第20話 銀行のせいにする父
第20話 銀行のせいにする父
翌朝、拓也は銀行からの着信音で目を覚ました。時刻は午前八時十分で、枕元には昨夜脱いだ靴下と、飲み残したペットボトルの茶が転がっている。白いワイシャツは椅子の背へ掛けたままで、醤油の匂いがついた袖口には深いしわが残っていた。
電話へ出ると、昨日と同じ銀行の担当者が、住宅ローンの返済金を確認できていないと告げた。今日の午前中までに不足分を入金し、必ず連絡するよう求められる。拓也は布団から起き上がり、何度も頭を下げるようにしながら答えた。
「今日中に必ず入金します。父が振り込む予定なんです」
「入金後、こちらへご連絡いただけますか?」
「分かりました。午前中に連絡します」
「初回のご返済ですので、早急な対応をお願いいたします」
電話が切れると、拓也は銀行口座を確認した。残高は昨夜と同じ八万千円のままである。修一が約束した五万円は、朝になっても振り込まれていなかった。
拓也は灰色のスウェット姿のまま、二階の廊下へ出た。修一の部屋の前には、脱ぎ捨てられた作業着と、空になった缶ビールが置かれている。扉を開けると、布団の中から酒と煙草が混じった匂いがした。
「父さん、起きて。銀行からまた電話が来た」
拓也が布団を揺らすと、修一は顔だけを出した。髪は片側へつぶれ、口元には乾いた唾の跡が残っている。
「朝からうるさいな。今日は休みだぞ」
「昨日、五万円を払うって言っただろ」
「今日、銀行へ行く」
「俺も一緒に行くよ」
「どうしてだ」
「その場で俺の口座へ振り込んでほしいから」
「定期預金の解約には本人しか入れない場所がある。お前がついてきても邪魔だ」
「定期預金があるの?」
「当たり前だ。家を売った金を全部、普通預金へ入れておくわけがないだろ」
修一は布団から出ずに答えた。拓也は父親が家の売却代金を定期預金へ移したのだと思い、少しだけ肩の力を抜いた。修一が銀行口座を見せようとしないのは、まとまった金額を息子に知られたくないからだと考えた。
「解約したら、いくら出せる?」
「必要な分は出せる」
「今月だけでなく、来月からも十五万円を出してくれるんだよね?」
「美紀が戻るまでだ」
「母さんは、新しい部屋を借りたって言っているよ」
「どうせ一人暮らしなんか長く続かない。朝から晩まで家族の世話をするしか能がない女だ。しばらくすれば戻りたいと言ってくる」
「母さん、一千万円の話まで持ち出していたけど」
「あれも脅しだ。息子に出した金を、今さら返せるわけがないだろう」
修一は掛け布団を頭まで引き上げた。拓也は銀行へ行く時刻だけは連絡するよう言い、部屋を出た。父親の言葉を疑うより、定期預金があると信じるほうが都合がよかった。
一階では、沙織が白いフリース姿で新しいコーヒーメーカーを操作していた。説明書を読まずに水を多く入れたため、薄い茶色の液体が大きなポットへたまっている。カップへ注いで一口飲むと、顔をしかめて砂糖を二本入れた。
「お義父さん、何て言っていました?」
「定期預金を解約して、今日払うって」
「だったら大丈夫ですね」
「でも、銀行から午前中に入金しろって言われたんだ」
「お義父さんを急がせてください」
「沙織からも言ってよ」
「お金を出してもらうのに、急かすのは失礼でしょう?」
「住宅ローンが払えないほうが困るだろ」
沙織は返事をせず、昨日届いた宅配便の箱を開け始めた。中には白いクッションカバー、玄関用の造花、金色の小さな置き時計が入っている。箱の底には、クレジットカードの利用明細が同封されていた。
「それ、返品できないの?」
拓也が尋ねると、沙織は造花を胸へ抱えた。
「どうして返品するんですか?」
「今は雑貨を買っている場合じゃないだろ」
「注文したのは、住宅ローンが引き落とされる前です」
「支払いは来月だよ」
「その頃には、お義父さんの定期預金も解約できています」
「父さんの金を当てにして、また買うのはやめてくれ」
「これは新居に必要な物です」
沙織は造花を白い花瓶へ入れ、玄関の棚へ飾った。淡い紫色の花びらには細かな布のほつれがあり、近づくと新品の接着剤の匂いがした。
「食費も減らさないといけないかもしれない」
拓也が言うと、沙織は花瓶の位置を直して振り返った。
「食費まで減らすんですか?」
「今朝も食べる物がないだろ。毎日コンビニや宅配では金がかかる」
「安い物ばかり食べるのは嫌です」
「自分で料理すれば安くなるよ」
「新居を買ったばかりなのに、もやしや豆腐ばかり食べるんですか?」
「母さんは、そういう物も使っていたじゃん」
