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第8話 母の一千万円

第8話 母の一千万円


月曜日の朝、美紀はいつもより早く目を覚ました。目覚まし時計が鳴る前から何度も時刻を確かめていたため、午前四時半になる頃には布団の中で目を開けていた。隣では修一が口を開けて眠り、枕元には充電中のスマートフォンが画面を伏せて置かれている。美紀は花柄の寝間着の上に薄い水色のカーディガンを羽織り、足音を立てないよう台所へ向かった。


炊飯器の蓋を開けると、温かな蒸気と米の匂いが顔に当たった。美紀は四人分の朝食を用意しながら、拓也の弁当箱へ豚肉の生姜焼き、卵焼き、ブロッコリーを詰める。自分の弁当には昨夜の残りのひじきと、形の崩れた卵焼きの端を入れた。


「今日は銀行へ行くんだったな」


修一が灰色のジャージ姿で台所へ入ってきた。椅子へ座ると、新聞を広げる前に美紀の顔を見る。美紀が一千万円を振り込む日だということだけは、きちんと覚えていた。


「午前中に行くわ。会社にも少し遅れると伝えてある」


「間違えずに拓也の口座へ入れろよ」


「一千万円もの振込を間違えるわけにはいかないでしょう」


「お前は細かい数字ばかり見ているから、かえって間違えるんだ」


「会社でも、毎日数字を扱っているのよ」


「家の金と会社の金は違うだろ」


修一は味噌汁をすすり、味が薄いと眉を寄せた。美紀は減塩味噌を使っていると説明せず、焼いたホッケを修一の前へ置く。修一は大根おろしが少ないと言い、醤油を何度も回しかけた。


午前六時になると、拓也夫婦も起きてきた。拓也は白いワイシャツのボタンを留めながら椅子へ座り、沙織は淡い桃色の部屋着の上に毛足の長いカーディガンを着ていた。沙織の髪からは、甘い花の香りがした。


「母さん、今日、振り込んでくれるんだよな?」


拓也は味噌汁の椀を持ち上げながら尋ねた。美紀は卵焼きを切った包丁を洗い、布巾で水気を拭いた。


「ええ。銀行が開いたら行くわ」


「助かるよ。今日中に住宅会社へ入金の連絡をしないといけないんだ」


「振込が終わったら、会社へ行く前に連絡するわ」


「お願いしますね。遅れると引き渡しの日もずれるかもしれないので」


沙織は食卓へ座ったままスマートフォンを操作していた。美紀の一千万円について話しているのに、画面からほとんど顔を上げない。朝食のホッケにも手をつけず、冷蔵庫にヨーグルトはないのかと尋ねた。


「昨日、最後の一つを食べたでしょう?」


「補充してくれなかったんですか?」


「仕事の帰りに買う時間がなかったの」


「お義母さんが食べたわけじゃないんだから、なくなったことに気づきませんでした」


「冷蔵庫にバナナがあるわよ」


「朝はヨーグルトを食べる習慣にしたいんです。新居では切らさないようにしてくださいね」


沙織はホッケを拓也の皿へ移し、白い御飯を二口だけ食べた。美紀は返事をせず、流し台に積まれた食器を洗う。新居へ移ったあとも、冷蔵庫の中身を管理するのは自分の役目だと、沙織はすでに決めているようだった。


午前九時、美紀は駅前の銀行へ向かった。紺色のスーツに白いブラウスを合わせ、長年使っている黒い革の鞄を持っている。鞄の内側には糸のほつれた場所があり、通帳を入れた封筒の角が何度も擦れて白くなっていた。


銀行の自動扉が開くと、暖房の乾いた空気と床用ワックスの匂いが漂ってきた。番号札を取り、窓口前の椅子へ座る。隣では買い物用の手押し車を持った女性が年金の通帳を確かめ、向かいでは若い夫婦が子どもの写真を見ながら住宅ローンの相談をしていた。


美紀は鞄から通帳を取り出した。紺色の表紙は角が擦れ、何度も開いたページには給与の入金と、毎月の積立額が規則正しく並んでいる。三十五年間働き、少しずつ残してきた金だった。


