第11話 行き先のない荷物
第11話 行き先のない荷物
古い家の引き渡し日の朝、美紀は午前四時に目を覚ました。目覚まし時計が鳴る前だったが、台所で作る物が多く、もう一度眠る時間はなかった。美紀は紺色のトレーナーに黒いズボンをはき、汚れてもよい花柄のエプロンをつけた。窓の外はまだ暗く、冷えたガラスには細かな結露がついていた。
台所には、大きな鍋と炊飯器、四つの弁当箱を並べた。引っ越し作業の途中でも食べやすいよう、梅干し、鮭、昆布の三種類のおにぎりを握る。海苔の匂いと炊きたての米の湯気が広がり、指先へ塩がざらついて残った。
煮物の鍋には、鶏肉、大根、人参、こんにゃくを入れた。新居へ着いたら温め直せるよう、煮汁を少し多めにする。沙織は大根より鶏肉を好み、拓也はこんにゃくを残し、修一は濃い味を求めるため、美紀は一人ずつの好みを考えながら弁当箱へ詰めた。
「引っ越しの日まで料理をするのか」
修一が寝間着姿のまま台所へ入ってきた。古い家で過ごす最後の朝だったが、修一はいつもと同じように椅子へ座り、茶が出るのを待っている。スマートフォンには誰かから連絡が来たらしく、画面を見ながら口元を緩めた。
「お昼を買いに行く時間がないでしょう。引っ越し業者さんが来たら、休めないかもしれないもの」
「向こうで宅配でも頼めばいい」
「新居の周りに、どんな店があるのか分からないでしょう」
「沙織さんが知っているだろう」
「引っ越した当日くらい、温かい物を食べたいじゃない」
「お前は何でも自分でやらないと気が済まないんだな」
修一は急須を手に取ったが、中が空だと分かると、再びテーブルへ戻した。美紀はおにぎりを握る手を止め、湯飲みへ茶を注ぐ。修一は礼を言わず、一口飲んでから薄いと文句をつけた。
午前七時になると、引っ越し業者のトラックが到着した。作業員が玄関から次々と段ボール箱を運び出し、古い床板が靴の重みで何度も鳴る。段ボールと埃、長年動かしていなかった家具の裏から出た湿気の匂いが、家の中へ広がった。
「こちらの『二階洋室』と書かれたお荷物は、ご主人様の物ですね?」
作業員が修一の箱を指さした。箱には釣り道具、衣類、競馬の雑誌、飲みかけの酒まで入っている。
「そうだ。向こうへ着いたら、二階の奥の部屋へ置いてくれ」
修一が答えたため、美紀は振り返った。
「二階の奥は、将来の子ども部屋でしょう?」
「今は空いているんだから、俺が使う」
「私たちは一階の和室を使うと話したでしょう」
「お前は和室を使えばいい。俺は二階のほうが落ち着くんだ」
「夫婦で別の部屋にするの?」
「布団が二組あるんだから、どこで寝ても同じだろう」
修一は作業員へ早く運ぶよう促し、自分の箱を先にトラックへ積ませた。美紀は何か聞こうとしたが、作業員が食器棚を運ぶため台所へ入ってきた。家具を傷つけないよう壁の角へ養生材を貼る音が響き、修一との話はそこで途切れた。
拓也夫婦は、新居で荷物を受け取るため、すでに先に出ていた。修一も自分の荷物を積んだ一台目のトラックと一緒に新居へ向かう。古い家へ残ったのは、美紀と、最後の荷物を担当する作業員だけになった。
「奥様、こちらの箱は、すべて一階の和室でよろしいですか?」
作業員が「新居・一階和室」と書かれた四つの箱を確認した。美紀は箱の上に載せた淡い緑色の座布団を整え、うなずく。
「はい。私の本や仕事の資料が入っています。こちらの細長い箱にはカーテンが入っているので、上に重い物を載せないでください」
「承知しました」
「ミシンは和室の窓際へお願いします。古い物ですが、まだ使えますから」
「重いので、こちらで運びますね。奥様は持たないでください」
作業員は古いミシンを毛布で包み、二人がかりで持ち上げた。美紀は黒い本体へ触れ、傷が増えていないことを確かめる。拓也の幼稚園鞄も、新居のカーテンも、このミシンで縫ったものだった。
午前十時を過ぎると、家具がなくなった居間は声が響くようになった。畳には箪笥を置いていた跡が四角く残り、壁にはテレビの裏にたまった埃が黒い染みになっている。窓辺には、誰の物か分からない赤いボタンと、乾いた輪ゴムが一つ落ちていた。
