第16話 止まった十五万円
第16話 止まった十五万円
美紀が新しい一LDKへ入居したのは、内見から五日後だった。勤続三十五年の在職証明書と役員報酬の明細を提出すると、賃貸住宅の審査は問題なく通った。午前中に不動産会社で鍵を受け取り、午後には保管されていた机、本棚、四つの段ボール箱が新しい部屋へ運び込まれた。
美紀は生成り色のセーターに濃紺のズボンをはき、髪を後ろで一つにまとめていた。リビングには、まだ照明と折り畳み式の食卓しかない。カーテンレールには、新居の和室へ掛けるつもりで自分が縫った、淡いベージュ色のカーテンが掛かっていた。
「奥様、この机は窓際でよろしいですか?」
引っ越し業者の作業員が尋ねた。美紀は窓と壁の間を確かめ、小さくうなずく。
「はい。そこへ置いてください」
「本棚は、こちらの壁ですか?」
「机の隣へお願いします。本を読みながら、すぐ取れるようにしたいので」
「承知しました。段ボール箱も同じお部屋へ運びます」
作業員たちは、美紀が指示した場所へ荷物を置いた。誰も「その本はいらない」「机は邪魔だ」とは言わない。自分の荷物の行き先を自分で決められることが、美紀にはまだ少し不思議だった。
荷物を運び終えると、美紀は作業員へ缶入りの温かい茶を渡した。若い作業員は両手で受け取り、何度も頭を下げる。引っ越し当日に新居から追い返された事情については、誰も尋ねなかった。
「先日は急な変更で、ご迷惑をおかけしました」
美紀が言うと、責任者は首を横に振った。
「いえ。無事にお届けできてよかったです。こちらのお部屋なら、机も本棚もちょうど収まりましたね」
「ええ。ありがとうございました」
美紀は玄関の外まで三人を見送り、扉を閉めた。鍵を回すと、軽い金属音がした。今度の鍵は、美紀だけを外へ残すためのものではなかった。
昼食には、商店街の総菜店で買った鮭弁当を食べた。塩鮭、ちくわの磯辺揚げ、ひじきの煮物、梅干しが白い容器へ入っている。電子レンジで温めると、海苔と醤油の匂いが新しい部屋へ広がった。
美紀は折り畳み式の食卓へ一人分の弁当と番茶を置いた。鮭の骨を一本ずつ取りながら、誰の皿へ大きな切り身を移す必要もないことに気づく。温かいうちに自分の食事を最後まで食べたのは、いつ以来か分からなかった。
食事を終えると、段ボール箱を開けた。最初に出てきたのは、母から譲られた縁の欠けた湯飲みだった。新聞紙をほどくと青い模様が現れ、割れずに運ばれていたことを確かめてから、台所の棚の中央へ置いた。
昆虫図鑑は、本棚の一番下へ入れた。会社の資料と経営書は机に近い上段へ置き、料理本は台所から手が届く場所へ並べる。小さな裁縫箱と古いミシンも、机の下へきれいに収まった。
「全部、置けたわね」
美紀は部屋を見回して言った。六畳の洋室には、まだ余白が残っている。四人で暮らすはずだった新居の和室より狭くはないはずなのに、美紀の物を置いても窮屈には感じなかった。
荷ほどきが一段落すると、美紀は机へ家計簿と通帳を並べた。古い帳面の表紙には、味噌汁の薄い染みと、何度も濡れた布巾で拭いた跡が残っている。美紀は老眼鏡をかけ、これまで自分の口座から支払っていた金を一項目ずつ書き出した。
拓也へ毎月送る十五万円。修一の携帯電話料金、家族カードの利用代金、四人分の保険料、古い家で契約したままの動画配信サービス、拓也夫婦が使っていたインターネット回線。美紀が家を出ても、何もしなければ支払いだけは続いていく。
「私は、あの家の住人ではないのよ」
美紀は自分へ確認するように言い、銀行へ電話をかけた。自動振込の解除について尋ねると、本人確認のあと、窓口で手続きをするよう案内された。美紀は必要な物を手帳へ書き留め、翌朝銀行へ行くことにした。
次に、クレジットカード会社へ連絡した。美紀が本会員で、修一と拓也が持っていたカードは家族カードだった。担当者は利用停止の理由を尋ね、紛失ではないなら、カードを回収して切断するよう説明した。
「カードは、家族が持ったままなんです」
美紀が答えると、電話の向こうの女性は少し間を置いた。
「では、本日付で家族カード二枚を利用停止にいたします。カードがお手元へ戻りましたら、磁気部分と番号が分かる箇所を切断してください」
「本人たちへ連絡は行きますか?」
「ご利用いただいた場合、決済ができなくなります。停止したことは、会員様からお伝えください」
「分かりました。今日、伝えます」
さらに保険会社へ連絡し、美紀の口座から支払っていた家族分の保険料について確認した。契約そのものを勝手に解約するのではなく、次回からそれぞれが自分で支払うよう、払込方法を変更する手続きが必要だった。担当者は必要書類を郵送すると答えた。
