第17話 久しぶりの静かな朝
第17話 久しぶりの静かな朝
美紀は、枕元の目覚まし時計を午前六時半に合わせてから布団へ入った。翌日は会議のない土曜日であり、夫の朝食も、拓也の弁当も用意する必要はない。それでも、長年使ってきた時計の針を四時半から動かすときには、誰かとの約束を破るような感覚が指先に残った。
新しい部屋の天井は白く、古い家にあった木目の染みも、修一のいびきもなかった。窓の外からは、ときどき電車の通過音が小さく聞こえる。美紀は淡い水色の寝間着の襟を整え、枕元へ母の湯飲みを置いてから照明を消した。
翌朝、美紀が目を開けると、部屋はまだ暗かった。目覚まし時計を見ると、午前四時二十八分を指している。六時半に設定を変えても、体はこれまで通りの時間に目を覚ました。
「まだ二時間もあるのね」
美紀は布団の中で言った。もう一度眠ろうと目を閉じたが、頭の中では米を研み、味噌汁の具を切り、二つの弁当箱へおかずを詰める順番が動き始めている。四時半を過ぎると、台所へ行かなければ何かが遅れてしまうように感じた。
美紀は掛け布団を胸元まで引き上げた。修一から「お茶」と呼ばれることも、拓也から「肉を増やして」と言われることもない。沙織がトーストとヨーグルトを待っているわけでもなかった。
「今日は、誰も待っていないのよ」
口に出すと、台所へ走る必要がないことが、ようやく体にも伝わった。美紀は布団の中で足を伸ばし、畳ではなくフローリングの上に敷いた小さな敷物の感触を確かめる。次に時計を見たときには、五時を二十分ほど過ぎていた。
それ以上は眠れなかったため、美紀はゆっくり起き上がった。薄い灰色の部屋着に着替え、生成り色のカーディガンを羽織る。洗面所で顔を洗い、化粧水を手のひらへ出すと、石鹸と柑橘の淡い香りがした。
台所の照明をつけると、昨夜洗った茶碗と箸が水切り籠で乾いていた。一人分しかないため、籠の底には広い空間が残っている。美紀は茶碗を棚へ戻し、コーヒーを淹れるために小さなやかんへ水を入れた。
無意識に、マグカップを四つ出そうとしていた。棚の前で手を止め、自分用の白いマグカップだけを取り出す。ほかのカップはまだ段ボール箱の中にあり、急いで開ける必要もなかった。
「一つでいいのよね」
美紀はコーヒーの粉を一人分だけ量った。これまでは修一が濃いものを好み、拓也は砂糖を二杯、沙織は牛乳を多く入れるため、それぞれに合わせていた。今朝は自分が飲みたい濃さで淹れ、牛乳も砂糖も入れなかった。
湯を注ぐと、挽いた豆の香ばしい匂いが小さな台所へ広がった。トースターには厚切りの食パンを一枚だけ入れる。冷蔵庫から卵を一つ取り出し、小さなフライパンで目玉焼きを作った。
白身の端が少し茶色くなり、黄身は半熟に残った。修一は固く焼かなければ文句を言い、沙織は油を使いすぎだと言っていた。美紀は黄身へ少量の塩を振り、焼けたトーストにはバターと苺ジャムを半分ずつ塗った。
折り畳み式の食卓へ、コーヒー、トースト、目玉焼き、小さなサラダを並べた。サラダは昨夜の残りのレタスとキュウリだけで、トマトは入っていない。四人分なら彩りを気にしただろうが、自分が食べるだけなら、冷蔵庫にある物で十分だった。
美紀は椅子へ座り、最初にコーヒーを飲んだ。少し苦く、口の中へ豆の香りが残る。誰にも薄いとも濃いとも言われず、美紀は二口目をゆっくり飲んだ。
「このくらいが、私は好きだったのね」
これまで何十年もコーヒーを淹れてきたが、自分の好みを確かめたことはほとんどなかった。美紀はバターを塗った側からトーストを食べ、次に甘い苺ジャムの部分をかじった。冷める前に朝食を食べ終えると、皿にはパンくずが数粒残っただけだった。
