第6話 深夜の電話
第6話 深夜の電話
家の売却を知った翌朝も、美紀は午前四時半に起きた。眠ったのは二時間ほどだったが、炊飯器の蓋を開け、夫と長男の弁当を作らなければならない。花柄の寝間着の上に紺色のエプロンをつけると、前日の夕食で残ったアジの開きを魚焼きグリルへ入れた。
冷蔵庫には、沙織が一口だけ食べて残した冷ややっこと、小松菜の煮びたしが入っていた。美紀は豆腐を味噌汁へ入れ、煮びたしは自分の朝食にする。冷たくなった小松菜は味が濃くなり、口へ入れると油揚げの甘い煮汁が舌に残った。
「今日の弁当は魚か?」
ジャージ姿の修一が、あくびをしながら台所へ入ってきた。髪は片側だけつぶれ、頬には枕の跡が残っている。修一は椅子へ座ると、新聞より先にスマートフォンをテーブルへ伏せて置いた。
「拓也のお弁当はアジよ。あなたは仕事が休みだから、お昼は昨日の野菜炒めを食べて」
「また残り物か」
「冷蔵庫に入っているから、電子レンジで温めてね」
「お前が昼に帰ってくればいいだろう」
「会社があるのよ。昼休みに家まで戻れる距離ではないでしょう」
修一は返事をせず、スマートフォンを手に取った。画面に何か表示されたらしく、口元だけを緩めて素早く文字を打つ。美紀が味噌汁を置くと、修一は画面を隠すように端末を膝へ下ろした。
「誰から?」
「スーパーの連絡だ」
「こんな朝早くに?」
「今は連絡も全部スマートフォンなんだよ。お前は何でも聞きたがるな」
修一は味噌汁をすすり、すぐに薄いと言った。美紀は食卓に減塩醤油を置き、焼けたアジを皿へ移した。魚の皮から立つ煙に混じり、修一の服から知らない甘い香りがわずかに漂った。
美紀は修一のカーディガンを洗濯しようと、椅子の背から持ち上げた。胸元に顔を近づけると、自分が使っている石鹸とも、沙織の香水とも違う香りがする。花と柑橘を混ぜたような匂いで、襟には薄い茶色の汚れがついていた。
「このカーディガン、どこかで食事をしたの?」
「昨日、仕事の帰りに少し飲んだ」
「スーパーの人と?」
「誰とでもいいだろう。いちいち報告しなければならないのか」
修一はカーディガンを美紀の手から取り、椅子へ戻した。洗う必要はないと言い、味噌汁の椀を押し出す。美紀は襟元の汚れについてもう一度尋ねようとしたが、二階から拓也の足音が聞こえたため、弁当箱の蓋を閉じた。
その夜、美紀が帰宅すると、玄関には修一の運動靴がなかった。居間では拓也夫婦が宅配のピザを食べ、チーズと香辛料の匂いを部屋いっぱいに漂わせている。テーブルには空になった炭酸飲料の容器と、油のついた紙ナプキンが散らばっていた。
「今日はピザにしたの?」
美紀は灰色のスーツの上着を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。朝に作った自分の弁当を食べる時間がなく、鞄の中には冷たくなった御飯と卵焼きが残っている。
「お義母さん、昨日の残り物しかないって言っていたでしょう? 拓也くんがかわいそうだから頼んだんです」
沙織はピザから伸びたチーズを指へ巻きつけ、口へ入れた。白いセーターの胸元には、トマトソースが小さく飛んでいる。
「私の分は?」
「三人分しか頼んでいません。お義父さんも外で食べるって連絡が来たので」
「そう」
「お義母さんは会社で食べてくると思いました」
「今日は何も食べていないの」
「冷蔵庫に煮びたしが残っていますよ」
沙織は段ボール箱の中から最後の一切れを取り、拓也と半分に分けた。美紀は流し台へ行き、冷蔵庫から小松菜の煮びたしを出す。器の底には冷たい煮汁がたまり、油揚げは水分を吸って柔らかくなっていた。
「父さん、最近よく出かけるんだよな」
拓也がピザの耳をかじりながら言った。美紀は冷たい煮びたしを小皿へ移し、電子レンジへ入れる。
