第4話 世間知らずの母
第4話 世間知らずの母
日曜日の朝、美紀は午前五時半に起きた。平日より一時間遅く眠っただけでも、窓から差し込む朝の光がいつもより明るく見えた。灰色のスウェットの上に紺色のエプロンをつけ、冷蔵庫に残っていた大根と油揚げで味噌汁を作る。フライパンでは塩サバを焼き、昨夜のうちに水へ浸しておいた乾燥ひじきを、人参と一緒に甘辛く煮た。
修一は午前七時を過ぎてから起きてきた。毛玉のついた茶色いセーターを着て、台所へ入るなり石油ストーブの前へ椅子を運ぶ。美紀が御飯をよそっている間、修一はテーブルの上に置かれた新聞のテレビ欄を折り曲げていた。
「味噌汁、熱いやつをくれ」
「今、温め直しているところよ」
「休日くらい、もっとゆっくり寝ればいいのに。朝から鍋の音で目が覚めたぞ」
「私が寝ていたら、朝御飯が出ないでしょう?」
「だったら、パンでいい。いちいち大げさなんだよ」
修一はそう言いながら、焼きたての塩サバへ箸を伸ばした。皮の焦げたところを口へ入れ、醤油をかけようとする。美紀が減塩醤油の瓶を差し出すと、修一は普通の醤油がいいと言って戸棚を開けた。
「今日は拓也たちと家具を見に行くんでしょう?」
美紀は味噌汁の火を止め、修一の前へ置いた。修一は大根を箸でつまみ、熱そうに息を吹きかける。
「俺は聞いていないぞ」
「昨日、沙織さんが話していたでしょう。新居に置くソファとテレビを見たいって」
「女の買い物は長いからな。俺は留守番している」
「修一さんも一緒に住む家なのよ。使いやすいかどうか、見ておいたほうがいいでしょう」
「若い二人に任せればいい。金の話になったら、お前が払えば済むことだ」
美紀は鍋の蓋を閉め、テーブルの端へ視線を落とした。そこには、昨夜沙織が食べたアイスクリームの木の匙が置かれたままだった。拾ってごみ箱へ入れると、甘い苺の匂いがわずかに指へ残った。
午前九時頃、拓也夫婦が二階から降りてきた。拓也は黒いパーカーにジーンズを合わせ、沙織は淡いベージュのワンピースの上に白いカーディガンを羽織っている。沙織の耳元では、小さな真珠のイヤリングが揺れていた。
「お義母さん、まだ着替えていないんですか?」
沙織はエプロン姿の美紀を見て、壁の時計を確かめた。美紀は朝食の皿を洗い終えたところで、布巾をすすいで流し台へ掛けている。
「十時に出ると思っていたけれど」
「家具屋さん、開店は十時ですよ。早く行かないと混みます」
「朝御飯は食べないの?」
「向こうのカフェで食べます。おしゃれなパンケーキがあるらしいんです」
「拓也は?」
「俺も沙織と食べるよ。母さんたちだけ先に食べたんだろ」
美紀は二人分残していた塩サバとひじきの煮物を見た。あとで昼食に回せばよいと考え、保存容器へ移す。急いで二階へ上がり、クリーム色のセーターと紺色のスカートに着替えた。
家具店へ向かう車の中では、沙織がスマートフォンでソファの画像を見せていた。拓也は運転しながら画面をのぞき込み、美紀は後部座席から何度も前を向くよう注意した。車内には沙織の甘い香水と、助手席の収納に入れた芳香剤の柑橘の匂いが混じっていた。
「このソファ、すごくよくない? 三人掛けで、足も伸ばせるの」
「大きそうだな。リビングに入るのか?」
「間取りを見ると大丈夫そう。色は白がいいな」
「白は汚れが目立つんじゃない?」
美紀が後ろから言うと、沙織は画面を閉じた。
「今のソファだって茶色でしょう? 新しい家まで地味にしたくないんです」
「汚れたときに手入れできる素材ならいいと思うわ。でも、毎日使うものだから」
「お義母さんは、何でも汚れることから考えるんですね」
沙織は窓の外を向き、イヤリングに触れた。拓也は「母さんは昔からそうだから」と笑い、信号が青になると車を発進させた。
家具店の駐車場には、開店したばかりだというのに車が何台も並んでいた。入口には色とりどりのクッションが積まれ、木材と新しい布の匂いが漂っている。小さな子どもが展示用の椅子へ飛び乗り、母親に叱られていた。
沙織は店へ入ると、まっすぐ白い革張りのソファへ向かった。背もたれには柔らかなクッションが並び、横の値札には四十二万八千円と書かれている。沙織はワンピースの裾を整えて腰を下ろし、両手で革の表面をなでた。
「これ、座りやすい。拓也くんも座ってみて」
「おお、いいな。今のソファとは全然違う」
「でしょう? これなら、お友達を呼んでも恥ずかしくないよ」
美紀も端へ腰を下ろした。確かに柔らかいが、体が深く沈み、立ち上がるときに膝へ力が必要だった。数年後には修一も自分も使いにくくなるかもしれないと考え、値札をもう一度確かめた。
