第19話 引き落とされなかった住宅ローン
第19話 引き落とされなかった住宅ローン
住宅ローンの最初の引き落とし日は、朝から冷たい雨が降っていた。拓也は午前六時半に起き、しわの残った白いワイシャツへ腕を通した。洗濯乾燥機でほかの衣類と一緒に洗ったため、襟には黒い糸くずがつき、袖口は半乾きのままだった。
台所へ降りても、朝食は用意されていなかった。流し台には昨夜食べた焼きそばの皿と、修一が使ったビールグラスが残っている。油の固まった皿から、冷えたソースと洗い残した生ごみの匂いが漂っていた。
「沙織、何か食べる物はないの?」
拓也が二階へ向かって呼ぶと、白いフリース姿の沙織が眠そうに降りてきた。髪は頭の上でまとめられ、頬には枕の跡がついている。
「冷蔵庫にヨーグルトがありますよ」
「それ、沙織の分だろ」
「一つくらい食べてもいいですけど、帰りに買ってきてくださいね」
「パンは?」
「昨日、お義父さんが食べました」
「米を炊いておいてって言っただろ」
「炊飯器の予約を忘れたんです。拓也くんが夜食を食べると思って、残っていた御飯は取っておいたんですけど」
「その御飯は?」
「お義父さんが、お茶漬けにして食べたみたいです」
拓也は冷蔵庫を開けた。中にはヨーグルトが一つ、飲みかけの牛乳、缶ビール、袋の口が開いたハムが三枚入っている。野菜室には、しなびたキュウリと、半分に切った玉ねぎが転がっていた。
「ハムだけでも焼いてよ」
「今からですか?」
「そのまま食べてもいいけど、弁当にも入れたいんだよ」
「三枚しかないでしょう。朝御飯とお弁当に分けたら、一枚半ずつですよ」
「卵は?」
「切れています」
「何で買っておかないんだよ」
「家族カードが止められたんだから、簡単に買えないでしょう。私のカードを使ったら、私の口座から落ちるんですよ」
「生活費なんだから、使えばいいだろ」
「私は自分の化粧品や服の支払いもあるんです」
沙織は冷蔵庫からヨーグルトを取り出し、桃色のスプーンで食べ始めた。拓也はハムを一枚だけ手に取り、そのまま口へ入れる。冷たい脂が舌に残り、空腹が増しただけだった。
食卓の上には、沙織が買った新しい雑貨が並んでいた。白い陶器の花瓶、金色の縁がついた写真立て、香りの強い室内用芳香剤、毛足の長いクッションが二つ置かれている。どれも新居のリビングに合うという理由で、沙織が自分のカードを使って買った物だった。
「これ、全部でいくらしたの?」
拓也がクッションを持ち上げると、沙織はヨーグルトの容器を流し台へ置いた。
「全部合わせても四万円くらいです」
「四万円も?」
「新居には、それなりの物が必要だと話したでしょう?」
「母さんの十五万円が入らなくなったんだぞ」
「お義父さんが代わりに出してくださるって言っていました」
「まだ一円も入っていないよ」
「今日、住宅ローンの引き落とし日でしょう? 朝になったら振り込んでくれるんじゃないですか?」
拓也はスマートフォンで銀行口座を確認した。修一からの入金はなく、残高は八万千円ほどしかない。住宅ローンの引き落とし額は十二万三千円で、四万円以上足りなかった。
「足りないじゃん」
「昨日までは、もっとあったんじゃないですか?」
「家電の分割払いと、車のローンが先に落ちている。それに保険料とカードの支払いも」
「私のカードの支払いは、私の口座ですよ」
「家具とカーテンは俺のカードだろ。引っ越し前に、沙織が家族カードを使えなくなったからって、俺のカードで買ったじゃん」
「だって、必要な物でしょう?」
「写真立てまで必要なのか?」
「友達からもらった写真を飾るんです。何もない家なんて、モデルルームみたいで落ち着かないでしょう」
「今は写真より住宅ローンだろ」
沙織は口を結び、使い終わったヨーグルトの容器を流し台へ押した。容器の底には白いヨーグルトが少し残り、昨日の皿に触れて傾いている。拓也は父親へ電話をかけようとしたが、午前七時を過ぎたところだったため、出勤前に話せばよいと考えた。
「父さん、起きている?」
拓也が階段の下から呼ぶと、二階の部屋から修一のいびきが聞こえた。今日はスーパーの勤務が休みらしく、起きてくる気配はない。拓也は舌打ちをして上着を着た。
「父さんが起きたら、今日中に五万円以上振り込んでくれって言っておいて」
「私が言うんですか?」
「俺はもう出ないと遅刻するんだよ」
「私からお金を頼むのは嫌です」
「父さんが、この家を支えるって言ったんだろ」
「拓也くんから頼んだほうがいいと思います」
「分かった。電車の中から連絡するよ」
拓也は朝食も弁当も持たず、家を出た。玄関脇には前日から置かれたごみ袋が三つ並び、缶ビールや総菜の容器から甘酸っぱい匂いが漏れている。収集日を間違えて出した袋には、回収できないという赤いシールが貼られていた。