「スーパーの人と飲むと言っていたわ」
「父さんの勤務って朝だけだろ。そんなに付き合いがあるのかな」
「お義父さんだって、息抜きくらい必要ですよ。家が売れるって決まって、うれしいんじゃないですか?」
沙織は紙ナプキンで指を拭き、箱を美紀へ押し出した。片づけておいてほしいという意味らしい。美紀は箱をたたみ、油で透けた紙を可燃ごみの袋へ入れた。
午後九時を過ぎた頃、修一が帰ってきた。濃紺のジャンパーの下には、外出前には着ていなかった白いシャツを着ている。顔は酒で赤くなり、頬や襟元から、朝に嗅いだものと同じ甘い香りがした。
「おかえりなさい。どこへ行っていたの?」
「ちょっと飲んできた」
「夕方から?」
「昔の知り合いに会ったんだよ」
「誰?」
「お前の知らない人だ」
修一は靴を脱ぎ散らかし、そのまま居間へ入った。冷蔵庫を開けると、缶ビールを一本取り出す。すでに酒の匂いをさせているのに、まだ飲むつもりらしい。
「家の売却代金は、いつ入るの?」
美紀が尋ねると、修一は缶のプルタブへ掛けた指を止めた。
「引き渡しが終わってからだ」
「拓也たちの頭金へ出す金額を、きちんと決めておきたいの。全部使ってしまうわけにはいかないでしょう」
「俺の金をどう使おうが、俺の勝手だ」
「この家を売ったら、あなたにも住居費がかかるのよ。新居の名義は拓也なのだから、自分の生活費は残しておかないと」
「新居では家賃なんか取られない。息子の家に住むんだぞ」
「光熱費も食費も必要でしょう」
「そういう細かい金は、お前が払えばいい」
修一は缶ビールを開け、一口で半分近く飲んだ。美紀が言葉を続ける前に、修一は風呂へ向かった。脱衣所の籠へ放り込まれた白いシャツからは、女性用の香水と焼き鳥の煙が混じった匂いがした。
美紀はシャツの胸ポケットを確かめた。洗濯物に紙が入ったままだと困るため、いつも確認している。中から出てきたのは、二人分の飲食代が記された居酒屋のレシートだった。
刺身の盛り合わせ、焼き鳥、梅酒、カシスオレンジが二杯ずつ注文されている。スーパーの男性同僚と飲んだにしては、甘い酒ばかりが並んでいた。会計は一万二千円を超え、修一の勤務一週間分に近い金額だった。
美紀はレシートを元へ戻した。洗面台には、沙織が使った化粧落としの容器と、拓也の整髪料が置きっぱなしになっている。修一のシャツを洗濯籠へ入れると、香水の匂いが狭い脱衣所に残った。
その夜、美紀は午前一時過ぎに目を覚ました。雨はやんでいたが、古い雨樋から水滴が落ち、庭のバケツを一定の間隔でたたいている。隣の布団に修一の姿はなく、襖が少しだけ開いていた。
廊下へ出ると、庭に面した縁側のほうから小さな声が聞こえた。美紀は喉が渇いて台所へ水を飲みに行くつもりだったが、修一の声が聞こえたため足を止める。廊下の板は冬の冷気を吸い、薄い靴下越しに足の裏が冷たくなった。
「大丈夫だって。あいつには適当に説明してある」
修一は庭へ背を向け、縁側の端に座っていた。肩には毛布を掛け、右手でスマートフォンを耳に当てている。昼間のぶっきらぼうな話し方とは違い、声は低く柔らかかった。
「家が売れたら、また旅行へ行こう。今度は二泊でもいいぞ」
美紀は廊下の柱へ手を置いた。木の表面には、昼間に拭いたときの冷たい湿気が残っている。修一は相手の返事を聞き、小さく笑った。
「箱根がいいのか? 前に泊まりたいって言っていた宿があっただろう」
電話の向こうから、女性の笑い声がわずかに漏れた。修一が音量を上げているのか、静かな夜の廊下では言葉の一部まで聞き取れた。
『本当に大丈夫なの? 奥さんに見つかったら困るわ』
「美紀は仕事と家事で頭がいっぱいだ。俺のことなんか見ていないよ」
