第15話 「俺がこの家を支える」
第15話 「俺がこの家を支える」
美紀が玄関を出てから十分ほどたっても、三人はしばらく口を利かなかった。リビングでは新しい大型テレビが温泉宿の特集を流し、白い革のソファには引っ越し作業でついた灰色の埃が残っている。台所の流し台には、昼に使った紙皿と割り箸が重なり、冷えた煮汁の匂いが漂っていた。
「お義母さん、本当に行っちゃいましたね」
沙織が玄関のほうを見ながら言った。白いセーターには、衣装ケースを運んだときについた薄い汚れがある。拓也は首へ巻いていたタオルを外し、ガラスのテーブルへ置いた。
「ホテルは取れたみたいだよ」
「どこのホテルですか?」
「駅前だって」
「いつ戻ってくるつもりなんでしょう」
「戻ってきても、住む部屋はないだろ」
拓也が答えると、沙織は少し口元を固くした。自分が追い出したはずなのに、美紀が本当に戻らないとなると、それはそれで都合が悪いらしい。台所の段ボール箱はまだ開封されず、四人分の食器や鍋がどこに入っているのかも分からなかった。
「夕飯、どうします?」
沙織が尋ねた。修一は新しいソファの中央へ座り、昼に買っておいた缶ビールを開ける。プルタブの乾いた音が、家具の少ないリビングへ響いた。
「美紀が作った煮物は、もうないのか?」
「鶏肉は昼に全部食べたでしょう。里芋と人参なら少し残っていましたけど、お義母さんが持っていきました」
「おにぎりも持っていったのか?」
「ええ。自分で作った物だからって」
「家族が食べるために作ったんだろ。置いていけばいいのに、妙なところで意地を張るな」
修一は缶ビールを飲み、テレビへ顔を向けた。画面の中では、浴衣を着た男女が湯気の立つ鍋料理を食べている。拓也は朝から動き続けて腹が減っていたため、台所の冷蔵庫を開けた。
中には、引っ越し祝いとして住宅会社から届いた牛肉、沙織が買った炭酸水、修一の缶ビールが入っている。牛肉は木箱に収められ、金色の紙がかけられていた。拓也が取り出そうとすると、沙織が慌てて止めた。
「そのお肉は、落ち着いてからすき焼きにするんです」
「今夜食べればいいだろ。腹が減ったよ」
「すき焼き鍋がどの箱に入っているか分からないし、野菜もありません」
「フライパンで焼けばいいじゃん」
「せっかくの高いお肉を、適当に焼くなんてもったいないです」
「じゃあ、何を食べるんだよ」
「何か頼みましょう。今日は引っ越し初日なんだから、出前でもいいですよね」
沙織はスマートフォンで宅配料理の画面を開いた。寿司、中華、ピザ、弁当が並び、配達時間はどれも一時間近くかかる。拓也は早く届くピザでいいと言ったが、修一は昼にもおにぎりを食べたから米がいいと主張した。
「じゃあ、お寿司にします?」
「特上がいい。新居で最初の夕飯なんだからな」
「父さんが払ってよ」
「俺が?」
「母さんがいないんだから、誰かが払わないと」
「一家の主人はお前だろう。自分の家の食事くらい、自分で払え」
修一は冷蔵庫から二本目の缶ビールを出した。拓也は財布を確認したが、引っ越し業者への追加料金や細かな買い物で現金がほとんど残っていない。結局、沙織が拓也名義の家族カードを使い、三人分の寿司を注文した。
「お義母さんの分は、いらないですよね?」
沙織が注文数を選びながら尋ねた。拓也は一瞬だけ玄関のほうを見た。
「ホテルに泊まっているんだから、向こうで食べるだろ」
「では、三人前にします。お義父さん、ウニは食べます?」
「食べる。イクラも入れてくれ」
「それだと一人前、五千円近くなりますよ」
「新居の祝いだ。けちけちするな」
修一は、自分が支払うわけではないのに当然のように言った。沙織は特上寿司を三人前注文し、届くまでの間、新しい食器棚へカップや皿を並べ始めた。棚の鏡面には、保護シートを剥がした跡がまだ薄く残っている。
「この棚、本当に使いやすそうです」
沙織は金色の縁がついたカップを上段へ並べた。美紀が毎朝使っていた茶碗や、縁の欠けた湯飲みは、荷物と一緒に運送会社の保管場所へ行っている。食器棚の中には、美紀の物が一つもなかった。
