第5話 不動産会社からの封筒
第5話 不動産会社からの封筒
夕方から降り始めた雨は、美紀が最寄り駅へ着いた頃には細かな霧雨に変わっていた。美紀はベージュのコートの襟を立て、右手に仕事用の鞄、左手にスーパーの買い物袋を提げて歩いた。袋の中には特売のアジの開きが四枚、小松菜、豆腐、翌朝の弁当に使う豚肉が入っている。濡れた舗道から土の匂いが上がり、パンプスの中には冷たい水が少し染み込んでいた。
門扉を開けると、郵便受けから白い封筒の端が飛び出していた。電気料金のお知らせ、沙織が注文した化粧品のカタログ、拓也宛てのカード会社の封筒に交じり、見覚えのない不動産会社の名前がある。宛名は修一だったが、裏側の封が指一本分ほど開いており、中の書類に印刷された自宅の住所が見えた。
美紀は封筒を閉じようとした。しかし、「不動産売買契約書」という文字が目に入り、買い物袋を持つ指から力が抜けた。書類の下には、この家の引き渡し予定日が記されている。その日付は、一か月後だった。
「この家を、引き渡す……?」
雨粒のついた封筒を両手で持ち、美紀はもう一度住所を確かめた。番地も、修一の名前も間違っていない。玄関の中からはテレビの音が聞こえ、焼いた煎餅の醤油の匂いが漂ってきた。
美紀が玄関を開けると、三人分の靴が脱ぎ散らかされていた。拓也の革靴には泥がつき、沙織の白いスニーカーは、美紀の室内履きを踏むように置かれている。美紀はいつものように靴をそろえかけたが、封筒を持ったまま居間へ向かった。
「ただいま」
「おかえりなさい。お義母さん、夕食は何ですか?」
ソファでスマートフォンを見ていた沙織が、顔だけを美紀へ向けた。桃色の部屋着を着て、髪には大きな白いクリップをつけている。テーブルには飲みかけのミルクティーと、砕けた煎餅が散らばっていた。
「アジの開きと、小松菜の煮びたしにするつもりよ」
「また魚ですか? 私、今日はお肉がいいな」
「豚肉は明日のお弁当用に買ったの」
「少しくらい使っても大丈夫でしょう。拓也くんも魚だけでは足りないと思いますよ」
「分かったわ。野菜炒めも作る」
美紀が答えると、沙織はすぐにスマートフォンへ目を戻した。美紀の濡れたコートにも、手に持った不動産会社の封筒にも気づいていないようだった。
修一は居間の奥で新聞を読み、卓上の湯飲みへ手を伸ばしていた。灰色のジャージの膝は白く伸び、片方の靴下はかかとまでずれている。美紀は修一の向かいへ座り、封筒をテーブルに置いた。
「修一さん、これは何?」
修一は新聞の端から封筒を見た。眉がわずかに動いたが、すぐに湯飲みを口へ運ぶ。中の茶は冷めていたらしく、一口飲んだだけで顔をしかめた。
「俺宛ての郵便だろう。勝手に見るな」
「封が開いていて、この家の住所が見えたの。不動産売買契約書と書いてあるわ」
「見たなら、分かっただろう」
「分からないから聞いているの。この家を売ったの?」
修一は新聞を二つに折り、テーブルへ置いた。テレビでは旅番組が流れ、温泉宿の豪華な夕食が映っている。焼いた伊勢海老を見ながら、修一は何でもないことのように答えた。
「売ったよ」
「売ったって、もう契約したの?」
「そうだ」
「いつ?」
「先週だ」
「どうして私に相談しなかったの?」
「俺の名義の家を、俺が売ったんだ。相談する必要があるのか?」
美紀は封筒から書類を取り出し、売買代金と引き渡し日を確かめた。紙は雨の湿気を吸い、端が少し波打っている。この家が修一の両親から相続したものだということは知っていたが、結婚して三十年以上暮らした家でもあった。
「一か月後には、この家を出なければならないのよ」
「そう書いてあるなら、そうなんだろう」
「私たちはどこへ行くの?」
「拓也たちの新居があるじゃないか」
「まだ新居の契約も終わっていないでしょう。それに、私たちが同居する話を、沙織さんときちんと決めたの?」
修一は面倒そうに鼻から息を吐き、新聞を広げ直した。美紀が書類を押さえる手は冷たくなり、紙の角が指のひび割れへ当たった。