美紀は雑巾を水で濡らし、床と窓枠を拭いた。新しい所有者へ渡す前に、できるだけきれいにしておきたかった。洗面所では、沙織が使い切らずに残した香油の瓶が棚の奥から見つかり、甘い花の匂いが指へついた。
「奥様、そこまで掃除をしなくても大丈夫ですよ」
作業員が声をかけた。美紀は黒くなった雑巾をバケツですすぎ、腰を伸ばした。
「三十年以上、暮らした家ですから。汚れたまま渡すのは嫌なの」
「長くお住まいだったんですね」
「息子が小さい頃は、この廊下を走り回っていました。何度注意しても、靴下で滑るのが好きで」
「うちの子も同じですよ。床を傷つけるから、妻に怒られています」
作業員は笑い、最後の段ボール箱を持ち上げた。美紀も口元を緩めたが、廊下の柱についた拓也の身長の線を見ると、雑巾を握り直した。鉛筆の線は拭いても消えず、次に住む人が壁紙を張り替えれば見えなくなるだろう。
昼前、不動産会社の担当者が鍵の受け取りに来た。美紀は家の中を一緒に確認し、ガスの元栓と水道、戸締まりを確かめる。台所には冷めた味噌汁の鍋が一つ残っていたため、中身を捨て、洗って最後の荷物へ入れた。
「それでは、鍵をお預かりします」
担当者が手を差し出した。美紀は古い鍵を両手で持ち、手のひらの上で一度確かめる。長年使って表面が擦れ、銀色が鈍く曇っていた。
「よろしくお願いします」
「長い間のお引っ越し作業、お疲れさまでした。新しいお住まいでも、どうぞお元気で」
「ありがとうございます」
美紀は鍵を渡し、玄関の外へ出た。扉が閉まる直前、何もなくなった台所と居間が細く見えた。毎朝四時半に立った流し台も、冷めた味噌汁を飲んだ食卓も、もう美紀が戻れる場所ではなかった。
最後のトラックに乗せてもらい、新居へ着いたのは午後一時半頃だった。玄関前には家具店の配送車と、引っ越し業者のトラックが並んでいる。風は朝より強くなり、庭の黒い土から細かな砂が舞っていた。
「母さん、遅かったな」
拓也が玄関から出てきた。紺色のトレーナーの袖をまくり、額に汗をかいている。足元には、新しい白いスニーカーを履いていた。
「最後の掃除と、鍵の引き渡しがあったの。荷物は順調?」
「大体入ったよ。父さんの箱は二階へ運んでもらった」
「やはり、修一さんは二階の部屋を使うの?」
「本人がそうしたいって言うから。将来使うときまでなら、別にいいだろ」
「私だけ和室なのね」
「母さんは階段が大変だろ。和室のほうがいいよ」
拓也は悪気のない顔で答え、美紀が持っていた食事の袋を受け取った。袋を開けると、冷めたおにぎりと煮物の匂いが流れ出す。
「わあ、母さん、昼飯を作ってきたの?」
「作業の途中で食べられるように、おにぎりにしたの。煮物は台所で温めましょう」
「助かるよ。朝から何も食べていないんだ」
「沙織さんと修一さんも呼んで。引っ越し業者さんにも、お茶を出さないと」
「母さんが来ると、やっぱり早いな」
拓也は袋を持ち、新居へ入った。美紀は「助かる」という言葉を聞き、古い家の鍵を手放したときから固くなっていた指を少し開いた。新居で四人が暮らし始めれば、これまでと同じように自分の役割があるのだと思った。
玄関には、沙織の白い靴、拓也のスニーカー、修一の運動靴がすでに並んでいた。美紀は自分の黒い靴を端へそろえ、淡いベージュ色の室内履きを出そうと鞄を探した。しかし、和室へ運んでもらう箱の中に入れたことを思い出し、引っ越し業者の予備のスリッパを借りた。
リビングへ入ると、白いソファと大型テレビはすでに設置されていた。新しい革と木材、段ボールの匂いが混じり、窓から入る光が白い床へ反射している。ソファには薄い保護シートがかかったままだったが、沙織はその上へ座り、家具店から届いたクッションを並べていた。
「沙織さん、お昼を持ってきたわよ」
「ありがとうございます。私、もうお腹がぺこぺこです」