「私はお義母さんとは違います。せっかく新しい家を買ったのに、貧乏くさい暮らしなんてしたくない」
沙織は冷蔵庫から高価な果汁入りジュースを出し、金色の縁がついたグラスへ注いだ。値段の安い麦茶を作ればよいと拓也が言うと、来客へ出せないから嫌だと答えた。今のところ、新居を訪ねる予定の客は一人もいなかった。
「客の前に住宅ローンだろ」
「お義父さんが払うと言っているでしょう?」
「まだ払っていないんだよ」
「銀行の手続きに時間がかかっているだけです。お義父さんを疑うのはよくないと思います」
沙織は拓也より、金を持っていると思っている修一をかばった。拓也も定期預金の存在を信じたかったため、それ以上は言わなかった。冷蔵庫に残ったハムを二枚だけパンへ挟み、朝食にした。
午前九時半、修一は濃紺のジャンパーを着て家を出た。拓也が銀行まで送ると申し出たが、一人でなければ手続きできないと言って断る。胸ポケットには通帳ではなく、煙草と女性から届いたメモが入っていた。
「何時に戻る?」
拓也が玄関で尋ねた。修一は靴ひもを結びながら答える。
「昼までには戻る」
「入金したら、すぐに連絡して」
「分かっている」
「五万円より少し多めに入れてよ。遅延分が加算されるかもしれないから」
「銀行へ行けば分かる」
修一は家を出た。しかし駅前の銀行へは向かわず、裏通りにある喫茶店へ入った。待ち合わせていた女性が、窓際の席で白いコートを脱ぎながら手を振っている。
「お待たせ」
修一は女性の向かいへ座った。店内にはコーヒーと焼いたパンの匂いが漂い、壁際のストーブから乾いた熱が流れている。女性の首元には、修一が家の売却代金で買ったネックレスが光っていた。
「定期預金の解約は済んだの?」
女性が笑いながら尋ねた。修一は一瞬だけ顔を固くした。
「何の話だ?」
「さっきの電話で、銀行へ行くって言っていたでしょう?」
「あれは息子への言い訳だ。住宅ローンの金が足りないらしい」
「あなたが払うの?」
「今月だけだ。美紀が戻れば、またあいつが払う」
「奥さん、もう別の部屋を借りたんでしょう?」
「意地を張っているだけだ。放っておけば戻る」
修一はモーニングセットを二つ注文した。厚切りトースト、ゆで卵、サラダ、コーヒーがついている。家では朝食がないと文句を言っていたが、女性の前では自分から皿を運び、砂糖まで手渡した。
「来月の旅行、本当に行けるの?」
女性がトーストへバターを塗りながら尋ねた。修一は息子へ渡すはずの金より、旅行の予定を守ることを優先した。
「予約は済んでいる。心配するな」
「宿泊代、高かったでしょう?」
「家の金がまだある」
実際には、解約できる定期預金など存在しなかった。修一の普通預金には、温泉旅行の残金と毎月の生活費を考えれば、息子夫婦へ十五万円ずつ渡せる余裕はない。それでも五万円を出せないとは言えず、銀行の手続きが遅れていることにするつもりだった。
午前十一時、拓也は修一へ電話をかけた。修一は喫茶店を出たばかりで、女性と駅前の宝飾店へ向かっている途中だった。周囲の車の音を隠すように、路地へ入ってから電話に出る。
「父さん、入金は?」
「まだ銀行にいる」
「もう手続きは終わった?」
「定期預金の解約には、確認が必要らしい。今日中には金が動かないそうだ」
「今日中に入れないと困るよ」
「銀行の手続きが遅いんだ。俺に言われても仕方ないだろ」
「普通預金から五万円だけ出せないの?」
「余分な金は定期へ移している」
「現金は?」
「今は持っていない」
「どうすればいいんだよ」
「一日か二日くらい、銀行に待ってもらえ」
「もう昨日から待ってもらっているんだ」
修一は銀行が悪いと言い、電話を切った。拓也がかけ直しても出なかった。スマートフォンの電源を切り、女性と宝飾店へ入った。
昼休み、拓也は会社近くの公園で菓子パンを食べた。ベンチには昨夜の雨が少し残り、灰色のズボンへ冷たい湿気が伝わってくる。口座の残高を確認しても、修一からの入金はなかった。
銀行からは、再び入金を求める電話が来ていた。今日中に支払わなければ、延滞の記録が残る可能性があると言われる。拓也はスマートフォンを握り、給与の前借りや同僚から借りる方法を考えたが、誰にも新居の最初の住宅ローンを払えなかったとは話せなかった。
画面には、以前登録した消費者金融の広告が表示された。新居購入の諸費用を調べたときに閲覧したため、関連広告として出てきたものだった。初めての利用なら短期間の利息が抑えられると書かれている。
「来月、父さんから返してもらえばいい」
