第18話 母がいない朝
第18話 母がいない朝
午前六時四十五分、拓也のスマートフォンが枕元で鳴った。薄い灰色のカーテンの隙間から冬の朝日が差し込み、新しい寝室の白い壁を照らしている。拓也は布団から片腕だけを出し、画面を何度も押して音を止めた。
隣では沙織が、桃色の寝間着の肩まで掛け布団を引き上げていた。枕元には充電中のスマートフォンと、昨夜飲んだミネラルウォーターの空き容器が転がっている。拓也はもう一度目を閉じたが、部屋の外から朝食を作る音が聞こえないことに気づいた。
古い家では、午前六時になる頃には味噌汁の匂いが二階まで届いていた。魚焼きグリルの音、包丁がまな板へ当たる音、洗濯機の回る音が重なっていた。拓也が七時に起きても、弁当は玄関の棚へ置かれ、朝食も食卓へ並んでいた。
「沙織、朝御飯は?」
拓也が隣の布団を揺らすと、沙織は顔を枕へ押しつけた。髪には昨日つけた香油の匂いが残り、毛先が拓也の腕へ絡んだ。
「まだ六時でしょう?」
「もう七時前だよ。俺、七時半には出るんだけど」
「下に何かあるんじゃないですか?」
「何かって、誰が作ったもの?」
「お義父さんが先に起きているかもしれないでしょう」
「父さんが朝飯を作るわけないだろ」
拓也は布団を出て、ワイシャツとズボンを探した。クローゼットには新しく買った衣類が並んでいるが、昨日脱いだワイシャツは洗濯籠へ入れたままだった。予備の一枚を取り出すと、襟に薄い黄ばみが残っている。
「沙織、これ、洗った?」
「何をですか?」
「ワイシャツ。襟が汚れている」
「昨日の夜、洗濯機へ入れたでしょう?」
「洗濯機に入れただけでは、洗えないだろ」
「拓也くんが、ボタンを押してくれたと思っていました」
「俺は洗濯物を入れただけだよ」
沙織は掛け布団の中から顔を出し、時計を見た。七時まであと五分しかない。舌打ちをすると、桃色の寝間着の上に白いカーディガンを羽織り、裸足のまま一階へ降りていった。
洗面所の洗濯機を開けると、前日の衣類が濡れたまま入っていた。誰かが一度だけ洗濯を始めたらしいが、終了後に取り出さず、ふたを閉めたままにしている。湿ったタオルと靴下から、生乾きの酸っぱい匂いが上がった。
「何これ。くさい」
沙織は鼻を押さえ、洗濯機のふたを閉めた。操作パネルには「槽内洗浄をおすすめします」という文字が点滅している。新しい洗濯乾燥機にはいくつもの機能があり、どのボタンを押せば衣類だけを洗い直せるのか分からなかった。
「普通に洗濯を押せばいいだろ」
拓也が後ろから言った。白いワイシャツのボタンを留めながら、洗濯機の説明書を探している。
「普通って、どれですか? 標準、時短、おしゃれ着、温水、念入りって、こんなにあるんですよ」
「標準でいいじゃん」
「洗剤は入っていますか?」
「昨日、沙織が入れたんじゃないの?」
「私は入れていません。自動投入って書いてあったから、勝手に入ると思ったんです」
「自動投入でも、最初に洗剤を入れておかないと駄目だろ」
「そんなの聞いていません」
二人は洗剤の容器を探した。洗面所の棚には、柔軟剤、漂白剤、浴室用洗剤が並んでいるが、どれを自動投入用の場所へ入れるのか分からない。美紀なら新しい家電の説明書を読み、前日のうちに洗剤を補充していたはずだった。
「母さんに電話して聞くか」
拓也がスマートフォンを取り出すと、沙織は強い声を出した。
「そんなことで電話したら、私たちには家事ができないって思われるでしょう」
「実際、できていないじゃん」
「私は引っ越しの片づけで疲れているんです」
「俺だって仕事があるんだよ」
「だからって、全部私に押しつけないでください。私は家政婦じゃありません」
「母さんが毎日やっていたくらい、簡単だろ」
「簡単なら、拓也くんがやればいいでしょう!」
沙織の声が新しい洗面所へ響いた。白い壁にはまだ水滴の跡もほとんどなく、棚には値札を剥がしていないタオルが並んでいる。しかし洗濯機の中だけは、濡れた衣類が押し込まれ、古い雑巾のような匂いを出していた。
「朝から何を騒いでいるんだ」
二階から修一が降りてきた。スーパーの早朝品出しで使う紺色の作業着を手に持ち、下着姿の上へ毛玉のついたカーディガンを羽織っている。作業着は前日に洗濯機へ入れられ、濡れたままになっていた。
「俺の作業着を洗っていないのか?」
「洗濯機の中には入っていますよ」
沙織が答えると、修一は湿った作業着を持ち上げた。襟元から酸っぱい匂いが立ち、袖口には前日の埃がこびりついている。
「こんな物を着ていけるか。乾燥機を使え」
「洗い直してからでないと、匂いが取れません」
「だったら早く洗え」
「今から洗ったら、お義父さんの出勤時間に間に合いませんよ」