沙織は白いブラウスにベージュ色のズボンをはき、髪を高い位置で一つに結んでいた。新居に合わせたのか、爪には淡い白色の光沢が塗られている。美紀が用意した煮物を温める間も、クッションの位置を変え続けていた。
新しい食器棚には、沙織が買った白い皿と金色の縁のカップが並べられていた。美紀が毎日使っていた茶碗や母の湯飲みは、まだ箱の中にある。美紀は鍋を温め、紙皿へ煮物を盛った。
「鶏肉は沙織さんに多め、大根は修一さんに少なくしたわ」
「お義母さん、私、こんにゃくはいりません」
「分かったわ。拓也の皿へ移すわね」
「俺は何でもいいよ。腹が減った」
拓也は梅干しのおにぎりを取り、立ったままかじった。修一も二階から降りてきて、昆布のおにぎりを二つ続けて皿へ載せる。誰も「いただきます」と言わないうちに食べ始めた。
「修一さん、二階の部屋はどうなったの?」
美紀は紙皿へ煮物を盛りながら尋ねた。修一はおにぎりを飲み込み、温かい茶をすすった。
「俺の布団も服も、全部入れてもらった。広くていい部屋だぞ」
「和室へ運ぶと聞いていたけれど」
「二階が空いているんだから、使えばいいだろう。沙織さんも構わないと言っている」
「沙織さんが?」
美紀が振り返ると、沙織は煮物の鶏肉を箸で切っていた。目を合わせず、紙皿の端へこんにゃくを寄せる。
「今は使っていない部屋ですから」
「では、私は和室を一人で使うことになるのね」
「一人なら、広く使えていいだろう」
修一は笑い、三個目のおにぎりへ手を伸ばした。美紀は自分の分として残していた鮭のおにぎりを紙皿へ置いたが、作業員へ茶を配っているうちに冷たく硬くなった。
休憩が終わると、引っ越し作業が再開された。作業員が「新居・一階和室」と書かれた箱を持ち、廊下の奥へ向かう。美紀もカーテンの箱を抱えて後ろについていった。
「奥様、こちらの部屋でよろしいですか?」
作業員が和室の引き戸へ手をかけた。美紀はうなずき、朝から何度も想像していた部屋を思い浮かべた。
「はい。窓際にミシンと机を置いて、本の箱は壁際へお願いします」
「承知しました」
引き戸が開いた瞬間、美紀の足が止まった。新しい畳の匂いより先に、強い防虫剤と沙織の香油の匂いが鼻へ入ってくる。六畳の和室には、すでに段ボール箱と透明な衣装ケースが天井近くまで積まれていた。
箱の側面には、「沙織・春物」「沙織・バッグ」「沙織・靴」「来客用食器」と書かれている。押し入れの上段にも、沙織のコートや衣類が隙間なく詰め込まれていた。美紀が使うはずだった窓際には、白い収納棚が二つ置かれ、カーテンを掛けるため脚立を立てる場所もない。
「すみません、この状態では机を入れられません」
作業員が困った顔で箱を抱え直した。美紀は部屋の中へ入り、衣装ケースと壁の間を確かめる。人一人が横向きで通れる程度の隙間しかなく、布団を一組敷く場所さえ残されていなかった。
「この荷物は、誰がここへ運ぶように頼んだの?」
美紀は廊下へ出た。リビングでは、沙織が白いソファ
# 第11話 行き先のない荷物
古い家の引き渡し日の朝、美紀は午前四時に起きた。台所の棚も冷蔵庫もほとんど空になり、いつも使っていた味噌汁の鍋は新聞紙に包まれて段ボール箱へ入っている。美紀は薄い灰色のトレーナーに黒いズボンをはき、その上から長年使った紺色のエプロンをつけた。窓の外はまだ暗く、何もなくなった居間からは、引っ越し用の箱と古い畳の匂いがした。
朝食は、紙皿に載せた塩鮭のおにぎりと、インスタントの味噌汁だった。美紀は台所の隅に残しておいた小さな鍋で、鶏肉と里芋、人参の煮物も温め直した。引っ越し作業で疲れた家族が、昼に食べられるよう用意したものだった。
「こんな日にまで料理をするのか」
ジャンパー姿の修一が、紙コップの味噌汁をすすりながら言った。修一の足元には、釣り道具と衣類が入った段ボール箱が並んでいる。どの箱にも美紀の字で「修一・新居」と書かれていた。
「お昼を買いに行く時間がないかもしれないでしょう」