拓也が小学校へ入った年、美紀は新しい春物のコートを買わず、母から譲られた茶色いコートのボタンをつけ替えて着た。中学生になると食べる量が増えたため、社員食堂では一番安いうどんを頼み、夕食の肉を多く買った。高校の修学旅行代や大学の学費が必要になったときも、積立を崩しながら、毎月一万円だけは老後のために残した。


取締役になって役員報酬が増えてからも、生活は大きく変えなかった。昼食は弁当を持参し、パンプスのかかとが減れば修理へ出し、財布も十年以上同じ物を使っている。修一が競馬や飲み会に金を使っても、家計が足りなくなれば美紀が補った。


「百二十七番のお客様、三番窓口へどうぞ」


番号を呼ばれ、美紀は立ち上がった。膝の上に置いていた通帳と印鑑を鞄へ落としそうになり、両手で抱え直す。窓口の女性は、淡い青色の制服を着て、胸元に銀色の名札をつけていた。


「本日は、どのようなお手続きでしょうか?」


「こちらの口座へ、一千万円を振り込みたいんです」


美紀は拓也の口座番号を書いた用紙を差し出した。窓口の女性は金額を確認すると、入力する手を止めて美紀を見た。


「一千万円でお間違いありませんか?」


「はい」


「高額のお振込ですので、目的をお伺いしてもよろしいでしょうか?」


「長男が購入する住宅の頭金です」


「お振込先のお名前は、ご長男様で間違いありませんか?」


「間違いありません」


窓口の女性は拓也の名前を読み上げ、美紀に再度確認を求めた。美紀は一文字ずつ目で追い、うなずく。手続き用紙へ署名するとき、ボールペンの先がわずかに止まり、「美」の最後の線が少し曲がった。


「大切な老後資金ですよね。ご家族とは、十分にお話し合いをされていますか?」


窓口の女性は声を落として尋ねた。高齢者を狙った詐欺ではないかと確認しているだけなのだろう。それでも、美紀は一千万円を出すことを、家族と十分に話し合っただろうかと考えた。


修一は、自分名義の家を相談せずに売った。拓也は、一千万円を受け取ることを当然の前提にしている。沙織は、振込が遅れると新居の引き渡しに影響すると心配したが、美紀の老後資金が減ることには何も言わなかった。


「息子夫婦と一緒に、新居で暮らすことになっています。そのためのお金です」


美紀は答えた。窓口の女性は少し間を置いたあと、確認書類を美紀の前へ出した。


「こちらにも、ご署名をお願いします」


「分かりました」


「本日お手続きをすると、取り消しが難しくなります。金額と振込先を、もう一度ご確認ください」


美紀は「一〇、〇〇〇、〇〇〇」と印刷された数字を見た。丸の数を指で追い、拓也の名前も確認する。そこへ署名し、印鑑を朱肉へ押しつけた。


銀行印を押す指に、いつもより力が入った。赤い印影は少しだけ濃くなり、円の外側に朱肉がにじんでいる。窓口の女性が書類を奥へ運ぶと、美紀は椅子に座ったまま、自分の手を見た。


数分後、手続きが終わった通帳を返された。残高の欄から、一千万円が減っている。数字はただ一行変わっただけだったが、三十五年間の弁当、買わなかったコート、修理して履き続けた靴、夜遅くまで働いた日の積み重ねが、その一行に含まれていた。


「お手続きは以上になります。控えは大切に保管してください」


「ありがとうございます」


美紀は通帳と控えを封筒へ入れ、鞄の一番奥へしまった。立ち上がると、隣の相談窓口では、若い夫婦が新しい家の間取りを見ながら笑っている。その妻は膝に赤ん坊を抱き、夫は小さな哺乳瓶を鞄へ戻していた。


