第13話 夫が選んだ家族
第13話 夫が選んだ家族
玄関の扉が閉まり、新しい鍵の回る音がした。美紀は門の外に立ち、黒い革の鞄と重箱の入った保温袋を両手に持っていた。夕方の風が薄いコートの裾から入り、引っ越し作業で汗をかいた背中を冷やしていく。道路脇では引っ越し業者が、美紀の机や本棚、四つの段ボール箱をトラックへ積み直していた。
「奥様、お荷物は一時保管でよろしいですね?」
青い作業着を着た責任者が確認した。美紀は、荷台へ運ばれていく箱を見ながらうなずく。箱に書いた「一階和室」という文字は、半分だけ剥がれたまま残っていた。
「はい。保管先が決まったら連絡します」
「保管料と再配送費がかかりますが、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫です。請求は私へお願いします」
「こちらの住所ではなく、携帯電話へご連絡すればいいですか?」
「もう、この家には連絡しないでください」
作業員は少し驚いた顔をしたが、何も聞かなかった。美紀へ控えを渡し、トラックの荷台を閉める。金属の扉が重い音を立て、母の湯飲みも、昆虫図鑑も、仕事の資料も見えなくなった。
トラックが走り去ると、美紀は門の前に一人で残った。新居のリビングには明かりがつき、白いカーテンのない窓から大型テレビの光が漏れている。中には修一もいるはずだった。
美紀はもう一度、玄関の呼び鈴を押した。家の中から電子音が聞こえたが、すぐには誰も出てこない。二度目を押そうとしたところで、扉が少しだけ開いた。
「何ですか?」
沙織が顔を出した。白いセーターの袖をまくり、片手には美紀が買った食器棚を拭いていた布巾を持っている。玄関の隙間から、新しい家具と昼の煮物が混じった匂いが流れてきた。
「修一さんと話をさせて」
「今、テレビの設定をしているんです」
「すぐに済むわ」
「さっき話は終わりましたよね?」
「夫婦の話は、あなたが決めることではないでしょう」
沙織は口元を固くしたが、扉を閉めなかった。玄関の奥へ向かって、修一を呼ぶ。しばらくすると、修一が新居の鍵を右手に持って出てきた。
「何だ。まだいたのか」
修一は灰色のジャンパーのポケットへ左手を入れ、面倒そうに眉を寄せた。右手の鍵には、住宅会社の名前が印刷された青い札がついている。古い家の鍵は朝に返したというのに、修一は新しい鍵を当然のように握っていた。
「あなたは、本当にここへ残るの?」
「俺の荷物は、もう二階に運んだ」
「荷物の話ではないわ。妻が追い出されたのに、あなたはこの家で暮らすのかと聞いているの」
「追い出されたなんて大げさな言い方をするな。沙織さんが同居は難しいと言っているだけだ」
「家を失った当日に言われたのよ。今夜泊まる場所も決まっていないわ」
「ホテルを探せばいいだろう」
「あなたは一緒に来ないの?」
修一は新居の鍵を握り直した。金属同士が触れ、小さな音を立てる。背後ではテレビから、家電量販店の宣伝らしい明るい音楽が流れていた。
「俺まで出ていったら、拓也たちが困るだろう。お前は会社から給料をもらっているんだから、自分で何とかできるじゃないか」
「拓也たちが困るって、何に困るの?」
「俺が出した金もあるし、家のことも教えてやらなければならない」
「あなたは掃除も洗濯も、食事の支度もしたことがないでしょう」
「男には男の役割がある」
「どんな役割?」
「新しい家を守ることだ」
修一は胸を張って答えた。古い家では、雨漏りの修理業者を呼んだのも、固定資産税を払ったのも、毎日の戸締まりを確認したのも美紀だった。修一が家を守ると言う姿を、美紀は三十年以上暮らして初めて見た。
「あなたが守りたいのは、この家でしょう?」
「それの何が悪い。俺が古い家を売った金も入っているんだ」
「私の一千万円も入っているわ」
「またその話か。自分から出した金を、いつまで恩に着せるつもりだ」
「私は四人で暮らすと聞いたから出したのよ」
「事情が変わったんだから、仕方ないだろう」
「事情が変わったことを、一週間も私に黙っていたのは誰?」
修一は答えず、鍵についた青い札を指で回した。美紀は、深夜に聞いた女性との電話を思い出した。家が売れたら旅行へ行こうと話していた修一にとって、この新居は妻と暮らす家ではなく、家賃を払わずに住める場所だった。
「修一さん、私はあなたの妻よ」
「だから何だ」
「妻が今日から住む場所を失うのよ。せめて今夜くらい、一緒に来るのが夫婦ではないの?」
「夫婦だからって、何でも一緒にしなければならない決まりはない。お前は一人で何でもできるだろう」
「私が何でもしてきたから、あなたは何もしなくなったのね」
「今さら昔のことを持ち出すな」
修一は声を大きくした。沙織が玄関の奥から様子を見ている。修一はその視線に気づくと、さらに強い口調で続けた。
「ここは拓也たちの家だ。若い夫婦の暮らしを尊重してやれ。親が邪魔をするものじゃない」
「あなたも親でしょう?」
「俺は沙織さんに受け入れられている」
「家を売ったお金を出したからでしょう?」
「理由が何でも、俺は住んでいいと言われている。お前とは違う」
修一は言い切った。美紀の口座から出た一千万円も、白い食器棚の代金も、これから振り込む予定だった毎月十五万円も、修一の頭の中にはないようだった。妻ではなく、自分を立派な父親として扱ってくれる家を選んだのだと、美紀には分かった。
