第14話 荷物ひとつの出発
第14話 荷物ひとつの出発
美紀が駅前のビジネスホテルへ着いたのは、午後八時を過ぎてからだった。引っ越し作業で乱れた髪を手で押さえ、ベージュのコートの裾についた埃を払ってから自動扉をくぐる。暖房の効いたロビーには、コーヒーと消毒液の匂いが漂い、出張客らしい男性がソファで新聞を読んでいた。
美紀が持っている荷物は、修理しながら使ってきた黒い革の鞄一つだけだった。中には通帳と印鑑、財布、会社の資料、仕事用のブラウス、数日分の下着が入っている。古い家を引き渡したあと、新居で荷ほどきに時間がかかると思い、着替えだけは手荷物へ入れていた。
左手には、冷めたおにぎりと煮物が入った保温袋もあった。朝四時から家族のために作った食事だったが、鶏肉はすべて食べられ、重箱には里芋と人参、形の崩れたおにぎりが残っている。生姜と醤油の匂いが漏れないよう、布を二重に結んでいた。
「予約した佐伯美紀です」
フロントの女性へ名前を告げると、すぐに宿泊記録が確認された。女性は紺色の制服を着て、髪をきちんと後ろでまとめている。美紀の手元に重箱があることへ気づいたのか、電子レンジの場所を案内してくれた。
「朝食は午前六時半から一階でご用意しています。お部屋にも電気ポットと、小さな冷蔵庫がございます」
「ありがとうございます」
「連泊のご予定はございますか?」
「まだ分かりません。明日の夜も泊まることになるかもしれないわ」
「日曜日は混み合いますので、決まりましたら早めにフロントへお申しつけください」
「分かりました。今夜中に考えます」
美紀はカードキーを受け取り、エレベーターへ向かった。ホテルの廊下には灰色の絨毯が敷かれ、歩いても靴音がほとんど響かない。自宅へ帰れば「遅かった」「夕食はまだか」と声をかけられていた時間だったが、ここでは誰も美紀に用事を頼まなかった。
部屋には、シングルベッドと小さな机、壁につけられたテレビがあった。窓の向こうには駅前の看板と、赤い信号が見える。広くはないが、床には脱ぎ散らかされた靴下も、飲み残したコップも、洗濯物の詰まった籠もなかった。
美紀はコートをハンガーへ掛け、鞄を机の横へ置いた。白いブラウスの袖には、段ボールを運んだときについた茶色い汚れがある。洗面所でハンカチを濡らし、汚れを何度も押さえた。
鏡の中には、化粧の落ちた五十八歳の顔が映っていた。前髪には細かな埃がつき、目の下には薄い影ができている。美紀は備えつけの櫛で髪を整え、手洗い用の石鹸で指先についた煮汁の匂いを落とした。
「まず、食べましょう」
誰もいない部屋で口にすると、自分の声が思ったよりはっきり聞こえた。美紀は一階の電子レンジで煮物を温め、部屋へ戻る。重箱の蓋を開けると、生姜と醤油の匂いが小さな部屋に広がった。
里芋は煮崩れ、人参は冷えて少し硬くなっていた。おにぎりの海苔も湿り、御飯の表面にはひびが入っている。それでも電子レンジで温めると、朝に炊いた米の匂いが戻った。
美紀は机の前へ座り、おにぎりを一口ずつ食べた。家族へ出したときは、自分の分を小さくしていたため、残った二つを食べるだけで腹が満たされる。里芋を口に入れると、いつも修一から薄いと言われた味が、今夜はちょうどよく感じられた。
スマートフォンには、拓也から短いメッセージが届いていた。
「ホテル、取れた?」
美紀は画面を見たまま、すぐには返事をしなかった。母親が泊まる場所を確保できたか尋ねてはいるが、部屋へ戻ってきてもよいとは書かれていない。荷物を家へ入れるとも、沙織を説得するとも書かれていなかった。
「駅前のホテルに泊まっています」
それだけ入力して送信した。数分後、拓也から「分かった」と返ってきた。修一からは、電話もメッセージも届かなかった。