銀行を出ると、冬の乾いた風が頬へ当たった。美紀は駅へ向かう前に、拓也へ電話をかけた。三回目の呼び出し音で、拓也が出た。


「母さん、終わった?」


「今、振り込んだわ。一千万円よ」


「本当? ありがとう。助かったよ」


「銀行の人からも確認されたけれど、間違いなくあなたの口座へ振り込んだから」


「分かった。あとで確認する」


「拓也」


「何?」


「このお金は、私が三十五年働いて貯めたものなの。大切に使ってね」


電話の向こうで、短い沈黙があった。拓也は誰かに呼ばれたらしく、「今行きます」と遠くへ返事をした。


「分かっているよ。じゃあ、仕事中だから切るね」


通話はそこで終わった。拓也が「ありがとう」と言ったのは、振込が終わったと伝えた瞬間だけだった。美紀は暗くなった画面を見てから、スマートフォンを鞄へ戻した。


会社へ到着すると、午前の会議はすでに始まっていた。美紀はコートを脱ぎ、会議室へ入る前に化粧室で口紅を塗り直す。鏡に映った白いブラウスの襟が曲がっていたため、両手で整えた。


「常務、銀行のお手続きは大丈夫でしたか?」


廊下で会った水野部長が尋ねた。美紀は鞄の中に入れた通帳を思い浮かべ、笑顔を作った。


「ええ。息子の新居のことで、少し振込をしてきたの」


「新居ですか。それはおめでとうございます」


「ありがとう。郊外の一戸建てなのよ」


「常務も一緒に暮らされるんですか?」


「その予定よ。一階に和室があるの」


美紀はそう答え、会議室の扉を開けた。机の上には赤字事業部の資料と、誰かが置いた個包装の飴が並んでいる。美紀はミント味の飴を一つ取り、空腹の胃へ温かい茶を流し込んだ。


夕方、美紀が帰宅すると、居間には修一の妹夫婦が来ていた。手土産のカステラが箱ごとテーブルへ置かれ、切り分けた黄色い生地から甘い卵の匂いが漂っている。沙織は新しい家のパンフレットを広げ、白いソファを置く場所を説明していた。


「お義姉さん、お帰りなさい。拓也くんたち、立派なお家を買ったんですってね」


修一の妹が笑顔で声をかけた。美紀は紺色のスーツの上着を脱ぎ、椅子の背へ掛ける。流し台には、朝の味噌汁の椀と昼に使ったらしい皿が積まれていた。


「ええ。今日、頭金の振込をしてきたところなの」


美紀が答える前に、修一が大きな声を出した。


「俺がこの家を売って、その金で用意してやったんだ。拓也もようやく一人前だよ」


「まあ、お兄さん、すごいじゃない。自分の家を売ってまで息子を助けるなんて、なかなかできないわよ」


「親なら当然だ。古い家を持っていても仕方ないからな。新居には俺たちの部屋もあるし、何も困らない」


修一は胸を張り、カステラを一切れ口へ入れた。美紀が今日振り込んだ一千万円については、一言も話さない。親戚夫婦は修一を立派な父親だと褒め、沙織もうなずいていた。


「お義父さんには、本当に感謝しています。おかげで、頭金を増やせました」


沙織が言った。美紀は親戚夫婦の前に湯飲みを並べ、急須へ新しい茶葉を入れる。修一の妹は、自分の隣の椅子を軽くたたいた。


「お義姉さんも座って。仕事から帰ったばかりでしょう?」


「夕食の支度をしないといけないから」


「今日は私たちが来たから、何か取ったらいいじゃない」


「お前たちは食べてきただろう。俺たちはまだなんだ」


修一が口を挟んだ。美紀は冷蔵庫を開け、朝に下ごしらえした鶏肉と大根を取り出した。鍋へ油を入れると、親戚たちの会話を背中で聞きながら、鶏肉を焼き始めた。


「家を売ったお金、かなり入ったんでしょう?」


「まあな。拓也の頭金へ出しても、少しは残る」


「お兄さんも老後は安心ね」


「美紀も働いているから、金の心配はないよ」


「お義姉さんは、今も会社に勤めているの?」


「勤めているどころか、取締役よ」


修一の妹が言うと、修一は鍋の音に負けないよう声を上げた。


「女の仕事なんて、家の金に比べれば大したことはない。俺が家を持っていたから、拓也にまとまった金を出せたんだ」


美紀は大根を厚めの半月切りにし、鍋へ入れた。包丁を握る手に力が入り、まな板へ当たる音が少し大きくなる。煮汁へ生姜を加えると、甘辛い醤油の匂いが台所へ広がった。


親戚夫婦が帰ったあと、沙織はカステラの残りを自分たちの部屋へ持っていった。拓也も仕事から帰り、食卓へ座る。美紀が鶏肉と大根の煮物、豆腐の味噌汁、ほうれん草のおひたしを並べると、修一はすぐに箸を取った。


