第12話 「他人とは暮らせませんのでw」
第12話 「他人とは暮らせませんのでw」
沙織は白いセーターの裾を両手で整え、困ったように眉を下げた。口元には、家具店で高価なソファをねだったときと同じ、薄い笑みが浮かんでいる。背後の和室には衣装ケースが積み上がり、開いた段ボール箱から淡い桃色のコートと白い帽子がはみ出していた。
「ごめんなさい。私、やっぱり他人とは暮らせませんので」
沙織は言い終えると、小さく笑った。聞きにくいことを冗談めかして伝えれば、相手も怒らないと考えているような笑い方だった。甘い香油と新しい防虫剤の匂いが、和室の畳の匂いに混じって廊下まで流れていた。
美紀は沙織の顔を見たまま、言葉の意味を頭の中で繰り返した。他人とは暮らせないと言われたが、自分はこの家へ一千万円を出している。今後も毎月十五万円を振り込み、家事をしながら家族四人で暮らす予定だった。
「他人って、誰のこと?」
美紀が尋ねると、沙織は一度、拓也の顔を見た。拓也は首に巻いた白いタオルを外し、汗を拭くふりをして美紀と目を合わせない。修一も廊下の壁へ寄りかかり、腕を組んだまま黙っていた。
「お義母さんのことです」
「私は、拓也の母親よ。あなたにとっても家族ではないの?」
「拓也くんのお母さんではありますけど、私とは血がつながっていませんよね」
「それなら、あなたと拓也だって血はつながっていないでしょう」
「夫婦と嫁姑は違います」
沙織は当たり前のことを説明するように答えた。美紀は和室の前に置かれた四つの段ボール箱へ手を置く。箱の側面には、自分で書いた「新居・一階和室」という文字が残り、その上を透明なテープが光っていた。
「では、最初から私と暮らすつもりはなかったの?」
「最初は、何とかなるかなと思っていたんです」
「いつ、何とかならないと思ったの?」
「引っ越しが近づくにつれて、いろいろ考えたんです。新婚ではないですけど、せっかく自分たちの家を持つのに、お義母さんと一緒では落ち着かないなって」
「今の家でも、私たちは一緒に暮らしていたでしょう」
「今までの家は、お義父さんの家でしたから。ここは私たちの家です」
沙織は、拓也と自分を指すように胸元へ手を当てた。美紀の一千万円も、毎月十五万円の援助も、その「私たち」の中には含まれていなかった。美紀は喉の奥が乾き、言葉を出す前に一度唾を飲み込んだ。
「お義父さんは一緒に住むのに、私は他人なの?」
美紀が二階へ続く階段を見た。修一の衣類と釣り道具は、すでに二階の一室へ運び込まれている。修一の布団も、新しく買った灰色のカバーをつけて敷かれていた。
「お義父さんは、この家のお金を出してくださったでしょう?」
沙織は小さく笑い、和室に積まれた箱の一つを両手で押した。
「それに、お義母さんがいると、家事のやり方までいちいち口を出されそうで、落ち着かないんです」
「この食器棚の代金も、私が払ったのよ」
美紀は台所に置かれた白い食器棚を指した。鏡面の扉には、廊下に立つ四人の姿が細長く映っている。扉の中には沙織が買った白い皿と金色の縁のカップだけが並び、美紀の茶碗や母の湯飲みは段ボール箱へ入ったままだった。
「頭金として、一千万円も出したわ」
「それは拓也くんへの援助ですよね?」
「毎月十五万円を振り込む約束もしているでしょう」
「それも、息子を助けるためにお義母さんが決めたことですよね。だからといって、一緒に住まなければならないとは思いません」
「一緒に暮らすから、私は老後資金の大半を出したのよ」
「そんな条件、私は聞いていません」
沙織は急に口元から笑みを消し、拓也へ顔を向けた。拓也はタオルを握ったまま、妻の顔を見返す。二人の間では、すでに何度も話し合われていたようだった。
「拓也、あなたは知っていたの?」
美紀が尋ねると、拓也は床へ視線を落とした。新しい床には、引っ越し作業員の靴下から落ちた小さな糸くずが一つついている。拓也は足先で糸くずを動かし、しばらくしてから口を開いた。
「沙織が同居は難しいって言っていることは、聞いていたよ」