駅へ向かう途中、拓也は修一へメッセージを送った。
「今日、住宅ローンの引き落とし。口座に五万円足りない。午前中に振り込んで」
修一から返事はなかった。拓也はコンビニへ寄る時間もなく、冷たい雨の中を走った。濡れた革靴の中で靴下が滑り、駅へ着いた頃にはワイシャツの肩まで湿っていた。
午前十時半、拓也が取引先へ提出する書類を確認していると、机の上のスマートフォンが震えた。画面には、住宅ローンを借りた銀行の番号が表示されている。拓也は周囲を見回し、席を立って廊下へ出た。
「佐伯拓也様のお電話でよろしいでしょうか?」
銀行の担当者は、落ち着いた声で本人確認をした。拓也が名前と生年月日を答えると、わずかな間のあとに用件を告げられた。
「本日、住宅ローンの初回ご返済日となっておりますが、口座の残高が不足しており、お引き落としができませんでした」
拓也は廊下の窓へ背中を向けた。外では雨がビルのガラスを細く流れている。社員食堂からカレーを煮る匂いが漂い、空腹の胃が小さく鳴った。
「今日中に入金すれば、大丈夫ですか?」
「本日中に必要金額をご入金いただきましたら、再度のお引き落としについて確認いたします。ただし、再引き落としの時期は契約内容によって異なります」
「あと、いくら足りませんか?」
「現在の残高との差額は、四万二千円ほどです。ただ、ほかのお引き落とし予定がある場合は、少し余裕を持ってご入金ください」
「分かりました。今日中に入れます」
「初回から遅延となりますので、必ずご対応をお願いいたします」
電話が切れると、拓也はすぐに修一へ電話をかけた。何度呼び出しても出ないため、続けて二回かける。三回目でようやく修一の不機嫌な声が聞こえた。
「朝から何度もかけてくるな。寝ていたんだぞ」
「もう十時半だよ。メッセージを見た?」
「まだ見ていない」
「住宅ローンが引き落とせなかったんだ。今日中に、最低でも五万円を俺の口座へ入れてくれ」
「美紀の十五万円は?」
「振込を止めたって言っただろ」
「母親のくせに、息子の家を潰す気か」
「今は母さんの話じゃない。父さんが代わりに払うって言ったんだろ」
「分かっている。今月だけ振り込むのを忘れていたんだ」
「今日中に頼むよ。銀行からも電話が来たんだ」
「五万円くらいで騒ぐな。俺が何とかする」
「何時までに入れられる?」
「午後には入れておく」
「絶対だよ」
拓也は何度も念を押し、電話を切った。父親が忘れていただけなら、午後には解決すると考えた。自分の給与口座には、ほかの貯金もあるはずだったが、新居購入時の諸費用や家具の支払いでほとんど使っている。
昼休みになっても、拓也は弁当を買わなかった。財布の中には千円札が一枚しかなく、給料日まではまだ数日ある。社員食堂で一番安いかけうどんを注文し、無料の湯を紙コップへ注いだ。
隣の席では、同僚が妻の作った弁当を広げていた。鮭、卵焼き、ほうれん草のおひたしが入り、蓋を開けると醤油と海苔の匂いが漂ってくる。拓也は、母親の弁当にはいつも同じようなおかずが入っていたことを思い出した。
「佐伯さん、今日は弁当じゃないんですか?」
同僚が尋ねた。拓也は七味唐辛子をうどんへ振りながら答える。
「引っ越したばかりで、まだ台所が片づいていないんだ」
「大変ですね。いつも立派な弁当だったから、奥さんが料理上手なのかと思っていました」
「あれは母さんが作っていたんだよ」
「お母さんと同居しているんですか?」
「いや、今は別に暮らしている」
「では、これから自分で作るんですね」
同僚は何気なく言い、弁当の卵焼きを口へ入れた。拓也は返事をせず、柔らかくなりすぎたうどんをすすった。つゆは薄く、腹にたまる具も入っていなかった。
午後三時、拓也は口座を確認した。修一からの入金はない。午後五時になっても残高は八万千円のままだった。
仕事を終えると、駅のホームで再び修一へ電話をかけた。今度はすぐに出たが、背後からパチンコ店の音楽と玉のぶつかる音が聞こえる。修一は休みの日を、家の近くの店で過ごしていた。
「父さん、まだ振り込まれていないよ」
「今、外にいるんだ」
「どこ?」
「少し用事があって出ている」
「パチンコ屋だろ」
「音だけで決めつけるな」
「銀行が閉まっているよ。どうやって振り込むんだよ」
「スマートフォンからできるんだろう?」
「なら、今すぐやって」
「操作が分からない。家に帰ってから、お前がやればいい」
「父さんの口座から俺の口座へ振り込むんだよ。暗証番号も必要だろ」
「帰ったら教える」
「今日は絶対に頼むからね」
拓也は電話を切り、何度も口座の画面を更新した。数字は変わらなかった。電車の窓へ映った自分のワイシャツには、朝についた黒い糸くずがまだ残っていた。