美紀は空になった重箱を洗面所で洗った。備えつけの小さな石鹸では油が落ちにくく、何度も湯を流す。家族の食器なら食器棚へ戻していたが、ここには重箱をしまう場所がないため、タオルの上へ伏せて乾かした。
午後九時を過ぎると、美紀は机へノートパソコンを置いた。会社の資料を確認するため持ち歩いている物だったが、今夜は不動産情報を調べるために使う。画面の青白い光が、白い壁とベッドのシーツを照らした。
会社から電車で三十分以内、家賃は無理なく払い続けられる範囲、間取りは一LDK、できれば二階以上。条件を入力すると、いくつもの部屋が表示された。築年数が古い物、駅から遠い物、台所が狭い物まで、一軒ずつ写真を開いた。
これまでは四人分の食事を作るため、冷蔵庫の大きさや台所の収納を気にしていた。しかし自分一人なら、二口のコンロと小さな冷蔵庫があれば足りる。洗濯物も自分の服だけなら、広いベランダは必要なかった。
「この部屋なら、会社まで二駅ね」
美紀は赤い屋根の低層マンションを画面へ表示した。会社の最寄り駅から二駅で、駅から徒歩八分の場所にある。四階の角部屋で、洋室六畳と小さなリビング、対面式ではない壁づけの台所がついていた。
家賃と管理費を合わせても、毎月十五万円には届かなかった。拓也夫婦へ渡す予定だった金額より少ない。美紀はその事実を何度も確かめ、手帳の余白へ数字を書いた。
敷金、礼金、仲介手数料、引っ越し費用、家具や家電の購入費を合計する。家計簿をつける癖があるため、必要な金額はすぐに計算できた。預金は一千万円を出したことで大きく減っていたが、それでも自分一人が新しい生活を始める金は残っている。
物件情報の下には、翌日の内見予約ができる欄があった。美紀は午前十時を選び、名前と電話番号を入力する。送信ボタンを押すと、五分ほどで不動産会社から電話がかかってきた。
「お問い合わせありがとうございます。明日の午前十時で、ご案内可能です」
若い男性の声だった。美紀は手帳を開き、店の住所を書き留める。
「できれば、早く入居したいのですが」
「現在は空室ですので、審査と契約が終わりしだい入居できます。お仕事についてお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「生活用品を扱う会社で、取締役をしています。勤続三十五年です」
「収入証明書や本人確認書類をご用意いただければ、お手続きは進めやすいと思います」
「会社の在職証明書は、月曜日に用意できます」
「承知しました。内見の際に詳しくご説明します」
電話を切ると、美紀は手帳へ「十時・不動産会社」と書いた。土曜日の朝には家族四人で新居へ移り、日曜日は荷ほどきをする予定だった。まさか一人で自分の部屋を探すことになるとは、昨日まで考えていなかった。
美紀はベッドへ横になったが、枕元に目覚まし時計がないことへ気づいた。スマートフォンの機能を使い、いつものように午前四時半へ設定する。翌日は会社が休みで、四人分の朝食も弁当も必要ない。それでも三十五年続いた習慣は、簡単には変えられなかった。
午前四時半にアラームが鳴ると、美紀は反射的に体を起こした。台所へ行かなければと思い、ベッドから足を下ろす。そこで目の前の小さな机と、壁に掛かったホテルの絵を見て、自分がどこにいるのかを思い出した。
修一の味噌汁も、拓也の弁当も、沙織のヨーグルトも用意する必要はなかった。美紀はもう一度横になろうとしたが、目が覚めてしまっている。電気ポットで湯を沸かし、備えつけの緑茶を淹れた。
窓の外では、始発電車がゆっくりと駅へ入ってきた。客の少ない車内の明かりが、朝の暗い街を横切る。美紀は紙コップの茶を飲みながら、昨日までならこの時間に米を研ぎ、味噌汁の具を切っていたことを考えた。