「ご主人様とご長男様には、変更のご了承をいただいていますか?」
「まだです。ただ、私がこれ以上支払うつもりはありません」
「では、契約者様ご本人から、期日までに新しい払込口座をご指定いただく必要があります」
「その内容を、本人たちにも通知してください」
「承知しました」
電話を切るたび、家計簿の項目へ一本ずつ赤い線を引いた。十五万円、携帯電話料金、家族カード、保険料、通信費。これまでは家族が困らないようにと続けてきた支払いだったが、その家族は美紀へ六畳の部屋さえ残さなかった。
翌朝、美紀は午前四時半に目を覚ました。薄い水色の寝間着のまま台所へ立ち、炊飯器を開けようとして、米を炊いていないことに気づく。昨夜は荷ほどきに夢中になり、翌朝の米を研むのを忘れていた。
「一人なら、忘れても困らないわね」
美紀は冷凍しておいた食パンを一枚焼き、目玉焼きを作った。フライパンの端では、残っていたウインナーを二本だけ焼く。黄身へ塩を振り、インスタントのコーヒーを淹れると、バターと焦げた肉の匂いが台所へ広がった。
トーストを食べながら、美紀は今日の予定を確認した。銀行で自動振込を解除し、会社へ行き、昼休みに修一たちへ支払い変更の連絡をする。仕事帰りには、小さな冷蔵庫と洗濯機も買わなければならなかった。
午前九時、銀行の窓口で通帳と印鑑を差し出した。以前、一千万円を振り込んだときに対応した女性が、美紀の顔を覚えていた。青い制服の胸元へ銀色の名札をつけ、手続き書類を美紀の前へ置く。
「本日は、自動振込の解除ですね」
「はい。毎月二十五日に、十五万円を振り込む予定でした」
「まだ初回のお振込前ですので、本日解除すれば、今月分から停止できます」
「お願いします」
「お振込先は、以前住宅資金をお振り込みになった、ご長男様の口座ですね」
「そうです」
窓口の女性は美紀の顔を見たが、理由を尋ねなかった。美紀は解除届へ名前を書き、印鑑を押す。朱肉の赤い色が、白い紙へまっすぐ残った。
「こちらで解除のお手続きは完了です」
「ありがとうございます」
「念のため伺いますが、以前お振り込みになった一千万円について、何か問題がございましたか?」
美紀は鞄の持ち手へ手を置いた。一千万円を振り込む際、住宅取得資金について作成した書類の控えも、鞄の内側へ入れている。あの日は、四人で暮らすことを疑っていなかったため、詳しく読み返そうとはしなかった。
「家を購入した長男夫婦から、同居を拒まれました」
「同居を前提に、資金を出されたのではありませんでしたか?」
「そうです。でも、家族の間の約束だから、取り戻せないと思っています」
窓口の女性はすぐに答えず、少し声を落とした。
「住宅資金の振込前に、合意書をご用意されていましたよね。契約内容については、専門家へ確認されたほうがよろしいかもしれません」
「合意書……」
「当行では法律上の判断はできませんが、控えをお持ちでしたら、一度内容をご確認ください」
美紀は礼を言い、銀行を出た。駅へ向かう人の流れの中で立ち止まり、鞄から薄い茶色の封筒を取り出す。表には「住宅取得資金拠出に関する合意書」と印刷されていた。
しかし、朝の歩道で広げるわけにはいかなかった。美紀は封筒を鞄へ戻し、会社へ向かう。今はまず、毎月十五万円を止めることが先だった。
昼休み、美紀のスマートフォンへ拓也から電話がかかってきた。会議室では部下たちが弁当を食べ、水野部長がカップ味噌汁へ湯を注いでいる。美紀は廊下へ出て、窓際で電話に出た。
「母さん、今月の十五万円、まだ振り込まれていないんだけど」
拓也は挨拶もせずに尋ねた。今日は二十五日だった。美紀が自動振込を解除しなければ、朝のうちに拓也の口座へ入っていたはずの日である。
「振込は止めました」
「何で?」
「もう払う理由がないからよ」
「ちょっと待ってよ。毎月十五万円を出すって約束しただろ」
「四人で暮らすという約束を破ったのは、あなたたちでしょう」
「同居と援助は別だって、沙織も言っていたじゃないか」
「私は別だとは言っていません」
「でも、住宅ローンも家具の支払いも、母さんの十五万円が入る前提で組んでいるんだよ」
「それを決めたのは、あなたたちです」
「急に止められたら困るよ。今月だけでも振り込んでくれない?」
美紀は窓の外を見た。向かいの食堂では、白い割烹着を着た女性が店先へ昼の献立を出している。焼きサバ定食、肉じゃが定食、豚汁とおにぎりと書かれ、排気口から魚の焼ける匂いが流れてきた。
