払うんですよね?」
「一括で払うわ。分割にすると手数料がかかるでしょう」
「いくらだった?」
修一が尋ねると、美紀は焼きそばを食べる手を止めた。
「配送と設置を入れて、二十八万六千円よ」
「棚一つに、そんなにするのか」
「沙織さんが選んだ物よ」
「安い物に変えればいいだろう」
「新居のキッチンに合うのは、これだと思います。長く使う物だから、妥協したくないんです」
沙織がすぐに答えた。家具店で白いソファを選んだときと、同じ言い方だった。
「美紀が払うなら、俺は別に構わない」
修一は青のりが歯についたまま言った。沙織は美紀の顔を見て、当然のようにうなずく。
「お義母さん、ありがとうございます。これで食器も全部きれいに片づけられます」
「新居では、使った食器を流し台へためないでね。食器洗い乾燥機もあるのだから」
「分かっていますよ。今の家は台所が古いから、やる気にならないだけです」
「では、新居では家事も分担できるわね」
美紀が言うと、沙織は焼きそばを口へ入れたまま、曖昧に笑った。
「食器洗い乾燥機があれば、機械がやってくれますよ」
「機械に入れるのは人でしょう?」
「お義母さんは、使い方を覚えるのが早そうですね」
沙織は答えをずらし、冷たい麦茶を飲んだ。美紀は、新居へ移ってから具体的に分担を決めればよいと考え、それ以上は言わなかった。
午後、美紀は家具店へ向かった。濃紺のコートに灰色のマフラーを合わせ、修理した黒い革の鞄を持っている。沙織も一緒に行く予定だったが、引っ越し前に友人と会いたいと言って出かけたため、美紀一人で支払いをすることになった。
店内には、木材と革、芳香剤の匂いが混じっていた。美紀が売り場へ行くと、白い食器棚には「ご成約済み」の札がつけられている。鏡のような扉には、天井の照明と、古いコートを着た美紀の姿が映っていた。
「こちらの商品でお間違いありませんか?」
店員が伝票を見せた。美紀は品番と配送先を一つずつ確かめる。
「はい。この住所へ、引っ越しの日の午前中にお願いします」
「お支払いは、一括でよろしいでしょうか?」
「一括でお願いします」
美紀はカードを差し出した。暗証番号を押す指には、午前中の裁縫でついた針の跡が赤く残っている。決済機から出てきた細長いレシートには、二十八万六千円と印字されていた。
「立派な食器棚ですね。新しいお家ですか?」
「長男夫婦が一戸建てを買ったんです。私たち夫婦も一緒に暮らします」
「それは楽しみですね。ご家族が多いと、これくらい収納があるほうが便利ですよ」
「そうですね。四人分の食器を入れますから」
美紀は、四人分という言葉を口にして笑った。店員が食器棚の手入れ方法を説明する間、美紀は新しい台所へ四人の茶碗を並べるところを思い浮かべた。沙織と一緒に料理をし、拓也や修一が皿を運んでくれれば、夕食の支度も今より早く終わるはずだった。
家具店を出ると、近くの商店街から焼き芋の匂いが漂ってきた。昼の焼きそばを少ししか食べていなかったため、美紀は小さな焼き芋を一つ買った。新聞紙に包まれた芋は手袋越しにも温かく、割ると黄色い中身から甘い湯気が上がった。
美紀は店先のベンチへ座り、半分だけ食べた。残りは拓也に持ち帰ろうと思い、新聞紙で包み直す。幼い頃の拓也は焼き芋の皮まで食べ、口の周りを黒くして笑っていた。
翌日の会社では、引っ越しに伴う休暇について部下へ伝えた。美紀の机には赤字事業部の資料、取引先から届いた菓子折り、昨夜急いで書いた引っ越し予定表が並んでいる。予定表の端には味噌汁の小さな染みがついていた。
「常務、引っ越しは来週でしたよね」
水野部長が紙コップのコーヒーを持って、美紀の机へ来た。美紀は資料から顔を上げ、老眼鏡を外した。
「ええ。長男夫婦の新居へ移るの」
「荷造りは進んでいますか?」
「家族四人分だから、なかなか終わらないわ。昨日は和室のカーテンを縫って、食器棚の支払いもしてきたのよ」
「カーテンまでご自分で作ったんですか?」
「買うより安いもの。それに、寸法を合わせられるでしょう」
「常務らしいですね。でも、新居へ移ったら、少しはご自分の時間を作ってください」