「もう少し座面が高くて、硬いもののほうが長く使えるんじゃないかしら」
「硬いソファなんて、くつろげないじゃないですか」
「年を取ると、柔らかすぎる椅子から立つのは大変なのよ」
「まだ先のことでしょう。それに、お義母さんたちの部屋には畳があるんだから、リビングのソファを使わなくてもいいですよね」
沙織は笑いながら、拓也の腕を引いた。美紀はソファから立ち上がり、スカートのしわを伸ばした。四人で暮らす新居のはずなのに、沙織の言葉では、リビングはすでに若い夫婦だけの場所になっているようだった。
次に沙織が足を止めたのは、壁際に展示された大型テレビの前だった。画面には南国の海が映り、青い水の中を色鮮やかな魚が泳いでいる。値札には、七十五型、二十九万八千円と書かれていた。
「これくらい大きいと、映画も迫力があるよね」
「リビングが広いから、六十五より七十五のほうがいいかもな」
「今使っているテレビを持っていけばいいでしょう。まだ五年しか使っていないわよ」
美紀が言うと、拓也は困ったように頭をかいた。
「母さん、今のは小さいよ。新居のリビングに置いたら、貧相に見えるって」
「テレビは映れば十分でしょう。住宅ローンの返済も始まるのよ」
「長く使うものだから、最初にいい物を買ったほうが得なんだよ」
「ソファとテレビだけで七十万円を超えるわ。冷蔵庫や洗濯機も買い替えるなら、もっとかかるでしょう」
「家電は分割で払えばいいよ。毎月なら大した金額にならないから」
拓也は値札の横に書かれた月々の支払額を指さした。美紀は、その月々の金額がいくつも重なれば、住宅ローンと同じように家計を圧迫すると説明しようとした。しかし沙織はすでに、店員を呼んで機能の説明を聞き始めていた。
家具を一通り見たあと、三人は店内のカフェへ入った。窓際の席には観葉植物が並び、焼きたてのパンとコーヒーの匂いが漂っている。沙織は苺と生クリームが盛られたパンケーキを注文し、拓也はベーコンと目玉焼きがついた朝食セットを選んだ。
「お義母さんは何にします?」
「私はコーヒーだけでいいわ」
「せっかく来たのに、食べないんですか?」
「朝御飯を食べてきたから」
「じゃあ、私のパンケーキを少し食べます? クリームが多いところ以外なら」
沙織は運ばれてきたパンケーキを写真に撮り、苺を一つ口へ入れた。美紀はコーヒーへミルクを少し注ぎ、鞄から家計簿と小さな電卓を取り出した。紺色の表紙には、長年使っているうちについた油染みが残っていた。
「少し確認しておきたいの。住宅ローンが月に十二万円。固定資産税の積み立てと火災保険を合わせると、住居費だけで十五万円近くになるでしょう」
「でも、お義母さんが毎月十五万円を出してくれるんですよね?」
沙織が生クリームをすくいながら尋ねた。美紀は家計簿の数字を指でなぞった。
「それは拓也の収入が元へ戻るまで、生活を支えるためよ。家具や家電の分割払いまで増やしたら、私が援助をやめたあとに困るでしょう」
「母さん、すぐに援助をやめるつもりなのか?」
「そういう意味ではないわ。でも、私もいつまでも今と同じように働けるとは限らないでしょう」
「取締役なんだから、普通の社員より長く残れるんじゃないの?」
「会社の役職は、ずっと約束されているものではないのよ」
拓也はベーコンをナイフで切り、半熟の黄身へつけて食べた。沙織はスマートフォンで先ほどのソファの写真を見返し、美紀の家計簿にはほとんど目を向けない。
「新居を買ったら、住宅ローンの返済を一番に考えたほうがいいわ。家具は今あるものを使って、余裕ができてから少しずつそろえてもいいでしょう」
美紀がそう言うと、沙織はパンケーキの上の生クリームをフォークで崩し、小さく鼻で笑った。
「お義母さんって、本当に世間知らずですよね」
美紀は電卓へ置いていた指を止めた。沙織は悪いことを言ったとは思っていないらしく、店内を見回してから言葉を続ける。
「今どき、家には見栄えも必要なんですよ。友達を呼んだときに、古い家具ばかり並んでいたら恥ずかしいじゃないですか。家を買ったのに、節約しているように見られるなんて嫌です」
「家は人に見せるためではなく、暮らすためのものでしょう」
「そういう考え方が古いんです。写真を撮って投稿することもあるし、みんな家の中まできれいにしていますよ」
「写真のために、返せない借金を増やしてはいけないわ」
「返せないなんて決まっていません。拓也くんだって頑張って働いているし、お義母さんも手伝ってくれるんでしょう?」
沙織はパンケーキの最後の一切れを食べ、口元についたクリームを紙ナプキンで拭いた。美紀は拓也を見たが、息子は残ったパンの耳で目玉焼きの黄身をぬぐっている。