新居へ帰ると、玄関には宅配便の箱が三つ置かれていた。沙織が注文したクッションカバー、造花、台所用の収納ケースが届いている。廊下には洗濯物の入った籠が置かれ、濡れたタオルの匂いが家の中にこもっていた。
「沙織、また買ったの?」
拓也が箱を指すと、沙織は白い部屋着の上に新しい薄紫色のエプロンをつけていた。料理を始めるつもりだったらしいが、調理台には包丁と未開封のもやし、豚肉の容器が並んだままだった。
「収納が足りないから買ったんです。造花は玄関に必要でしょう?」
「今、住宅ローンが引き落とせていないんだよ」
「お義父さんが払ってくださるんじゃないんですか?」
「まだ振り込まれていない」
「では、帰ってきたら聞いてください」
「父さんはまだ帰っていないの?」
「夕食はいらないって連絡が来ました」
「俺の夕食は?」
「野菜炒めを作ろうと思ったんですけど、味つけが分からなくて」
「塩と胡椒で炒めればいいだろ」
「簡単なら、拓也くんが作ってください」
沙織はエプロンを外し、ソファへ置いた。胸元に小さな花の刺繍が入った新しいエプロンは、一度も汚れていない。拓也はネクタイを外し、豚肉ともやしをフライパンへ入れた。
油をひかずに肉を入れたため、すぐに底へ張りついた。木べらを探したが見つからず、菜箸で剥がそうとすると肉が細かくちぎれる。もやしを加えると水分が出て、炒め物というより煮物のようになった。
「何か、まずそうですね」
沙織がソファから言った。
「作らない人は黙っていてよ」
「醤油を入れたらいいんじゃないですか?」
「どこにある?」
「お義母さんが荷物と一緒に持っていったんじゃないですか?」
「母さんの調味料じゃないだろ。台所の箱に入っていたはずだ」
二人で戸棚を探し、ようやく醤油を見つけた。賞味期限は十分残っていたが、開封後に冷蔵庫へ入れることを知らず、調理台の奥へ置かれていた。拓也は量を確かめず、フライパンへ直接回しかけた。
出来上がった野菜炒めは塩辛く、豚肉の一部は焦げ、もやしは水っぽかった。二人は新しい白い皿へ盛り、冷凍御飯を電子レンジで温める。味噌汁は作らず、ペットボトルの茶をコップへ注いだ。
「しょっぱいです」
沙織が一口食べて言った。
「醤油を入れろって言ったのは沙織だろ」
「こんなに入れるとは思いませんでした」
「母さんの料理は薄いって言っていたけど、あれくらいでよかったんだな」
「またお義母さんの話ですか?」
「なら、沙織が作ってよ」
「私は家政婦ではありません」
「俺だって料理人じゃないよ」
二人が言い争っていると、午後九時過ぎに修一が帰ってきた。茶色いジャンパーから煙草と酒の匂いを漂わせ、片手にはコンビニの袋を持っている。中には缶ビールと焼き鳥が入っていた。
「父さん、金は?」
拓也は食卓から立ち上がった。修一は靴を脱ぎ、何の話か分からないような顔をする。
「何の金だ?」
「住宅ローンだよ。五万円振り込むって言っただろ」
「ああ、それか。今からやればいい」
「口座を見せて。俺が操作する」
「食事くらいさせろ」
「銀行から朝に電話が来ているんだよ」
「一日遅れたくらいで、家を取られるわけじゃない。細かいことを言うな」
修一は白いソファへ座り、缶ビールを開けた。拓也は父親の前へ立ったまま、スマートフォンを差し出す。
「俺の口座へ今すぐ送ってよ」
「だから、あとでやると言っているだろ」
「本当に金は残っているんだよね?」
「俺を疑うのか?」
「なら、今払えるだろ」
修一は答えず、焼き鳥の袋を開けた。甘いタレと焦げた鶏肉の匂いがリビングへ広がる。沙織も食卓から修一の顔を見ていた。
「お義父さん、この家を支えてくださると約束しましたよね?」
「分かっている。年金が入れば、まとめて出す」
「年金は、いつ入るんですか?」
「来月だ」
「今日の住宅ローンはどうするんです?」
「今日はもう遅い。明日、銀行へ行く」
「明日は仕事でしょう?」
「仕事のあとでいいだろ」
修一は缶ビールを飲み、テレビの電源を入れた。拓也は自分の口座を更新したが、残高は変わらない。午後十時、十時半、十一時になっても、修一からの五万円は振り込まれなかった。
食卓には、冷めた野菜炒めと住宅ローンの返済予定表が並んでいた。醤油の染みが書類の端へ広がり、最初の引き落とし日を示す数字まで茶色く汚している。沙織が買った白い花瓶には造花が飾られ、その横で銀行からの不在着信が点滅していた。
拓也は何度口座を確認しても、八万千円という数字しか表示されなかった。美紀の十五万円も、修一が約束した五万円も入っていない。新居の最初の住宅ローンは、その日のうちに引き落とされないまま、日付だけが変わった。