午前六時半になると、一階の朝食会場へ向かった。白いブラウスに紺色のスカートを着て、ベージュのカーディガンを羽織る。会場にはトースト、ゆで卵、小さなウインナー、サラダ、味噌汁が並び、焼いたパンとコーヒーの匂いが漂っていた。
美紀は自分が食べたい物だけを皿へ載せた。トースト一枚、ゆで卵、ポテトサラダ、温かいコーヒーを選ぶ。修一の塩分も、拓也の肉の量も、沙織の炭水化物も考える必要はなかった。
「こちらのお席、空いていますよ」
係の女性が窓際の席を案内してくれた。美紀は礼を言い、一人で椅子へ座る。トーストへバターを塗り、端からゆっくりかじった。
バターは少し塩気が強く、コーヒーにはかすかな酸味があった。美紀は誰にも急かされず、温かいうちに朝食を食べ終えた。食器を返却口へ運ぶと、係の女性から「ありがとうございました」と声をかけられた。
午前十時、美紀は不動産会社を訪れた。昨夜の電話に出た男性が、紺色のスーツ姿で待っている。店内には物件情報の紙が壁一面に貼られ、机の端には客用の飴が入った透明な瓶が置かれていた。
「佐伯様、お待ちしておりました。お問い合わせいただいた物件ですが、こちらになります」
男性は間取り図と周辺地図を美紀の前へ置いた。美紀は老眼鏡をかけ、家賃、管理費、敷金、礼金を一つずつ確認する。
「会社まで、本当に二駅ですね」
「はい。最寄り駅からも徒歩八分です。近くにスーパーと薬局、商店街があります」
「病院はありますか?」
「内科が駅前にあります。少し歩けば、市立図書館もございます」
図書館という言葉を聞き、美紀は水野部長から自分の時間を作るよう言われたことを思い出した。長男夫婦の新居近くにある図書館へ行くつもりだったが、そこへ戻る必要はない。自分が選んだ町で、自分のために本を借りればよいのだと思った。
不動産会社の車で物件へ向かうと、日曜日の商店街には買い物客が歩いていた。総菜店から揚げ物の匂いが漂い、八百屋の店先には大根や白菜が並んでいる。小さなパン屋の黒板には、焼きたてのクリームパンと書かれていた。
「このあたりは、夕方でも買い物に困りません」
担当者が車を止めながら説明した。美紀は商店街の端にあるコインランドリーと、花屋の前に並んだ黄色い鉢植えを見た。
「仕事が遅くなっても、食べる物は買えそうですね」
「総菜店は午後八時まで営業しています。一人暮らしの方も多い地域ですよ」
「一人分なら、作るより買ったほうが安い日もあるわね」
美紀が言うと、担当者はうなずいた。家族には、総菜を買うより美紀が作るほうが安いと言われ続けていた。しかし一人分なら、食べたい物を少しだけ買えばよい。
マンションは築十五年の四階建てだった。外壁には薄い茶色のタイルが貼られ、入口の植え込みには小さな赤い実がなっている。エレベーターはなかったが、階段には手すりがあり、案内された部屋は二階だった。
「四階の角部屋と書いてあったと思いますが」
「申し訳ございません。昨夜の物件は、今朝ほかのお客様から申し込みが入りました。ただ、同じ建物の二階に、ほぼ同じ間取りの部屋がございます」
「二階なら、階段もそれほど大変ではありませんね」
「日当たりも悪くありません。こちらをご覧になって、合わなければ別の物件もご案内します」
担当者が鍵を開けると、清掃用洗剤と新しい畳マットの匂いがした。玄関には一人分の靴なら十分に入る小さな靴箱があり、廊下の先にリビングが見える。壁は白く、床は淡い木目だった。
リビングは八畳ほどで、窓際には小さな食卓を置く余裕がある。台所には二口のガスコンロを置ける場所と、一人用の冷蔵庫を置く空間があった。流し台は新居の対面式キッチンほど大きくないが、四人分の鍋や食器を洗う必要はない。