「古い家を売って、その金を拓也たちの頭金にする。どうせ俺たちも新居へ移るんだから、同じことだろう」
「同じではないわ。この家は修一さんの名義だけれど、拓也の新居は拓也名義でしょう?」
「親子の間で、そんな細かいことを言うな」
「もし一緒に住めなくなったら、私たちには帰る家がないのよ」
「一緒に住めなくなる理由なんてない。お前が沙織さんとうまくやればいいだけだ」
修一はそう言うと、テレビの音量を上げた。温泉宿の女将が料理の説明をする声が居間に響き、美紀の言葉を押し流した。台所の流し台には朝食の茶碗が残り、乾いた味噌汁のわかめが椀の底に張りついていた。
二階から足音がし、白いワイシャツ姿の拓也が降りてきた。ネクタイを緩め、袖を肘までまくっている。拓也は冷蔵庫を開け、牛乳パックを取り出した。
「拓也、この家を売ったことを知っていたの?」
美紀が尋ねると、拓也は牛乳を注ぐ手を止めた。振り返る前に修一の顔を見たため、美紀には答えが分かった。
「父さんから、売るかもしれないとは聞いていたよ」
「契約したことも?」
「そこまでは知らなかった。でも、新居の頭金が足りないから、ちょうどいいだろ」
「私には、誰も何も言わなかったのね」
「父さん名義の家なんだから、母さんが反対しても仕方ないじゃん」
「反対するかどうかではなく、相談してほしかったのよ。私はここに住んでいるのだから」
「どうせ一緒に新居へ引っ越すんだろ? だったら何も変わらないよ」
拓也は牛乳を飲み干し、使ったコップを流し台へ置いた。そこには朝の食器が積み上げられていたが、洗おうとはしない。美紀は息子の背中と、調理台に残ったカップ麺の容器を見比べた。
「新居の一階に和室があるでしょう? そこをお義母さんたちが使えばいいじゃないですか」
沙織がスマートフォンを手にしたまま会話へ加わった。美紀は沙織の顔を見た。少なくとも、同居そのものには反対していないように聞こえた。
「沙織さん、本当に私たちと暮らすつもりなの?」
「今の家でも一緒に暮らしているでしょう?」
「そうだけれど、新居は拓也たちの家になるわ。生活の仕方も決めておかなければいけないでしょう」
「難しく考えすぎですよ。今まで通り、お義母さんが家事をしてくれれば問題ないと思います」
沙織は軽く笑い、桃色の部屋着の袖を引き上げた。その言い方に、美紀は口を閉じた。四人で助け合って暮らすのではなく、美紀が今まで通り家事を引き受けることが、同居の条件になっているようだった。
「それより、お義父さん、売却代金はいくらだったんですか?」
沙織の声が明るくなった。修一が金額を口にすると、拓也はすぐに頭の中で計算を始めた。
「それなら、頭金を増やせるな。毎月の返済も少し下がるよ」
「白いソファも買えますよね。大型テレビも欲しいし、冷蔵庫も新しくしたいです」
「待って。売却代金を全部使うつもりなの?」
美紀が言うと、修一は新聞から顔を上げた。
「拓也たちのために売るんだから、必要なだけ使えばいい」
「修一さんの老後資金でもあるでしょう。新居に移ったあと、病気や介護でお金が必要になるかもしれないのよ」
「そのときは、お前の給料があるだろう」
「私の給料は、いつまでも同じように入るわけではないわ」
「取締役なんだから、定年もないようなものだろう。お前は金のことを心配しすぎなんだよ」
修一は再び新聞へ目を落とした。拓也と沙織は、売却代金で何を買うか相談を始める。美紀は四人の中にいながら、自分だけが話の外へ置かれているように、封筒の端を指でなぞった。
やがて、紙袋の中からアジの生臭い匂いが漂い始めた。美紀は時計を見て、台所へ立つ。コートを脱いで紺色のエプロンをつけ、アジを魚焼きグリルへ並べた。
「お義母さん、私、お肉がいいと言いましたよね?」
「野菜炒めも作るわ」
「豚肉、多めにしてください」
「俺も肉を多めにしてくれ。魚は朝でいい」