「向こうには店もある。弁当を買えば済むじゃないか」
「四人分買えば高いわ。それに、温かい煮物があったほうがいいでしょう」
「お前は引っ越しても、同じことばかりするんだな」
修一は最後のおにぎりを取り、新聞紙の上へ落ちた海苔のかけらをそのままにした。美紀はかけらを指で拾い、ごみ袋へ入れる。古い家に残すごみは、引き渡し前にすべて処分しなければならなかった。
午前七時になると、最初の引っ越し業者が来た。青い作業着を着た三人が、玄関や廊下へ養生用の板を敷いていく。家具のなくなった家には、靴音や段ボールを持ち上げる掛け声が大きく響いた。
「こちらの箱は、全部同じお部屋でよろしいですか?」
若い作業員が、「新居・一階和室」と書かれた箱を指さした。美紀の本、仕事の資料、衣類、母の湯飲みや裁縫箱が入った四箱だった。
「はい。一階の和室へお願いします」
「机と本棚も和室ですね?」
「そうです。カーテンの箱も同じ部屋へ置いてください」
美紀は荷物一覧に丸をつけた。家計簿や会社の資料を入れた鞄だけは、引っ越し荷物にせず自分で持っていく。銀行の通帳と一千万円の振込控えも、その鞄の内側に入れていた。
修一の荷物は、拓也が運転する車へ先に積まれた。修一も拓也夫婦と一緒に新居へ向かい、美紀だけが古い家に残って最後の確認をすることになった。沙織は新居で家具や家電を受け取るため、朝早くから先へ行っている。
「母さん、あとを頼むよ」
拓也が玄関で靴を履きながら言った。黒いパーカーの胸元には、朝のおにぎりについた米粒が一つ残っている。美紀は手を伸ばし、昔と同じようにそれを取った。
「新居へ着いたら、和室に荷物を入れる場所を空けておいてね」
「分かっているよ。業者にも言っておく」
「お父さんの布団も、和室へ運んでおいて」
「ああ、それなんだけど、父さんは二階の部屋を使うことになったから」
拓也は何でもないことのように答えた。美紀は手にした米粒をティッシュへ包み、拓也の顔を見る。
「二階の部屋は、沙織さんの衣装部屋と、将来の子ども部屋にするのではなかったの?」
「子ども部屋のほうを、父さんがしばらく使うんだよ」
「いつ決めたの?」
「昨日かな。父さんが、和室では釣り道具を置けないって言うから」
「私には何も聞かなかったでしょう」
「父さんが使う部屋の話だから、別にいいだろ。母さんは和室を使えばいいんだし」
拓也は急いでいると言い、車へ向かった。美紀は門の前で、三人を乗せた車が角を曲がるまで見送った。古い家の玄関へ戻ると、修一の運動靴も、拓也の革靴も、沙織の白いスニーカーもなくなっていた。
午前九時過ぎ、家の中から最後の家具が運び出された。冷蔵庫の後ろには黒い埃と、何年前のものか分からない乾いたマカロニが一本落ちていた。美紀は雑巾で床を拭き、台所の油汚れも落とした。
「奥様、そこまできれいにしなくても大丈夫ですよ」
不動産会社の担当者が、腕時計を見ながら言った。美紀はしゃがんだまま、流し台の下に残った小さな染みを拭いた。
「次の方が使うのでしょう? 汚れたままでは申し訳ないから」
「清掃業者が入りますから、本当に大丈夫です」
「では、ここだけ終わらせます」
美紀は雑巾をすすごうとして、蛇口の水がすでに止められていることに気づいた。持参したペットボトルの水を少し使い、固く絞る。冷たい床に膝をついていたため、立ち上がると右膝が小さく鳴った。
最後に、美紀は廊下の柱へ触れた。拓也の身長を測った鉛筆の線は残っているが、日付の文字は何度も拭いたため薄くなっている。幼い拓也が「今日は一センチ伸びた」と言い張り、背伸びをして修一に笑われた日のことを思い出した。
「母さん、曲がっているよ。ちゃんとまっすぐ測って」
子どもの頃の拓也の声が、何もなくなった廊下に残っているようだった。美紀は指先で一番低い線から一番高い線までなぞり、手を離した。
「長い間、ありがとう」
誰もいない家へ小さく言い、美紀は玄関へ向かった。古い鍵を不動産会社の担当者へ渡すと、もう自分で扉を開けることはできない。美紀は黒い革の鞄と、昼食の入った大きな保温袋を持ち、新居へ向かう車に乗った。