「父さん、叔母さんたちに家の話をしたの?」


拓也が尋ねた。修一は大根を一つ口へ入れ、熱そうに息を吐いた。


「ああ。俺が家を売って、お前の新居を用意したと話しておいた」


「美紀さんのお金のことは?」


美紀が静かに聞くと、修一は箸を止めた。


「親戚に細かい内訳まで話す必要はないだろう」


「自分が全部出したように話していたわ」


「俺の家の売却代金がなければ、頭金は足りなかったんだ。間違ったことは言っていない」


「私も今日、一千万円を振り込んだのよ」


「だから何だ。夫婦の金は同じだろう」


「では、あなたの家の売却代金も、夫婦の金なの?」


修一は返事をせず、味噌汁をすすった。少し間を置いてから、味が薄いといつものように言う。美紀は醤油差しを修一の前へ置いた。


「母さん、親戚に誰がいくら出したかなんて、別にどうでもいいじゃん」


拓也が煮物から鶏肉だけを選びながら言った。


「家が買えたんだから、それでいいだろ」


「そうですよ。家族の間で、自分がいくら出したなんて言うのは、少し恩着せがましく聞こえます」


沙織はほうれん草のおひたしへ箸をつけず、鰹節だけを取り除いた。美紀は二人を見たが、拓也は御飯を食べ、沙織は新居用のカーテンをスマートフォンで探している。


「お義母さん、このカーテン、どう思います? 全部の部屋をそろえると二十五万円なんですけど」


「今使っているカーテンを持っていけばいいでしょう」


「丈が合わないし、新居なのに古いカーテンなんて嫌です」


「また分割払いにするつもり?」


「五回払いなら、月五万円ですよ」


「住宅ローンも、家具も、家電もあるのよ」


「でも、毎月十五万円を振り込んでくださるんですよね?」


沙織は笑顔で確かめた。美紀が返事をする前に、修一が「出すに決まっている」と答えた。拓也も安心したようにうなずき、カーテンの画像をのぞき込んだ。


食事が終わると、三人は皿を残して居間を離れた。美紀は煮汁の固まった皿を湯へつけ、流し台に残っていた朝の食器も一緒に洗う。排水口にはカステラを包んでいた紙が落ち、甘い卵の匂いと鶏肉の脂の匂いが混じっていた。


洗い物を終えたあと、美紀は自分の部屋へ行き、鞄から通帳を取り出した。机の上には、ほつれた鞄を直すための黒い糸、使いかけのハンドクリーム、銀行でもらった振込控えが置かれている。通帳を開くと、一千万円が引き落とされたあとの残高が、小さな数字で印刷されていた。


三十五年働いて貯めた金の大半は、拓也名義の家へ移った。拓也から「ありがとう」と言われたのは、振込が終わったと伝えた電話の中だけだった。沙織からは、振込日を確認されただけで、礼を言われた覚えはなかった。


階下では、修一が誰かへ電話をかけていた。


「俺が家を売って、息子に新築を買わせてやったんだ。親として、これくらいはしてやらないとな」


修一の得意そうな声が、古い家の階段を通って聞こえてくる。美紀の一千万円は、その話の中には存在しなかった。


美紀は通帳を閉じ、黒い革の鞄を膝へ載せた。取っ手のほつれた部分へ針を通し、太い糸を何度も往復させる。新しい鞄を買うことはできたが、まだ使える物を捨てるのはもったいないと思い、何年も修理しながら使ってきた。


一千万円を出したのは、褒められるためではない。拓也夫婦が新しい家で生活を立て直し、自分たちの収入だけで暮らせるようになるまで支えるためだった。それでも、自分が積み重ねてきた年月まで、修一の手柄として片づけられたことだけは、黒い糸を引くたびに指へ残った。


縫い終えた鞄を机へ置き、美紀は翌朝の目覚まし時計を午前四時半に合わせた。階下からは、修一がまだ自分の手柄を話す声と、テレビの笑い声が聞こえている。美紀は銀行の振込控えを封筒へ入れ、誰にも触られないよう、机の一番下の引き出しへしまった。



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