『この前のネックレスも高かったでしょう。旅行まで出してもらうのは悪いわ』
「家が売れれば金は入る。欲しい物があるなら、今度一緒に見に行こう」
『でも、そのお金は息子さんの新居に使うんじゃなかった?』
「全部渡すわけじゃない。あいつらには必要な分だけ出せばいい。残りは俺の金なんだから、好きに使うさ」
美紀は柱を握ったまま、指を動かせなくなった。修一が自分に相談せず家を売ったのは、拓也夫婦を助けるためだけではなかった。家族が暮らした家を金に換え、その一部を女性との旅行や贈り物に使うつもりだった。
「今度は露天風呂のある部屋にしよう。お前、前に泊まりたがっていただろう?」
修一は相手を喜ばせるように、旅行の予定を一つずつ話した。女性は甘い声で礼を言い、次は指輪を見たいと笑っている。美紀が食費を一円単位で記録し、拓也夫婦の新居へ毎月十五万円を援助しようとしている間、修一は売却代金を自分の楽しみに使おうとしていた。
美紀は音を立てないよう、台所へ入った。冷蔵庫の扉を開けると、白い光が寝間着の花柄を照らす。中には拓也の弁当用の豚肉、沙織が飲み残したミルクティー、修一が味が薄いと言った味噌汁が鍋ごと入っていた。
コップへ水を注いだが、手が揺れ、縁から少しこぼれた。冷たい水が指を伝い、床へ小さな染みを作る。美紀は布巾を取り、膝をついて水滴を拭いた。
縁側から電話を終えた修一が戻ってきた。美紀はすぐに立ち上がらず、布巾を洗うふりをした。修一は美紀の背中を見ると、一瞬だけ足を止めた。
「何をしている」
「水をこぼしたの」
「こんな時間に?」
「喉が渇いたから」
「今の電話、聞いていたのか?」
修一の声から、先ほどまでの甘さが消えていた。美紀は濡れた布巾を絞り、流し台の縁へ掛けた。
「電話をしていたの?」
「聞いていないならいい」
修一はそれ以上何も言わず、寝室へ戻った。足音が遠ざかったあとも、廊下には修一の毛布についた香水の匂いが残っていた。
美紀は冷蔵庫を閉め、暗い台所に立った。今すぐ寝室へ行き、誰と電話していたのか、いつから続いているのかを問いただすことはできた。通帳と印鑑を持って家を出て、離婚の手続きを始めることも考えた。
しかし、一か月後には古い家の引き渡しがある。拓也夫婦の新居も、修一の売却代金と美紀の一千万円を頭金にする予定で話が進んでいた。ここで夫婦が争えば資金計画が崩れ、住宅会社や銀行との契約にも影響するかもしれない。
拓也の収入が減ったとき、美紀は何度も息子の生活費を補った。沙織が新居の写真を見せながら笑う姿も、家具店で拓也が楽しそうにソファへ座る姿も見ている。少なくとも、息子が新しい生活を始めるまでは、すべてを壊すような話をするべきではないと考えた。
寝室へ戻ると、修一は美紀へ背中を向けて布団に入っていた。枕元のスマートフォンは画面を下にして置かれ、充電器の細い明かりだけが暗い畳を照らしている。美紀は自分の布団へ入り、掛け布団を胸まで引き上げた。
「明日は豚の生姜焼きだったな」
修一が背中を向けたまま言った。
「ええ。拓也のお弁当に入れるわ」
「俺の昼の分も残しておけよ」
「分かったわ」
「味は濃いめにしてくれ」
美紀は返事をせず、枕元の目覚まし時計を手に取った。表示されていた午前六時半の設定を消し、いつもの午前四時半へ合わせる。小さな操作音が鳴ったが、修一はすでにいびきをかき始めていた。
古い家の引き渡しまで、あと一か月だった。拓也夫婦が新居へ移り、生活を始めるところまでは支えよう。それが終わったら、自分がどこで、誰と暮らすのかを考えればよい。
美紀は目覚まし時計を枕元へ戻した。廊下の向こうでは、雨樋から落ちる水滴が、まだ庭のバケツをたたいている。午前四時半まで残された時間を確かめると、美紀は目を閉じた。