「私の時間?」
「今まで、お仕事も家のことも全部抱えてきたでしょう。家族が四人いるなら、家事も四人で分けられますよ」
美紀は机の端に置かれた弁当箱を見た。今朝も午前四時半に起き、四人分の朝食と二つの弁当を作ってきた。自分の弁当には、昨夜の残りの煮物と、少し焦げた卵焼きが入っている。
「新居には食器洗い乾燥機があるの。台所も広いし、沙織さんと二人なら、今より楽になると思うわ」
「それならいいですね。休日には、趣味でも始めたらどうですか?」
「趣味なんて、考えたこともなかったわ」
「本がお好きなら、図書館へ行くのもいいでしょう。新居の近くに、市立図書館がありますよ」
水野は地図を調べ、会社の端末で場所を見せてくれた。新居から徒歩十五分ほどの場所に、小さな図書館がある。美紀は画面に表示された赤い屋根の建物を見て、久しぶりに声を出して笑った。
「和室に小さな本棚を置くの。そこへ図書館で借りた本を並べるのもいいわね」
「いいじゃないですか。今度は、ご家族のためだけではなく、ご自分のために本を選んでください」
「そうしてみるわ」
美紀は机の引き出しから手帳を出し、新居の住所の横へ「市立図書館」と書き加えた。文字を書くだけで、休日に一人で図書館へ歩く姿が思い浮かんだ。帰りにパン屋へ寄り、小さなパンを買って、和室で温かい茶と一緒に食べるのもよいと思った。
その夜、美紀が帰宅すると、沙織は新居用の食器を床へ広げていた。白い皿、金色の縁がついたカップ、細長いワイングラスが、新聞紙の上へ並んでいる。美紀が長年使ってきた茶碗や湯飲みは、台所の箱へまとめられていた。
「食器棚の支払い、済ませてきたわよ」
美紀がレシートを渡すと、沙織は金額を確かめ、笑顔を見せた。
「ありがとうございます。これで、この食器も全部入りますね」
「私たちの食器を入れる場所も残しておいてね」
「古い物は、あまり持ってこないほうがいいと思います。せっかく新しい食器棚なんですから」
「母からもらった湯飲みと、毎日使っている茶碗は持っていくわ」
「欠けている物は危ないですよ」
「欠けている湯飲みは、私が使うから大丈夫」
沙織は口元を少し曲げたが、反対はしなかった。美紀は白い皿を一枚持ち上げ、裏側に貼られた値札を剥がす。四人で使う食器なのだから、誰の物かを分けなくてもよいと思った。
夕食には、鶏肉と大根の煮物、白菜の味噌汁、ほうれん草の胡麻和えを作った。修一は煮物の味が薄いと言い、拓也は鶏肉を増やしてほしいと言った。沙織は新しい皿へ盛れば、同じ料理でもおいしく見えるはずだと笑った。
「新居では、夕食の支度をみんなで分けましょうね」
美紀は御飯をよそいながら言った。拓也は煮物を食べ、気軽にうなずく。
「俺は皿を運ぶよ」
「皿だけではなく、洗濯や掃除もあるのよ」
「休みの日なら手伝うって」
「私も、新しいキッチンなら料理してみたいです」
沙織も続けた。食器洗い乾燥機や新しい調理器具があれば、今のように何もしないことはないだろう。美紀はその言葉を信じ、四人分の味噌汁を並べた。
食後、美紀は完成したカーテンを段ボール箱から取り出した。縫い直した部分を確かめ、しわにならないよう芯へ巻きつける。淡いベージュ色の布からは、新しい生地と洗濯糊の匂いがした。
一千万円を出し、毎月十五万円を援助し、家具や台所用品までそろえた。それでも家族四人で穏やかに暮らせるなら、朝四時半から動き続けた日々にも意味があったと思える。家族のために働き続けた三十五年が、ようやく新しい家という形になるのだと、美紀は信じていた。
「このカーテン、和室にきっと合うわ」
美紀が言うと、拓也はテレビから振り返った。
「母さんが使う部屋なんだから、母さんが気に入っていればいいよ」
沙織はスマートフォンを見たまま、何も言わなかった。美紀はその沈黙を反対ではないと受け取り、カーテンを丁寧に箱へ戻した。
箱の側面には、黒い油性ペンで「新居・一階和室」と書かれている。美紀は文字が消えないよう、その上から透明なテープを貼った。あと数日で、自分の机と本と母の湯飲みが、あの和室へ運ばれるはずだった。