洗い物は、皿一枚、マグカップ一つ、フライパン一つだった。美紀は蛇口から出る湯へ手を入れ、食器を洗う。流し台には、朝食の茶碗も、飲み残した牛乳のコップも、食べ残された魚の骨も積み上がらなかった。
食器を洗い終えても、時計はまだ午前六時半を過ぎたばかりだった。古い家なら、修一の新聞を用意し、拓也の弁当を包み、沙織が食べるヨーグルトの残りを確認している時間である。今朝の美紀には、次にしなければならない家事がなかった。
寝室の隅には、前日に脱いだ白いブラウスと紺色のスカートが置かれていた。洗濯籠の中身は、それに下着とタオルが一枚ずつだけだった。修一の靴下を裏返し、沙織の長い髪を取り除き、拓也のワイシャツの襟へ洗剤を塗る必要はない。
美紀は洗濯機へ自分の衣類だけを入れた。洗剤の量を確かめると、目盛りの一番少ない線で足りる。これまでは毎日のように買っていた大きな詰め替え用洗剤も、一人なら何か月も持ちそうだった。
「こんなに少なくていいの?」
洗濯機の表示を見ながら、美紀は小さく笑った。標準コースでは水がもったいないため、少量コースを選ぶ。短い電子音が鳴り、洗濯槽が静かに回り始めた。
洗濯が終わるまでの間、美紀は一人分の弁当を作った。土曜日なので会社へ持っていく必要はないが、昼になったら市立図書館へ行くつもりだった。外出先で食べられるよう、小さなおにぎりを二つ作り、卵焼きと昨夜のほうれん草の胡麻和えを弁当箱へ詰めた。
卵焼きは一人分だけだったため、卵を一つしか使わなかった。端が少し破れたが、誰かへ出すものではない。美紀は形のよい中央部分と、崩れた端の両方を自分の弁当箱へ入れた。
「今日は、私が全部食べるのね」
弁当箱の蓋を閉め、青い布で包んだ。これまで拓也の弁当には肉を多く入れ、自分には野菜や卵焼きの端を詰めていた。今は、どの部分を入れても同じ自分の腹へ入るのだと思うと、弁当箱の中を飾る必要さえなくなった。
洗濯機が止まり、美紀は濡れた衣類をベランダへ運んだ。ベランダには、古い家から持ってきた折り畳み式の椅子が一脚置いてある。修一が釣りへ持っていくために買ったものだったが、一度使っただけで物置へ入れられていた。
物干し竿へ、ブラウス、スカート、下着、タオルを順番に掛けた。洗濯ばさみは六つしか使わなかった。白いブラウスが朝の風を受け、柔軟剤の匂いがわずかに漂った。
隣のベランダでは、白髪の女性が小さな布団を干していた。美紀と目が合うと、女性は紺色の割烹着の袖を整え、軽く頭を下げた。
「おはようございます。昨日、お引っ越しされた方ですよね?」
「はい。佐伯と申します。ご挨拶が遅くなって、申し訳ありません」
「私は隣の部屋の者です。一人暮らしですから、音はあまり出さないと思いますけど、何かあったら声をかけてください」
「ありがとうございます。私も一人ですので、よろしくお願いします」
「駅前のパン屋さん、朝七時から開いていますよ。あそこのクリームパン、おいしいんです」
「内見の日に買いました。カスタードが温かくて、おいしかったです」
「でしょう? 土曜日はあんパンも焼きたてですよ」
女性はそう言い、布団を二度たたいた。乾いた音が朝の住宅街へ響く。美紀は、誰かと話すために食事を作ったり、金を渡したりする必要がないことに気づいた。
洗濯物を干し終えると、美紀は折り畳み式の椅子を広げた。座面には小さな擦り傷があり、金属の脚には古い土が少し残っている。濡らした布巾で拭き、ベランダの隅へ置いた。
会社から持ち帰った本と、淹れ直したコーヒーを持って外へ出た。本は赤字事業部の再建に関する実務書だったが、しおりの代わりに古いスーパーのレシートが挟まっている。レシートには、四人分の肉、魚、牛乳、ヨーグルト、弁当用の冷凍食品が印字され、合計は一万円を超えていた。