拓也は小さく言った。五万円だけ借り、住宅ローンを払ったあと、修一の定期預金が解約されたらすぐ返せばよい。長く借りるつもりはなかった。
申し込み画面へ勤務先、年収、住所、借入希望額を入力した。住宅ローンがあるかという欄には「あり」を選び、ほかの借入額には車のローンを記入する。審査結果を待つ間、食べかけの菓子パンは冷え、クリームが指へついた。
一時間ほどで、十万円まで利用できるという連絡が来た。拓也は五万円だけ借り、自分の銀行口座へ振り込む。画面の残高が十三万千円へ増えたことを確認し、すぐに銀行へ電話した。
「不足分を入金しました」
「確認いたします。少々お待ちください」
電話の向こうで保留音が流れた。拓也は公園の木から落ちる水滴を見ながら待った。やがて担当者が戻り、必要な金額を確認できたと告げた。
「本日、返済処理を進めます。次回以降は、前日までに残高をご確認ください」
「分かりました。ご迷惑をおかけしました」
「住宅ローンは長期間のお支払いになります。無理のない資金管理をお願いいたします」
拓也は何度も頭を下げるように答え、電話を切った。最初の住宅ローンは払えた。しかし口座には数千円しか残らず、新たに五万円の借金が増えていた。
帰宅すると、沙織は新しいクリーム色のワンピースを着ていた。友人を新居へ招くため、ネットで注文した服だった。袖口には小さな真珠の飾りがつき、動くたびに衣類用香水の甘い匂いが広がった。
「住宅ローン、払えた?」
「消費者金融から五万円借りた」
「借金したんですか?」
「父さんの定期預金が解約されるまでだよ。来月には返してもらう」
「それなら大丈夫ですね」
沙織は深く考えずにうなずいた。食卓には総菜店で買ったローストビーフ、海老のサラダ、小さなチーズケーキが並んでいる。三人分で六千円近くかかったという。
「今日くらい、安い弁当でよかっただろ」
「住宅ローンが払えたお祝いですよ」
「借金して払ったんだぞ」
「来月返せるなら同じでしょう。それに、毎日貧乏くさい食事をしたら気分まで下がります」
「父さんが払えなかったら、どうするの?」
「銀行の手続きが遅れているだけですよ。お義父さんに定期預金があるなら、何も心配いりません」
沙織はローストビーフを白い皿へ並べ、写真を撮った。皿の脇には、金色の小さな置き時計と造花が映り込んでいる。住宅ローンを消費者金融で補った家には見えない写真だった。
午後八時を過ぎて修一が帰宅すると、手には銀行の封筒ではなく、宝飾店の小さな紙袋があった。拓也が気づく前に、修一は紙袋をジャンパーの内側へ隠す。女性が店で選んだ指輪を、取り寄せてもらうための注文控えが入っていた。
「父さん、住宅ローンは俺が払ったよ」
拓也が言うと、修一は靴を脱ぎながらうなずいた。
「そうか。助かった」
「消費者金融から五万円借りた。定期預金が解約できたら、すぐ返してよ」
「分かっている。銀行の手続きが済めば払う」
「いつ済むの?」
「一週間くらいかかるらしい」
「そんなに?」
「銀行が遅いんだ。本人確認だの、印鑑だの、面倒なことばかり言う」
「来月までには間に合うよね?」
「当たり前だ。次の十五万円も俺が出す」
修一は胸を張り、ローストビーフの皿へ手を伸ばした。拓也は父親の言葉を信じ、消費者金融の画面を閉じる。沙織も安心し、修一のために赤ワインをグラスへ注いだ。
「お義母さんには、いつ戻ってもらうんですか?」
沙織が尋ねると、拓也はローストビーフを噛みながら考えた。
「もう少ししたら連絡するよ。母さんだって、いつまでも一人で暮らすつもりはないだろ」
「和室は荷物でいっぱいですけど」
「家事を手伝いに来るだけなら、部屋はいらないだろ」
「そうですね。十五万円も、また振り込んでもらわないと困ります」
「母さんは俺を見捨てられないよ。少し怒っているだけだ」
誰も、美紀へ謝りに行こうとは言わなかった。一千万円の条件を破ったことも、家を失った日に追い出したことも、話題にはならない。どう説得すれば美紀が再び十五万円を払い、朝食や弁当を作るようになるかだけを考えていた。
食卓には、冷めたローストビーフと飲み残した赤ワインが残った。白い皿の端へ肉の脂が固まり、芳香剤と酒の匂いが混じっている。住宅ローンの返済予定表は、通販の箱と雑貨の明細の下へ押し込まれていた。
一回目の住宅ローンは、消費者金融から借りた五万円で何とか支払われた。修一の定期預金が解約されたわけではなく、美紀が戻ったわけでもない。それでも三人は、来月になれば金が用意されると考え、生活を変えようとはしなかった。