新居へ着いたのは、正午を少し過ぎた頃だった。玄関前には家具店と家電量販店のトラックが止まり、作業員たちが大きな冷蔵庫や白いソファを運び込んでいる。玄関を開けると、新しい木材、段ボール、家具を包んでいたビニールの匂いが一度に押し寄せてきた。
「ただいま。遅くなってごめんなさい」
美紀が声をかけると、リビングから沙織が出てきた。白いセーターに青いジーンズを合わせ、髪を高い位置で結んでいる。額には汗が浮いていたが、手にはスマートフォンを持っていた。
「お義母さん、やっと来たんですか?」
「古い家の掃除と、鍵の引き渡しがあったの」
「食器棚が届いたんですけど、置く場所が少しずれています。業者さんに言ってもらえません?」
「沙織さんが決めた場所でしょう?」
「私が言っても、細かい寸法が分からないので」
美紀はコートを脱ぐ間もなく、台所へ向かった。自分が代金を払った白い食器棚は、壁から十センチほど離れている。コンセントを避けるために必要な隙間だったが、沙織は埃がたまるから壁へつけてほしいと言った。
「ここをふさぐと、コンセントが使えなくなるわ」
「延長コードを使えばいいですよね?」
「冷蔵庫や電子レンジに、細い延長コードを使うのは危ないわよ」
「では、見えないようにしてください。せっかくの新居なのに、コードが見えるのは嫌です」
美紀は家具店の作業員と相談し、食器棚の位置を少しだけ動かしてもらった。沙織が鏡面の扉を開け閉めし、傷がないか確かめている間、美紀は玄関へ戻った。持ってきた保温袋は、靴箱の横へ置かれたままだった。
リビングには、白い革のソファと大型テレビが設置されていた。ソファの前にはガラスのテーブルが置かれ、透明な天板には、すでに拓也の指紋がいくつもついている。修一はソファの中央に座り、大型テレビの説明書を読んでいた。
「お父さん、荷物は二階へ運んだの?」
「ああ。拓也が使う部屋を用意してくれた」
「和室で一緒に寝るのではなかったの?」
「六畳に二人分の布団を敷いたら狭いだろう。俺は二階を使う」
「階段を上らなくていいから和室にしたと、拓也が言っていたでしょう」
「まだ足腰は弱っていない。お前一人なら、和室も広く使えていいじゃないか」
修一はリモコンの電池を入れながら答えた。美紀は、深夜に女性と電話していた修一と同じ部屋で眠らずに済むことには、何も言わなかった。ただ、家族の中で決められたことを、自分だけが引っ越し当日に知らされた事実が残った。
「母さん、腹が減ったよ」
二階から拓也が降りてきた。黒いスウェットには白い埃がつき、首へ巻いたタオルが汗で湿っている。
「お昼を作ってきたわ。おにぎりと煮物があるの」
「助かる。朝から何も食べていないんだ」
「朝、おにぎりを二つ食べたでしょう」
「あれくらいじゃ足りないよ」
美紀は保温袋を台所へ運んだ。鮭と梅干しのおにぎりを大皿へ並べ、保温容器に入れた鶏肉と里芋の煮物を取り出す。蓋を開けると、生姜と醤油の温かい匂いが、新しい台所へ広がった。
「わあ、煮物ですか」
沙織が少し眉を寄せた。
「今日は引っ越し祝いなんだから、お寿司でも頼めばよかったのに」
「作業の途中で簡単に食べられるように、おにぎりにしたの」
「新しい食器に煮物の色がつきません?」
「陶器だから、すぐ洗えば大丈夫よ」
「では、古いお皿を使ってください」
美紀は古い家から持ってきた食器を探した。しかし、「台所」と書いた箱は玄関にもリビングにも見当たらない。沙織は新しい白い皿を汚したくないと言い、結局、紙皿へ煮物を盛ることになった。
「母さん、うまいよ。やっぱり引っ越しには、こういう物がいいな」
拓也は里芋を二つまとめて口へ入れた。修一は鶏肉が少ないと言い、沙織は人参だけを残した。美紀は作業員にも渡せるよう多めに作ったが、三人は次々におかわりし、美紀の分は小さなおにぎり一つと煮汁だけになった。