修一まで居間から声をかけた。美紀は豚肉を一口大に切り、小松菜ともやしを洗った。包丁がまな板へ当たる音に混じり、三人が新居の家具について話す声が聞こえてくる。
「ソファは白がいいよね」
「でも、父さんがビールをこぼしそうだな」
「防水のカバーをつければ大丈夫ですよ」
「俺を子ども扱いするな」
三人は笑っていた。美紀はアジを裏返し、焦げた皮から立つ煙を換気扇へ送った。この家を売る話を自分だけ知らされていなかったことは、もう会話にも上らない。
食卓には、アジの開き、豚肉と小松菜の炒め物、冷ややっこ、大根の味噌汁を並べた。修一は野菜炒めから豚肉だけを選び、拓也も競うように肉へ箸を伸ばした。沙織はアジへ手をつけず、冷ややっこの上の長ねぎを皿の端へ寄せた。
「母さん、新居の頭金だけど、前に約束した一千万円は予定通り出してくれるんだよな?」
拓也が尋ねた。美紀は味噌汁の椀を持ったまま、息子の顔を見た。
「そのつもりで用意しているわ」
「父さんの家の売却代金も入れば、かなり楽になるな」
「楽になるからといって、家具や家電で使ってしまってはいけないわよ」
「またその話ですか?」
沙織が箸を置いた。小皿に残された豆腐から水が出て、醤油が薄く広がっている。
「お義母さんは、私たちが新居を持つのが嫌なんですか?」
「そんなことは言っていないわ。無理のない暮らしをしてほしいだけよ」
「だったら、もう少し喜んでくれてもいいと思います。お義父さんは、自分の家まで売ってくださったんですよ」
「その家に、私も三十年以上住んでいたのよ」
「でも、お義父さんの家でしょう?」
沙織は悪気のない顔で言い、冷たい麦茶を飲んだ。修一も拓也も何も言わない。美紀は自分の椀へ目を落とし、冷め始めた味噌汁の中で大根が沈むのを見た。
食後、三人は居間へ戻り、住宅会社のパンフレットを広げた。皿を片づけたのは美紀だけだった。魚の脂がついたグリルを洗い、野菜炒めの油が残ったフライパンへ洗剤を垂らすと、柑橘の匂いが広がった。
洗い物を終えた美紀は、廊下の柱に触れた。そこには、拓也が幼稚園へ入った年から、小学校を卒業するまでにつけた身長の線が残っている。鉛筆で書いた日付は薄くなり、何度拭いても消えない手垢が木の表面へ染み込んでいた。
「引っ越す前に、写真を撮っておこうかしら」
美紀が口にすると、居間から修一が答えた。
「そんな汚い柱を撮って、どうするんだ」
「拓也が小さかった頃の記録よ」
「新しい家には必要ない物だ。古い物は全部捨てろ」
「全部は捨てられないわ。アルバムや拓也の通知表もあるのよ」
「通知表なんか、本人だっていらないだろう」
拓也はパンフレットから顔を上げなかった。
「俺はいらないよ。母さんが持っていたいなら、和室に置けばいいじゃん」
美紀は柱から手を離した。新居の和室は、夫婦二人が眠り、美紀の本や衣類、長年使ってきた物まで収めるには狭い。それでも四人で暮らせるのなら、必要な物を選び、残りを手放すしかない。
夜十時を過ぎると、美紀は翌朝の米を研いだ。冷たい水の中で米をかき回しながら、引き渡しまでの日数を数える。一か月あれば荷物を整理できると考えたが、会社の仕事と四人分の家事をしながらでは、休日だけで片づけることになる。
修一に相談されなかったことも、拓也が知りながら黙っていたことも、水を捨てるだけでは流れていかなかった。それでも新居には一階の和室があり、沙織も今まで通りなら問題ないと言った。四人で暮らし続けられるなら、この古い家を手放すことにも意味はあると、美紀は自分へ言い聞かせた。
炊飯器の予約を終え、居間の照明を消そうとしたとき、新聞の下から不動産会社の封筒が少しだけ見えていた。美紀はそれを抜き取り、引き渡し日の書かれた書類をもう一度確認する。日付は変わらず、一か月後のままだった。
美紀は封筒を修一の机へ置き、散らばっていた煎餅のかけらを拾った。窓の外では雨がまだ降り続き、古い雨戸に細かな音を立てている。この音を聞きながら眠る夜も、あと一か月しか残されていなかった。