「拓也はどう思うの?」
「沙織の言うことも分かるよ。新築なのに、今の茶色いソファを置いたら合わないだろ」
「でも、四十二万円もするのよ」
「長く使うものだから、高くても気に入った物のほうがいいって。母さんは心配しすぎなんだよ」
拓也は笑い、沙織も一緒に笑った。二人にとって、美紀の話は家計を守るための助言ではなく、流行を知らない母親の小言にすぎなかった。
帰宅すると、修一は居間で競馬中継を見ていた。テーブルの上には、朝に美紀が保存容器へ入れた塩サバとひじきが出されたままになっている。修一はひじきには手をつけず、塩サバの皮だけを皿へ残していた。
「どうだった。家具は決まったのか?」
「まだ買っていないわ。沙織さんは四十二万円のソファと、三十万円近いテレビが欲しいそうよ」
「新しい家なんだから、それくらい必要だろう」
「住宅ローンの返済もあるのよ。家電の分割払いまで重ねたら大変でしょう」
「若い人には若い人の考えがあるんだ。お前の古い考えを押しつけるな」
修一はテレビから目を離さず、競走馬の番号を赤いペンで丸く囲んだ。新聞の隅にはコーヒーの輪染みがつき、床には食べこぼした煎餅のかけらが落ちている。
「私が世間知らずだから、話しても分からないそうよ」
美紀が言うと、修一は鼻を鳴らした。
「実際、お前は会社と家を往復しているだけだろう。沙織さんのほうが、今の若い人のことはよく知っている」
「会社と家を往復しているのは、誰かが家のことをしなければならないからでしょう」
「また恩着せがましい話をするのか。家族なんだから、できる者がすればいい」
「では、洗濯物を畳むのを手伝ってくれる?」
「今、競馬を見ているのが分からないのか」
修一は声を少し大きくし、テレビの音量まで上げた。美紀は居間の隅に置かれた洗濯籠を持ち上げた。乾燥機を使ったタオルは端が硬くなり、沙織の白いセーターには長い髪が何本も絡みついている。
美紀は自分の部屋へ行き、机の上へ家計簿を開いた。机には会社の資料、使いかけのハンドクリーム、老眼鏡、ボタンの取れた修一のシャツが置かれている。ハンドクリームの蓋は閉め忘れており、白いクリームが少し固まっていた。
家計簿には、固定資産税の積み立て、電気代、ガス代、水道代、四人分の食費が細かく記録されている。修一が払っていると思われている固定資産税も、実際には美紀の口座から引き落とされていた。拓也夫婦から毎月受け取るはずの生活費も、この三か月は一度も入っていない。
新居へ移ったあと、美紀は毎月十五万円を拓也の口座へ送る予定だった。住宅ローンの返済そのものを肩代わりするためではなく、収入が戻るまで食費や光熱費に困らないよう支えるために決めた金額である。そこへ高級家具の分割払いまで加われば、援助をやめられる日はさらに遠くなる。
美紀は電卓を押し、毎月の支出をもう一度合計した。ボタンを押す指の腹には、朝の洗い物でできた小さなひびが入っている。合計額を見てから家計簿を閉じると、階下から沙織の声が聞こえてきた。
「お義父さん、あのソファ、本当にすてきだったんですよ。白い革で、すごく柔らかくて」
「美紀が細かいことを言ったんだろう。あいつは昔から、金を使うのが下手だからな」
「そうなんです。安い物を何度も買い替えるほうが、もったいないですよね」
「欲しいなら買えばいい。美紀には俺から言っておく」
三人の笑い声が、階段を通って二階まで届いた。美紀は机の横に積まれた洗濯物から、修一のシャツを取り出す。取れたボタンを縫いつけるため、裁縫箱を開けた。
針へ糸を通そうとしたが、一度目は穴の横へ外れた。二度目も糸の先が曲がり、美紀は指先を唇で湿らせてから、もう一度ゆっくり通した。沙織の「世間知らず」という言葉は、家具店を出てから何時間たっても、耳の奥に残っていた。
会社では原材料費の変化を読み、何十人もの社員が働く事業の予算を管理している。家では固定資産税から一円単位の食費まで計算し、息子夫婦の新しい暮らしが破綻しないよう考えている。それでも家族の中では、美紀だけが何も知らない人間として扱われていた。
ボタンを縫い終えた美紀は、糸を小さな鋏で切った。階下では家具の相談が続き、白いソファの大きさや、大型テレビを置く位置を楽しそうに話している。美紀が毎月十五万円を振り込むことは、相談ではなく、最初から決まったこととして語られていた。
美紀は修一のシャツを丁寧に畳み、家計簿の上へ置いた。閉じた表紙の下には、家族が見ようとしない数字が並んでいる。机の照明を消しても、「世間知らず」という言葉だけは、暗くなった部屋から消えなかった。