美紀はそのレシートを裏返した。今の冷蔵庫には、卵六個、豆腐一丁、牛乳一本、アジの開き、半分の白菜が入っている。それだけでも一人なら数日分の食事を作ることができた。
「毎週、あれだけ買っていたのね」
美紀はレシートを折り、本の後ろへしまった。家族カード、携帯電話料金、保険料、毎月十五万円の振込も止めた。自分一人の家賃と生活費を払っても、家族のために使っていた金の半分以上が手元へ残る計算だった。
午前八時半を過ぎた頃、机に置いたスマートフォンが鳴った。昨夜、合意書の写真を送った弁護士からだった。美紀は本を閉じ、ベランダの窓を少し開けたまま電話に出た。
「おはようございます。朝早くに申し訳ありません」
「いえ、もう起きています。資料を見ていただけましたか?」
「拝見しました。美紀さんが拠出した一千万円には、新居で居室を提供するという条件が明記されていますね」
「はい。私も昨夜、読み直しました」
「長男さんの署名と押印もあります。実際に入居を拒まれた経緯を、日時と発言内容を含めて整理してください」
「嫁から、他人とは暮らせないと言われました。夫も長男も、その場にいました」
「荷物を搬入した記録や、再配送の領収書はありますか?」
「引っ越し業者の控えがあります。和室へ運ぶよう書いた箱の写真も残っています」
「それらは大切に保管してください。まずは内容証明で、契約条件を履行するか、一千万円を返還するかを求めることが考えられます」
美紀は椅子の肘掛けを握った。朝の冷たい風が、カーディガンの袖口から入ってくる。ベランダの物干し竿では、自分一人の白いブラウスが静かに揺れていた。
「私は、もうあの家へ戻るつもりはありません」
「それなら、返還を求める方向で進めましょう。直接やり取りをすると言い争いになる可能性がありますので、今後の連絡は記録に残してください」
「分かりました」
「月曜日に一度、事務所へ来られますか?」
「午後なら伺えます」
「では、合意書の原本、振込控え、引っ越し業者の書類をお持ちください」
電話を切ると、美紀はしばらくスマートフォンを膝へ置いていた。一千万円は家族へ差し出したまま戻らないものだと思っていた。しかし、家族という言葉に契約まで消す力はなかった。
部屋の中から、目覚まし時計が鳴った。昨夜設定した午前六時半ではなく、止め忘れていた予備の時計が午前九時を知らせている。美紀は部屋へ戻り、音を止めた。
机には、母の湯飲み、合意書を入れた透明なファイル、読みかけの本が並んでいる。誰かの新聞や飲みかけのコップに場所を取られることはなく、机の表面は美紀が置いた物だけで使われていた。小さな傷も、母の湯飲みから落ちた一滴の茶も、自分の生活の跡だった。
昼前、美紀は紺色のスカートと薄い藤色のセーターへ着替えた。ベランダから乾いたブラウスを取り込み、しわを伸ばしてハンガーへ掛ける。洗濯物は片腕に収まり、畳むのに五分もかからなかった。
鏡の前で髪を整え、青い布で包んだ弁当と読みかけの本を鞄へ入れた。市立図書館までは、商店街を抜けて十五分ほどだった。帰りには、隣の女性が教えてくれたあんパンを買ってみようと思った。
玄関で靴を履くと、美紀は部屋の中を振り返った。朝食の味を責める声も、洗濯物を放り出す人も、十五万円を待つ人もいない。カーテン、机、本棚、母の湯飲みまで、すべて自分が選んだ場所に収まっていた。
家を出たことで失ったものは、古い家と、家族四人で暮らすという約束だった。代わりに、美紀の朝、金、食事、机、洗濯物を干す時間が戻ってきた。それらはどれも、三十五年間、家族の予定の後ろへ置いてきたものだった。
美紀は新しい部屋の鍵をかけ、鞄へしまった。今度の鍵は自分が持っており、帰れば自分の手で開けられる。商店街から漂ってくる焼きたてのパンの匂いを感じながら、美紀は図書館へ向かって歩き始めた。