「母さんが払ったんだろ、それ」
拓也が言うと、沙織は扉を閉めた。
「だから何ですか?」
「いや、別に。母さん、これも持っていくって言わなかったなと思って」
「こんな大きな物、持っていけないでしょう。それに、この家へ合わせて買ったんだから、この家の物です」
「それもそうか」
拓也は新しいダイニングチェアへ座った。椅子の脚には梱包用の白い紙が一部残り、座るたびにかさかさと音を立てる。剥がそうとしたが、疲れていたため途中でやめた。
宅配の寿司が届くと、三人はガラスのテーブルを囲んだ。蓋を開けると、酢飯とわさび、魚の脂が混じった匂いが広がる。沙織は食べる前にスマートフォンで写真を撮り、新居での最初の夕食と書いて友人へ送った。
「ビールのコップはないのか?」
修一が尋ねた。沙織は食器棚から新しいグラスを出し、値札のシールを剥がす。
「洗っていませんけど、大丈夫ですか?」
「水ですすげばいいだろ」
「お義父さん、自分でお願いします。私、今、お寿司の写真を送っているので」
「美紀なら、言わなくても出したんだがな」
修一が何気なく口にすると、沙織の手が止まった。拓也は二人の顔を見て、マグロを口へ入れる。
「父さん、その話は今しなくていいだろ」
「事実を言っただけだ」
「お義母さんがいなくても、家事くらい何とかなります。食器洗い乾燥機も洗濯乾燥機もありますから」
「夕飯は機械が作らないぞ」
「料理だって、調べれば誰でもできます」
「なら、明日の朝は味噌汁を頼む」
「朝はパンでいいでしょう」
沙織は新しいグラスを水ですすぎ、布巾で軽く拭いて修一へ渡した。洗剤を使っていないため、ガラスには値札の糊が少し残っている。修一は気にせずビールを注ぎ、一口飲んだ。
食事が進むうちに、拓也はテーブルの端へ置かれていた封筒を開いた。住宅ローンの返済予定表と、家電量販店の分割払い明細が入っている。寿司の醤油がつかないよう、空になった皿を横へ寄せた。
「そういえば、来月から住宅ローンの引き落としが始まるんだよな」
「二十五日でしょう?」
沙織はイクラの軍艦巻きを取り、スマートフォンの予定表を確認した。
「月に十二万三千円。それからソファが一万一千円、家電が三万二千円、カーテンが五万円」
「カーテンの五万円は五回だけだろ」
「でも、五か月は払うんですよ。車のローンと保険もあります」
「固定資産税の積み立ても必要だって、母さんが言っていたな」
「それは来年からでいいんじゃないですか?」
「来年になって、急に払えるわけじゃないだろ」
拓也は返済予定表の数字を指で追った。家具や家電の分割払いを合わせると、住居関係だけで毎月かなりの金額になる。さらに食費、電気、ガス、水道、通信費、車の維持費が必要だった。
「母さんから毎月十五万円入る予定だったから、大丈夫だと思ったんだけどな」
拓也が言うと、修一はビールの缶をテーブルへ置いた。沙織も箸を止め、美紀が出ていった玄関のほうを見る。
「振込は予定通りしてくれますよね?」
「どうだろう。あれだけ怒っていたから」
「でも、一度約束したんですよ。家に住まないから払わないなんて、勝手じゃないですか?」
「家に住ませないと決めたのも沙織だろ」
「一緒に住むことと、息子を援助することは別でしょう。お義母さんだって、拓也くんの生活を守りたいはずです」
「母さん、本当に止めるかな」
拓也は食べかけの穴子を皿へ戻した。美紀の十五万円がなければ、毎月の家計に余裕はほとんどない。それどころか、急な出費が重なれば住宅ローンの返済まで難しくなる。
「母さんに電話して、確認したほうがいいかな」
「今夜はやめておけ」
修一が腕を伸ばし、最後に残ったウニを取った。
「あいつは頭に血が上っている。何を言っても意地になるだけだ」
「でも、振込が止まったら困るよ」
「心配するな」
修一はウニを口へ入れ、ビールで流し込んだ。胸を張り、新しいリビングを見回す。白いソファ、大型テレビ、高価な食器棚が照明の下で光っている。