「私はあの家の住人でも、家族でもないそうです。自分が住まない家の生活費を負担する理由はありません」
「母さん、本気で言っているの?」
「沙織さんが、私を他人だと言ったでしょう」
「あれは言葉のあやだよ。母さんは俺の母親なんだから、家族に決まっている」
「お金を振り込むときだけ家族なの?」
「そういう意味じゃないって」
「では、私の部屋を空けてくれるの?」
拓也は黙った。電話の向こうから、沙織の声が聞こえる。何を話しているのか尋ね、早く十五万円を振り込んでもらうよう急かしていた。
「和室は、沙織の荷物があるから難しい。でも、生活が落ち着いたら何とかするよ」
「私の住む場所は、もう決まりました」
「部屋を借りたの?」
「会社の近くに、一LDKを借りました」
「そんな勝手なことをして、家賃はどうするんだよ」
「私の給料から払います。あなたたちへ渡す予定だった十五万円より安いわ」
「それなら、残った分を少し振り込めるだろ?」
美紀は、返事をする前に一度目を閉じた。拓也は、母親が家賃を払えると知って安心するのではなく、差額を自分へ回せると考えた。廊下の窓枠には薄い埃がつき、冬の光が白く反射していた。
「家族カードも止めました。お父さんの携帯電話料金と、あなたたちの保険料も、それぞれ自分で支払うよう手続きをしてください」
「家族カードまで?」
「私が本会員です。私が使わないものを払う必要はありません」
「父さんがこの家を支えるって言っているけど、手続きが間に合わないかもしれないだろ」
「お父さんに払ってもらいなさい。家の売却代金が残っていると言ったのでしょう?」
「母さんから父さんにも話してよ」
「なぜ私が話すの?」
「夫婦だろ」
「妻を置いて新居へ入った人に、あなたから伝えてください」
美紀は電話を切った。すぐに拓也からかけ直されたが、電源を切り、鞄へしまう。会議室へ戻ると、水野部長が美紀の弁当の横へ温かい茶を置いてくれていた。
「常務、何かありましたか?」
「家計の整理をしていたの」
「お昼、冷めてしまいますよ」
「そうね。今日は温かいうちに食べるわ」
美紀は弁当箱の蓋を開けた。新しい部屋で初めて作った自分一人分の弁当には、目玉焼きの代わりに小さな卵焼き、昨夜買ったコロッケ、ほうれん草の胡麻和えが入っている。肉を誰かの弁当へ移さなかったため、コロッケは丸ごと一つ残っていた。
夕方、新しい部屋へ帰ると、美紀は買ったばかりの小さな冷蔵庫へ食材をしまった。牛乳一本、卵六個、豆腐一丁、アジの開き一枚、半分に切られた白菜が、余裕を持って収まる。四人分の肉や飲み物で棚が埋まることはなかった。
夕食にはアジの開きを焼き、白菜と油揚げの味噌汁を作った。味噌は自分が食べたい濃さにし、アジには醤油をかけなかった。炊きたての御飯を小さな茶碗へ盛り、母の湯飲みには熱い番茶を注いだ。
食後、美紀は机へ茶色い封筒を置いた。中から合意書を取り出すと、三枚目に美紀、拓也、修一の署名と印鑑が並んでいる。住宅会社でいくつもの書類へ署名した拓也は、内容を十分に読まず判を押していた。
美紀は条文を一行ずつ読んだ。資金提供の目的は、長男夫婦の住宅取得と、美紀の安定した居住場所を確保すること。新居の一階和室を美紀の居室として提供し、正当な理由なく居住を拒絶した場合には、拠出した一千万円の返還を求めることができると記されていた。
「取り戻せないと思っていたけれど……」
美紀は老眼鏡を外し、印鑑の並んだ紙を机へ置いた。沙織は署名していなかったが、家の名義人であり一千万円を受け取った拓也は署名している。修一も、証人として印を押していた。
美紀は会社で契約書を扱うときに相談している弁護士の名刺を、机の引き出しから取り出した。時計は午後八時を過ぎていたため、電話はせず、翌朝相談したいというメールだけを送る。添付するため、合意書の三枚を一枚ずつ撮影した。
十五万円の自動振込を止めても、一千万円は戻らないと思っていた。それでも、これ以上自分の時間と金を差し出さないだけで十分だと考えていた。しかし、拓也夫婦が条件を破った証拠は、美紀が大切に保管した封筒の中に残っていた。
美紀は合意書を透明なファイルへ入れ、銀行の振込控えと一緒に机の引き出しへしまった。家族へ作っていた弁当も、支払っていた携帯電話料金も、毎月の十五万円も、もう美紀の義務ではない。さらに一千万円まで、家族という言葉だけで諦める必要はなかった。
台所では、洗い終えた一人分の茶碗と箸が水切り籠に並んでいた。美紀は流し台の水滴を布巾で拭き、翌朝のために米を一合だけ研ぐ。炊飯器の予約ボタンを押すと、新しい部屋に小さな電子音が響いた。