そこへ拓也が玄関へ来た。黒いスウェットの袖には、段ボールの茶色い埃がついている。母親と父親の間へ入るのではなく、沙織の隣へ立った。
「母さん、今日はもうやめよう。近所にも聞こえるよ」
「拓也、私は今夜、どこで寝ればいいの?」
「駅前にホテルがあるだろ。俺が調べるよ」
「調べるだけ?」
「予約もするよ。母さんのカードで払えばいいんだろ?」
「私が自分で払うことは分かっているのね」
「今は仕方ないじゃん。少しだけ別に暮らして、沙織が慣れたらまた考えよう」
拓也は母親をなだめるように言った。しかし、「少し」が何日なのか、何か月なのかは答えない。沙織が美紀との同居に慣れるためには、一緒に暮らす必要があるはずだが、美紀を家へ入れるつもりはなかった。
「どうやって、沙織さんが私に慣れるの?」
「たまに食事でも一緒にすればいいだろ」
「私は、食事を作りに来ればいいと沙織さんから言われたわ」
「それなら、母さんの料理を食べながら話せるじゃん」
「あなたたちの食事を作って、後片づけをして、私はホテルへ帰るの?」
「そんな言い方をするなよ。家族なんだから助け合おうって話だろ」
「私が助けてもらえることは、何?」
拓也は口を閉じた。沙織も視線をそらし、手に持った布巾の端を指へ巻きつけている。修一だけが、早く家へ戻りたいというように何度も時計を見た。
「母さんなら、一人でも大丈夫だと思ったんだよ」
拓也がしばらくして答えた。
「会社で取締役をしているし、給料もある。父さんよりしっかりしているだろ」
「しっかりしている人は、家族から何をされても大丈夫なの?」
「そういう意味じゃないよ」
「では、どういう意味?」
「今は沙織も疲れているんだ。引っ越しが落ち着いたら、また話そう」
拓也はそう言ったが、美紀の段ボール箱を家へ戻そうとはしなかった。玄関の上がり框には、修一の新しい室内履きが並んでいる。その隣に、美紀の室内履きはなかった。
「ホテルを探すなら、早いほうがいいですよ」
沙織が小さな声で言った。
「今日は土曜日だから、満室になるかもしれません」
「沙織さんは、私がここからいなくなれば、それでいいのね?」
「お義母さんがいると、お互いに気を遣うでしょう?」
「私は気を遣われた覚えはないわ」
「そういう言い方をされるから、一緒に暮らせないんです」
沙織は布巾を握り、拓也の腕へ体を寄せた。拓也は妻をかばうように一歩前へ出た。美紀は、幼い息子が自分のスカートの後ろへ隠れていた頃を思い出したが、今は守られる側が入れ替わっていた。
「分かったわ」
美紀が言うと、三人の肩から同時に力が抜けた。誰も引き止めず、沙織は早く扉を閉めたいように取っ手へ手を伸ばした。
「修一さん、最後に聞くわ。本当に私と来ないのね?」
「何度も言わせるな。俺はここに住む」
「私がどこに泊まるかも、これからどう暮らすかも、あなたには関係ないのね?」
「大人なんだから、自分で決めろ」
「分かった。自分で決めます」
美紀は修一の顔を見て答えた。修一はその言葉の意味を考えようともせず、玄関の中へ戻る。新居の鍵を大切そうにポケットへ入れた。
美紀は門の外へ向かう前に、もう一度だけ台所を見た。自分の預金で買った白い食器棚には、沙織の新しい皿やカップがきれいに並んでいる。その前には昼の重箱が置かれ、煮汁のついた紙皿だけが流し台に残されていた。
「お義母さん、重箱は持っていくんですか?」
沙織が尋ねた。
「持っていくわ」
「では、今夜の夕食はどうすればいいんでしょう」
「冷蔵庫には、引っ越し祝いでもらったお肉があるでしょう」
「まだ調理していません」
「四人のうち三人が、この家に残るのよ。誰かが作ればいいでしょう」
「お義母さんのほうが料理に慣れているのに」
「私は、この家の家族ではないそうだから」
美紀は保温袋を持ち直し、玄関を出た。重箱の中では、冷たくなった里芋が動き、容器の壁へ小さく当たった。修一も拓也も、その音を聞いても何も言わなかった。
扉が閉まり、今度こそ内側から鍵がかけられた。美紀の背後で、金属の回る音がはっきり聞こえる。自分が何度も鍵をかけ忘れていないか確認し、家族の帰りを待った古い家はもうなかった。
美紀は住宅地の中を駅へ向かって歩いた。街灯の下では小さな虫が飛び、夕食時の家々から焼き魚やカレーの匂いが漂っている。右手の鞄は通帳と会社の資料で重く、左手の保温袋からは冷めた煮物の匂いがした。
家族を支えていれば、自分も家族として大切にされると思っていた。朝四時半から家事をし、一千万円を出し、家具を買い、毎月十五万円を渡す約束をすれば、六畳の和室に自分の場所くらいは残ると信じていた。しかし、玄関の鍵は、美紀だけを外へ出したまま閉められた。
美紀は歩道の端で一度立ち止まり、振り返らずに鞄からスマートフォンを取り出した。駅前のビジネスホテルを検索し、今夜泊まれる一室を予約する。支払い画面に自分のカード番号を入力し、予約完了の文字を確かめた。
家族に必要とされることと、大切にされることは同じではなかった。美紀はその違いを、住む家を失った日の夜に初めて知った。スマートフォンを鞄へ戻すと、新居の明かりを背にして、駅へ続く道を再び歩き出した。