「美紀がいなくても、俺がこの家を支える。家を売った金だって、まだ残っている」
「本当に?」
拓也が顔を上げた。修一は迷わずうなずく。
「当たり前だ。あの古い家がいくらで売れたと思っている」
「頭金にかなり使ったでしょう?」
「それでも全部じゃない。年金も入るし、俺は働いてもいる」
「お義父さん、毎月いくらくらい出してくださるんですか?」
沙織の声が明るくなった。修一は一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐにビールを飲み、余裕のある顔を作った。
「必要な分は出してやる。十五万円くらいで騒ぐな」
「よかった。お義母さんが振り込んでくれなくても、困らないんですね」
「俺に任せておけ」
「父さんがそこまで言うなら、大丈夫か」
拓也は返済予定表を封筒へ戻した。父親には十分な年金と、家の売却代金の残りがあると信じた。修一がスーパーの早朝品出しでいくら稼いでいるのか、年金を何に使っているのか、詳しく確かめたことはなかった。
「では、お義母さんには、今すぐ戻ってきてもらわなくても大丈夫ですね」
沙織が言った。拓也は少し間を置いたあと、うなずく。
「父さんが助けてくれるならな。沙織も母さんに慣れるまで時間が欲しいんだろ」
「時間というより、別に暮らしたほうがお互いのためですよ」
「食事くらいは、母さんに作りに来てもらってもいいと思うけど」
「そうですね。家事を少し手伝ってくれるなら、お義母さんも家族に会えて安心するでしょう」
二人は、美紀が今後も家事をしに来ることを当然のように話した。修一は二人の会話を聞きながら、新しいソファへ深く座る。白い革が体の重みで沈み、缶ビールの底についた水滴がガラスのテーブルへ丸い跡を残した。
食後、沙織は食器洗い乾燥機の使い方が分からず、寿司の容器と新しい皿を流し台へ置いた。拓也は風呂の準備をすると言って二階へ上がり、修一も自分の部屋へ向かう。リビングには、生ものの匂いが残った容器と、醤油の小袋が散らばっていた。
「沙織、これ、片づけないの?」
拓也が階段の途中から尋ねた。
「明日でいいでしょう。今日は疲れました」
「臭くならないか?」
「蓋を閉めておけば大丈夫ですよ」
沙織は寿司桶の蓋をかぶせ、テレビを消した。冷蔵庫へ入れることも、ごみ袋へ移すこともしない。新しい台所の白い天板には醤油が一滴こぼれたまま残っていた。
修一は二階の部屋へ入ると、内側から扉を閉めた。部屋には、古い家から持ってきた衣類と釣り道具が積まれ、窓際には新しい布団が敷かれている。枕元の小さな箱には、女性へ贈るために買ったネックレスの領収書が入っていた。
修一はスマートフォンを取り出し、銀行の口座残高を確認した。家の売却代金は一度、大きな数字として表示された。しかし拓也の新居の頭金、女性との二度の旅行代、高級店での食事、ネックレスやバッグの代金を差し引くと、画面に残った金額は家族を支え続けられるほどではなかった。
「まだ、これだけあれば大丈夫だ」
修一は小さく言った。毎月十五万円を出せば、数か月で大きく減る金額だった。それでも来月になれば年金も入ると考え、詳しい計算はしなかった。
スマートフォンに、女性からメッセージが届いた。
「家のこと、落ち着いた? 来月の旅行、楽しみね」
修一はすぐに返信した。
「大丈夫だ。妻は出ていった。予定通り行こう」
宿泊予定の温泉旅館は、露天風呂つきの部屋で一泊十万円を超えていた。修一は予約画面を開き、食事を最上級のコースへ変更する。追加料金が表示されたが、迷わず決定ボタンを押した。
階下では、拓也が住宅ローンの封筒を引き出しへしまっていた。沙織は白いソファへ横になり、新居の写真を友人へ送っている。二人とも、修一が家を支えると言った言葉を疑っていなかった。
二階の部屋では、修一が旅行代を支払ったあとの残高を見ないよう、銀行の画面を閉じた。枕元には新居の鍵と、温泉旅館の予約完了画面が並んでいる。家を支えると宣言した男は、その夜も家計簿を開かなかった。