「昨日のうちにやっておけばよかっただろう」
「自分の作業着なんだから、自分で洗えばよかったじゃないですか」
「俺は洗濯機なんか使ったことがない」
「では、説明書を読んでください」
沙織は棚にあった厚い説明書を修一へ差し出した。修一は受け取ろうともせず、濡れた作業着を洗面台へ置く。水滴が白い陶器の表面へ落ち、茶色い筋を作った。
「美紀なら、言わなくても前の晩に洗っておいたぞ」
修一が言うと、沙織の頬が動いた。
「では、お義母さんのところへ持っていけばいいじゃないですか」
「今から間に合うわけがないだろう」
「私に怒られても困ります」
「この家に住んでいる女は、お前だけなんだぞ」
「女だから洗濯するなんて、古いです。私はお義父さんの妻でも家政婦でもありません」
修一と沙織が洗面所で言い争う間に、拓也は台所へ入った。朝食を作る時間は残っていなかったが、食パンくらいはあると思っていた。ところが、白い食器棚には高価なカップや皿ばかりが並び、食品の置き場所は決まっていなかった。
冷蔵庫には、住宅会社から贈られた牛肉の残り、飲みかけの炭酸水、缶ビール、沙織の化粧用パックが入っている。卵も牛乳もなく、野菜室には乾きかけた長ねぎが一本入っているだけだった。冷蔵庫の大きさに対し、食べられる物はほとんどなかった。
「沙織、パンは?」
拓也が洗面所へ向かって叫んだ。
「昨日、お義父さんが最後の二枚を食べました」
「米は?」
「炊いていません」
「炊飯器は?」
「まだ箱から出していないでしょう」
拓也は流し台の周りを探した。高価な炊飯器は、廊下に積まれた段ボール箱のどれかへ入っている。電子レンジの横には、前夜に食べたカップ麺の空き容器と、飲み残したスープが置かれていた。
「弁当は?」
「あるわけないでしょう」
「母さんがいたときは、玄関に置いてあったのに」
「だったら、お義母さんに作ってもらえばいいじゃないですか」
「母さんは会社の近くへ引っ越したんだよ。ここまで来て弁当を作れるわけないだろ」
「私だって、朝から拓也くんのお弁当を作るために起きるつもりはありません」
拓也は冷蔵庫の扉を閉めた。空腹で腹の奥が重く、昨夜食べたカップ麺の塩気が口に残っている。時計を見ると、電車へ間に合うためには、あと五分で家を出なければならなかった。
「コンビニで買っていく」
拓也は上着を着て、玄関へ向かった。革靴は前日の雨で濡れたまま、たたきに置かれている。新聞紙を入れて乾かす人がいなかったため、つま先へ足を入れると靴下まで冷たくなった。
「沙織、靴、濡れたままだよ」
「私は靴磨きまでしませんよ」
「磨けとは言っていない。せめて乾かしておいてくれてもいいだろ」
「自分でやってください。私だって自分の靴は自分で管理しています」
「母さんは、家族全員の靴をそろえていたけどな」
「またお義母さんですか?」
沙織は階段の途中から拓也をにらんだ。拓也は返事をせず、濡れた革靴のまま玄関を出た。
駅前のコンビニへ駆け込み、サンドイッチと缶コーヒー、昼食用の弁当を籠へ入れた。レジで家族カードを差し出すと、店員が端末を何度か操作した。画面には利用不可の表示が出ている。
「申し訳ございません。こちらのカードはご利用いただけないようです」
「もう一度お願いします。昨日までは使えたんです」
「再度お通ししましたが、同じ表示になります」
拓也は後ろに並んだ客の視線を感じ、財布を開いた。現金は千円札一枚と小銭しかなく、弁当まで買うには足りない。サンドイッチと缶コーヒーだけを残し、昼食用の弁当を棚へ戻してもらった。
「母さん、本当にカードまで止めたのか」
コンビニを出たときには、電車の発車時刻が迫っていた。拓也はサンドイッチを鞄へ押し込み、駅まで走った。缶コーヒーを開ける余裕もなく、朝食を食べないまま電車へ飛び乗った。
新居では、沙織が洗濯機の前で説明書を広げていた。ページには洗剤の自動投入、乾燥フィルターの掃除、衣類の仕分けについて細かな文字が並んでいる。読むのが面倒になり、標準コースのボタンを押したが、洗剤を入れたかどうかは分からないままだった。
「俺の作業着を先に乾かせ」
修一が腕時計を見ながら言った。今日は早朝ではなく、午前十時からの追加勤務だったが、家を出るまで一時間しかない。ほかに着られる作業着は、まだ開けていない衣類箱の中だった。
「今、洗い直しています」
「乾燥まで何分かかる?」
「表示には二時間四十分と出ています」
「そんなに待てるか。途中で止めて、作業着だけ乾かせ」
「洗っている途中で開けられませんよ」
「何のために高い洗濯機を買ったんだ」
「お義母さんが買ったわけではないでしょう。私に文句を言わないでください」