「いつ聞いたの?」
「一週間くらい前」
「私がカーテンを縫っていた頃?」
「たぶん、そのくらい」
「食器棚の代金を払ったのも一週間前よ。どうして、そのときに言わなかったの?」
「引っ越し前に言ったら、母さんが騒ぐと思ったんだよ」
「私は今日まで、自分の部屋があると思って荷造りをしていたのよ」
「母さんなら、何とかできるだろ。会社の近くにホテルもあるし」
拓也はようやく美紀を見たが、すぐに沙織のほうへ視線を戻した。母親が今夜どこで眠るかより、妻の機嫌を損ねないことを優先している顔だった。
「ホテルに泊まれというの?」
「今日だけだよ。明日から住む場所を探せばいいだろ」
「古い家は、今日引き渡したのよ。もう鍵も返したわ」
「だから、しばらくホテルへ行けばいいって。母さんは給料もあるんだし、困らないだろ」
「拓也、私の荷物はどうするの?」
「引っ越し業者に連絡して、預かってもらえばいいんじゃないかな」
「もう作業は終わって帰ったわ。再配送にも保管にもお金がかかるのよ」
「そのくらい、母さんなら払えるだろ」
美紀は拓也の顔を見た。朝、おにぎりについた米粒を取ってやったばかりだった。幼い頃から何度も同じように服の汚れを払い、弁当を作り、学費を払い、収入が減ったときには生活費を補ってきた。
「修一さんも、知っていたの?」
美紀が尋ねると、修一は腕を組み直した。灰色のジャンパーの胸元からは、深夜の電話の日に嗅いだものと同じ甘い香水がわずかに漂っている。
「沙織さんが気を遣うと言っているなら、仕方ないだろう」
「あなたは二階に住むのでしょう?」
「俺は家の売却代金を出したからな」
「私も一千万円を出したわ」
「お前は自分の意思で出したんだろう。誰も無理に出せとは言っていない」
「四人で暮らすと聞いたから出したのよ」
「その話に契約書でもあるのか?」
修一は鼻で息を吐き、大型テレビのあるリビングを振り返った。美紀が代金を払った食器棚も、拓也たちの住宅ローンを支える毎月十五万円も、修一にとっては妻が勝手に出した金だった。
「若い夫婦には気を遣ってやれ。せっかく新しい家を買ったのに、母親がいつまでもついてきたら落ち着かないだろう」
「父親なら、ついてきてもいいの?」
「俺はこの家に金を出している。それに、男は家事へ口を出さないからな」
「あなたは家事をしないだけでしょう」
「今はそんな話をしているんじゃない」
修一は声を荒らげ、居間へ戻ろうとした。美紀はその背中へ向かって、もう一度呼び止める。
「私は、今夜どこへ行けばいいの?」
「ホテルでも何でもあるだろう。会社の取締役なんだから、自分で考えろ」
「修一さんは、私と一緒に来るつもりはないのね?」
「どうして俺まで出ていかなければならないんだ。俺の荷物は、もう二階に入っている」
修一はそう言い、リビングへ戻った。新しいソファへ座ると、大型テレビのリモコンを手に取る。画面には旅行番組が映り、露天風呂のある温泉宿が紹介されていた。
美紀は和室の前へ残された。沙織は衣装ケースの位置を直し、拓也は玄関に積まれた空の段ボール箱を片づけ始める。二人とも話は終わったと思っているらしく、美紀の荷物をどこへ運ぶか相談しようとしなかった。
「このカーテンは、どうするんですか?」
沙織が廊下へ立てかけられたベージュ色のカーテンを指した。美紀が一針ずつ縫い、曲がったところをほどいて縫い直した物だった。
「和室で使うために作ったのよ」
「私の服に匂いがつくと嫌なので、和室にはつけないでください。別のカーテンを注文します」
「それなら、私が持っていくわ」
「そうしてください」
沙織はカーテンを美紀の段ボール箱の上へ置いた。柔らかな布が箱からずれ、床へ落ちる。美紀はしゃがみ、汚れがつかないよう両手で拾った。
右膝が痛み、すぐには立ち上がれなかった。目の前には、自分の本、仕事の資料、母の湯飲み、古い昆虫図鑑を入れた箱が並んでいる。行き先として書いた「一階和室」の文字だけが、今も箱の側面に残っていた。