「収納は、こちらです」
担当者が洋室の扉を開けた。六畳の部屋には押し入れほどの奥行きがあるクローゼットがついている。布団を一組入れても、美紀の衣類や鞄を置く場所は残りそうだった。
「この壁に、低い本棚を置けますね」
「はい。窓際なら小さな机も置けます」
「私の机と本棚が、ちょうど入りそうです」
美紀は部屋の中央へ立ち、自分の荷物を置く場所を一つずつ考えた。窓際に仕事用の机、壁際に本棚、クローゼットへ衣類を入れる。母の湯飲みは台所の棚へ置き、昆虫図鑑も捨てずに持ってこられる。
「お料理は、よくされるんですか?」
担当者が台所を見ながら尋ねた。美紀は白い流し台へ手を置き、幅を確かめた。
「今までは毎日、四人分を作っていました」
「それなら、少し狭く感じるかもしれませんね」
「一人分なら十分です。味が薄いとか、肉を増やしてとか言う人もいませんから」
美紀が言うと、担当者は冗談だと思ったのか、控えめに笑った。美紀も口元を少し緩めたが、流し台の前へ立った自分の姿を窓ガラスで確かめた。
リビングの窓を開けると、近所の家から洗濯物を干す音が聞こえた。風には柔軟剤と、商店街のパン屋から流れてくる甘い匂いが混じっている。ベランダは広くないが、自分のブラウスとタオルだけなら十分に干せる。
「この部屋にします」
美紀は窓を閉め、担当者へ向き直った。男性は少し驚いたように資料を持ち直す。
「ほかの物件をご覧にならなくてもよろしいですか?」
「ええ。会社から近く、買い物にも困らない。私の机と本棚も置けます」
「では、店舗へ戻って申し込みのお手続きをしましょう。審査には数日かかります」
「できるだけ早く入居したいのですが」
「必要書類がそろえば、早めに進められると思います」
「明日、会社で在職証明書と収入証明書を用意します」
美紀はもう一度、何も置かれていない部屋を見回した。家族四人で暮らすはずだった新居よりずっと狭いが、この部屋に美紀の場所を奪う人はいない。和室を衣装部屋にしたいとも、本を捨てろとも言われない。
不動産会社へ戻り、美紀は入居申込書へ名前を書いた。勤務先の欄へ会社名と勤続三十五年、役職の欄へ取締役と記入する。担当者は収入と勤務年数を確認し、審査について大きな問題はないだろうと説明した。
「緊急連絡先は、ご家族の方でお願いします」
美紀はペンを止めた。拓也の名前を書こうとしたが、引っ越し当日にホテルへ行けばよいと言った息子の顔が浮かぶ。しばらく考え、会社の規定を確認してから記入すると伝えた。
「後日でも大丈夫です。まずはこちらへご署名ください」
美紀は申込書の一番下へ、自分の名前を丁寧に書いた。銀行で一千万円を振り込んだときには曲がった最後の線が、今度はまっすぐ引けた。印鑑を押すと、赤い印影が紙の中央へきれいに残った。
手続きを終えて外へ出ると、昼を過ぎていた。美紀は商店街のパン屋へ入り、焼きたてのクリームパンを一つ買った。紙袋を受け取ると、温かなカスタードと小麦の匂いが手元から上がってくる。
ホテルへ戻る途中、美紀は小さな公園のベンチへ座った。クリームパンを半分に割り、自分一人で食べる。拓也へ残しておこうとは考えなかった。
明日には会社で書類をそろえ、審査が通れば契約をする。保管中の荷物は、自分が選んだ部屋へ運んでもらう。家族に追い出されたあと、しばらく身を隠すための部屋ではなかった。
美紀は残りのクリームパンを食べ、指先についた粉砂糖を紙ナプキンで拭いた。これからは、自分の食べたい物を自分のために買い、自分の荷物を自分の好きな場所へ置く。会社近くの小さな一LDKを、自分の生活を取り戻す家にすると決めた。