昼食を終えると、三人はそれぞれの荷物を整理し始めた。美紀は食べ残された人参を保温容器へ戻し、紙皿と割り箸をごみ袋へ入れる。新しい食器洗い乾燥機は、まだ保護用のシールが貼られたままだった。
「私の荷物は、和室に入っているのよね?」
美紀が尋ねると、拓也は段ボール箱を持ったまま振り返った。
「引っ越し屋さんが運んでくれたと思うよ」
「玄関には見当たらなかったわ」
「箱に和室って書いたんだろ? なら、和室にあるよ」
美紀は、巻いたカーテンを持って一階の廊下へ向かった。廊下の突き当たりには、六畳の和室がある。障子の白い紙には午後の日差しが透け、新しい畳の青い匂いが漂っていた。
襖を開けると、美紀の足が止まった。和室の中には、沙織の洋服が入った段ボール箱や衣装ケースが、天井近くまで積み上げられている。白い収納棚は押し入れの片側だけではなく、部屋の壁一面へ並べられていた。
床の間には沙織のバッグが重なり、窓際には姿見と化粧品の箱が置かれている。甘い香油の匂いと、新しい衣類についた防虫剤の匂いが、畳の香りを覆っていた。美紀が縫ったベージュ色のカーテンを掛ける場所も、小さな机を置く場所もない。
「これは、どういうこと?」
美紀は巻いたカーテンを両手で持ったまま、部屋の中を見回した。押し入れを開けると、上の段も下の段も沙織のコートや靴箱で埋まり、布団を一組入れる隙間さえ残っていない。
廊下の足元には、美紀の名前が書かれた段ボール箱が四つ置かれていた。「新居・一階和室」と大きく書き、その上から透明なテープを貼った箱だった。机と小さな本棚も玄関脇へ置かれ、運び先を失った荷物として残されている。
「沙織さん」
美紀が呼ぶと、リビングから軽い足音が近づいてきた。沙織は和室の前へ立ち、積み上げられた衣装ケースを見ても驚かなかった。
「この荷物、全部、沙織さんの物なの?」
「そうです。二階のクローゼットだけでは入りきらなかったので」
「ここは、私が使う部屋だったでしょう?」
「そうでしたっけ?」
「何度も話したわ。窓際に私の机を置いて、本棚も置くと伝えたでしょう。あなたも反対しなかったわよね」
「私は、いいとは言っていませんけど」
沙織は髪を結んだゴムを直し、リビングのほうへ視線を向けた。美紀は巻いたカーテンを廊下へ立てかけ、拓也を呼んだ。
「拓也、来てちょうだい」
拓也は汗を拭きながら廊下へ来た。修一も大型テレビの設定を中断し、面倒そうに後ろからついてくる。三人が和室の前へ並んでも、誰も荷物を動かそうとはしなかった。
「和室が沙織さんの荷物で埋まっているの。私の布団を敷く場所もないわ」
「沙織、衣装部屋は二階だろ?」
拓也が一応尋ねると、沙織はすぐに答えた。
「お義父さんが二階の一室を使うことになったから、私の服を移す場所がなくなったの。もう一部屋は将来の子ども部屋だから、荷物で埋めるわけにはいかないでしょう?」
「まだ子どもはいないでしょう。その部屋へ一時的に置けばいいじゃない」
美紀が言うと、沙織は首を横に振った。
「新しい家具を入れる予定なんです。物置にはしたくありません」
「では、私の荷物はどこへ置けばいいの?」
美紀の声が、新しい家の廊下へ響いた。玄関脇には、古い家から運んだ机と本棚、母の湯飲みや昆虫図鑑を入れた段ボール箱が置かれている。引っ越し業者は作業を終え、すでにトラックで帰っていた。
修一は腕を組み、拓也は視線を床へ落とした。美紀が二人の顔を順番に見ても、どちらも和室を空けるとは言わない。修一の荷物だけは、二階の一室へきれいに収まっていた。
「ねえ、私はどこで眠ればいいの?」
美紀がもう一度尋ねると、沙織は修一と拓也の顔を順番に見た。二人が何も言わないことを確かめてから、白いセーターの裾を整える。最初から決めていたことを、ようやく伝えるような顔だった。
美紀は廊下に置かれた自分の箱へ手を触れた。箱の側面には、「一階和室」という文字がまだはっきり残っている。沙織はその文字を一度見てから、美紀へ顔を戻し、ゆっくりと口を開いた。