台所には、昼食の残りが入った二段の重箱が置かれていた。上の段には形の崩れたおにぎりが二つ、下の段には鶏肉のなくなった煮物が残っている。里芋と人参は煮汁を吸い、蓋の裏には細かな水滴がついていた。
美紀は重箱のところへ行き、ずれた蓋をきちんと閉めた。家族が疲れているだろうと、朝四時から作った食事だった。残った物を冷蔵庫へ入れておこうとは思わなかった。
「それ、置いていってもらえます?」
沙織が重箱を見て言った。
「夕飯に食べられるでしょう?」
「おにぎりは硬くなっているし、煮物には鶏肉が残っていないわ」
「お義母さんが、また作ればいいじゃないですか」
「私は、この家では暮らせないのでしょう?」
「暮らすのは困りますけど、夕食を作りに来るくらいなら別に構いませんよ」
沙織は悪い提案ではないと思っているように、少し笑った。美紀は重箱を持つ手に力を入れた。黒い漆の表面には、朝に包んだ布の糸が一本ついていた。
「私を家政婦として通わせるつもりなの?」
「そんな言い方をしなくてもいいでしょう。家族なんだから、助け合えばいいと思っただけです」
「私は、あなたにとって他人なのでしょう?」
沙織は返事をせず、白い食器棚の扉についた指紋を布巾で拭いた。美紀が買った棚を、自分の家の物として大切に扱っている。その横で、棚の代金を払った美紀の荷物は、玄関へ置かれたままだった。
美紀は重箱を保温袋へ戻し、鞄の持ち手を握った。通帳、印鑑、会社の資料、一千万円の振込控えが入っている。財布には現金が二万円ほどあり、クレジットカードも持っていた。
「荷物は、ここへ置いていかないわ」
美紀が言うと、拓也が玄関から顔を出した。
「全部持っていくの? 今からでは運べないだろ」
「私が置けない家に、私の物だけを置いておく理由はないでしょう」
「明日、運送会社へ電話すればいいよ。今日は廊下へ置いておけば?」
「あなたたちが処分してしまうかもしれない」
「そんなことしないって」
「一週間も黙って、私をここまで来させた人の言葉を、どう信じればいいの?」
拓也は何も答えなかった。沙織と目を合わせ、妻が困った顔をすると、そちらへ歩いていく。母親がどこへ行くのかを尋ねることもなかった。
美紀はスマートフォンを取り出し、引っ越し業者へ電話をかけた。事情をすべて話すことはできず、搬入先が使えなくなったため、荷物を一時保管できないかと尋ねる。業者は追加料金が必要になるが、夕方までならトラックを戻せると答えた。
「お願いします。机と本棚、段ボール箱四つです」
電話を切ると、美紀は廊下の箱から「一階和室」と書かれた紙を剥がした。透明なテープが段ボールの表面を一緒に持ち上げ、茶色い紙が細く裂ける。文字の半分だけが箱に残った。
一千万円を出し、食器棚を買い、毎月十五万円を振り込む約束をしても、この家に美紀の部屋はなかった。修一の荷物は二階へ運ばれ、沙織の服は和室を埋め、拓也は妻の隣に立っている。四人で暮らす家だと思っていたのは、美紀一人だった。
やがて引っ越し業者が戻り、行き先のない荷物を再びトラックへ積み始めた。母の湯飲みが入った箱を持ち上げると、中で陶器が小さく触れ合う音がした。美紀は割れていないか確かめたかったが、今は箱を開く場所もなかった。
外は夕暮れを迎え、住宅地の家々には明かりがつき始めていた。どこかの家からカレーの匂いが漂い、子どもを夕食へ呼ぶ声が聞こえる。美紀は保温袋と黒い革の鞄を持ち、新居の玄関を出た。
振り返ると、沙織は玄関の内側から美紀を見ていた。拓也はその後ろに立ち、修一はリビングのソファから動かなかった。誰も「行かないで」とは言わず、今夜どこへ泊まるのかも尋ねなかった。
玄関の扉が閉まり、新しい鍵のかかる音がした。美紀はしばらく門の前に立ち、帰る場所を考えた。しかし、三十年以上暮らした古い家は、今朝すでに鍵を返している。
手の中の重箱から、冷めた煮物の匂いがわずかに漏れていた。家族のために作った食事も、自分の荷物も、あの家には置かなかった。美紀には、その二つを持って帰れる家だけが残されていなかった。