「洗濯機の話ではなく、お前が使えないことを言っているんだ」
修一は洗面所の扉を強く閉めた。二階へ戻り、積み上げられた段ボール箱から予備の作業着を探す。釣り道具、古い雑誌、上着、下着が箱ごとに分かれず詰め込まれており、どれを開けても必要な物は見つからなかった。
「美紀のやつ、どうして分かるように詰めておかなかったんだ」
修一は箱の中身を床へ投げ出した。美紀が書いた「修一・衣類」という文字は箱の横に残っていたが、修一は見ようとしなかった。シャツや靴下が新しい床へ散らばり、釣り餌の古い袋から生臭い匂いが漏れた。
ようやく見つけた予備の作業着は、何年も着ていないため折り目が白くなっていた。腹回りもきつく、ズボンのボタンを留めると布が引っ張られる。修一は舌打ちをしながら着替え、朝食を求めて再び台所へ降りた。
「何か食う物はないのか?」
「冷蔵庫に牛肉がありますよ」
「朝から生の牛肉をどうやって食べるんだ」
「お義父さんがパンを全部食べたんでしょう」
「買っておけと言えば、美紀は買っておいた」
「私はお義母さんではありません」
「それはもう聞いた」
修一は缶ビールへ手を伸ばしかけ、仕事前だと思い直して冷蔵庫を閉めた。食器棚から菓子を探したが、金色の縁のカップと白い皿しか入っていない。引っ越し祝いでもらった焼き菓子は、沙織が自分の衣装部屋へ持っていっていた。
「沙織さん、何か菓子でもないのか?」
「二階にありますけど、お友達にもらった物です」
「一つくらいくれ」
「数が決まっているので嫌です」
「家族なのに、菓子一つも分けないのか」
「お義母さんを他人だと言ったとき、お義父さんも賛成したでしょう。家族だから何でもしてもらえると思わないでください」
沙織は言い返し、桃色のカップへインスタントコーヒーを入れた。牛乳がないため湯だけを注いだが、苦すぎて一口で流し台へ捨てる。黒い液体が昨夜のカップ麺の汁と混じり、排水口から塩と油の匂いが上がった。
修一は何も食べずに家を出た。玄関にはごみ袋が二つ置かれ、寿司の空き容器やカップ麺の容器から生ものの匂いが漏れている。収集日がいつなのか、三人とも確認していなかった。
家の前には、近所の人が出したごみ袋が一つもなかった。修一は曜日を思い出そうとしたが、美紀が毎朝ごみを分別して出していたため、可燃ごみの日さえ知らなかった。自分の家の前へ置けば誰かが持っていくだろうと考え、袋を門の外へ残した。
午前十時を過ぎ、家に一人残った沙織は、洗濯機の終了音を聞いた。ふたを開けると、作業着と白いシャツ、色の濃いタオルが一緒に絡まっている。拓也の白いワイシャツには、修一の黒い靴下から移った毛がいくつもついていた。
乾燥まで終わったはずなのに、厚いタオルはまだ湿っていた。沙織はそれを洗濯籠へ押し込み、二階へ運ぶ。畳むつもりだったが、スマートフォンに友人から新居の写真を見せてほしいと連絡が入り、籠を廊下へ置いたまま返信を始めた。
昼近く、郵便受けへ数通の封書が届いた。携帯電話会社、保険会社、カード会社からのものだった。沙織は封を開け、払込方法の変更、家族カードの利用停止、保険料の口座登録についての案内を読んだ。
「本当に全部止めたんだ……」
沙織は白い食卓へ封筒を広げた。今月から誰がいくら払うのか、家族カードが使えないなら日用品を何で買うのか、保険料の締め切りはいつなのか、書類を見てもすぐには分からなかった。美紀が作っていた家計簿も、支払い予定を書いた手帳も、この家にはなかった。
沙織は拓也へ電話をかけた。しかし拓也は仕事中で出ず、「昼休みにかけ直す」と短いメッセージだけを返した。修一にも電話したが、品出し中なのか応答しなかった。
食卓の上には、封を切った通知書、家電の分割払い明細、住宅ローンの返済予定表が重なっていく。書類の端には、誰かがこぼしたコーヒーが染み込み、茶色く広がっていた。沙織は拭こうとしたが、布巾がどこにあるのか分からなかった。
美紀がいなくなっただけだった。朝食がなくなり、弁当がなくなり、洗濯物がたまり、ごみの収集日が分からなくなった。家族カードや保険料の通知まで届き、誰が何を支払っていたのかも見えなくなった。
三人は、美紀が朝四時半から動いていたことを知っていた。しかし、朝食と弁当を作る以外に、洗剤を補充し、作業着を乾かし、冷蔵庫の中身を確認し、ごみを分別し、支払日を管理していたことまでは考えたことがなかった。見えていなかった仕事が一度に止まり、新しい家の中で滞り始めていた。
午後になっても、洗濯籠は廊下へ置かれたままだった。流し台には朝から使ったカップと、前夜の容器が残り、室内には生乾きの衣類と生ごみの匂いが混じっている。白い食器棚と大型テレビだけが、何事もないように光っていた。




