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第3話 取締役と家政婦

第3話 取締役と家政婦


午前四時半、美紀は目覚まし時計を止め、まだ暗い台所へ向かった。紺色のエプロンを花柄の寝間着の上につけ、冷蔵庫からアジの開きを三枚取り出す。自分の分は、昨夜の食卓に残っていた冷たい肉じゃがで済ませるつもりだった。魚焼きグリルへアジを入れると、間もなく香ばしい匂いが狭い台所に広がった。


味噌汁には豆腐と乾燥わかめを入れ、弁当には鶏肉の照り焼きとホウレンソウの胡麻和えを詰めた。拓也から肉を増やしてほしいと言われたため、美紀は自分の弁当に入れるはずだった鶏肉も、拓也の弁当箱へ移した。洗濯機が回る低い音を聞きながら、昨日の会議で使った資料を調理台の隅に置き、赤鉛筆で数字を確かめる。


「母さん、朝から仕事の紙を台所へ持ち込むなよ。醤油でもこぼしたらどうするんだ」


白いワイシャツ姿の拓也が、冷蔵庫から麦茶を取り出しながら言った。美紀は資料を閉じ、輪ゴムで留めて鞄へ入れた。


「今日は社長への報告があるの。少しだけ確認したかったのよ」


「家に帰ってまで仕事って、大変だな。俺なら役職なんて断るけど」


「簡単に断れるものではないわ。働いている人たちの生活もかかっているから」


「そういうのは社長が考えることでしょう。母さん一人が頑張っても仕方ないよ」


拓也は麦茶を飲み、空になった容器を流し台へ置いた。美紀が鞄から弁当を取り出して渡すと、蓋を開けて中を確認する。鶏肉が多いことに気づいた拓也は満足そうにうなずいたが、礼は言わなかった。


「今日は肉が多いな。これくらいなら足りそう」


「昨日、増やしてほしいと言っていたでしょう」


「毎日これでいいよ。鮭は骨が面倒だから、肉のほうが食べやすいし」


「毎日同じでは飽きるでしょう」


「母さんが考えて変えればいいじゃん」


拓也は弁当箱を鞄へ入れ、玄関へ向かった。美紀は後ろから「行ってらっしゃい」と声をかけたが、返ってきたのは扉の閉まる音だけだった。


修一はアジの開きを箸でほぐし、醤油をたっぷりかけて食べた。骨のついた皮だけを皿に残し、味噌汁の椀を押し出す。美紀はその椀を受け取りながら、今日も医師の言いつけを守る気はないのだと分かった。


「今夜は遅くなるかもしれないわ。赤字だった事業部の再建計画を、取引先へ説明するの」


「また会議か。夕飯はどうするんだ」


「カレーの材料を切っておいたから、鍋に入れて煮ればできるわ」


「誰が煮るんだよ」


「沙織さんに頼んでみるわ。難しいものではないでしょう」


「失敗したら材料が無駄になる。お前が帰ってから作ればいい」


修一は新聞を広げ、競馬の記事を読み始めた。美紀は口を開きかけたが、時計の針が七時を指しているのを見て、食器を流し台へ運んだ。ジャガイモと人参、玉ねぎは昨夜のうちに切り、保存容器へ入れてある。肉も冷蔵庫へ移しておいたので、炒めて水を加えればよいだけだった。


「沙織さん、今夜のカレーをお願いしてもいい?」


白いセーターと灰色のスウェットパンツを着た沙織が、あくびをしながら台所へ入ってきた。髪からは甘い桃の香りがしたが、寝起きの顔には化粧が残っている。


「えっ、私が作るんですか?」


「材料は切ってあるの。鍋で炒めて、水を入れて煮てくれればいいから」


「私、カレーって箱に書いてある通りにしか作れませんよ」


「それでいいのよ。ルーも調理台に出してあるわ」


「でも、拓也くんはお義母さんのカレーが好きだし、味が違ったらかわいそうじゃないですか?」


美紀は返事を探しながら、沙織の前へ朝食を並べた。アジの開き、味噌汁、炊きたての御飯を見た沙織は、魚の煙を嫌がるように鼻の前で手を振った。


「朝から魚ですか。服に匂いがつきそう」


「換気扇は回しているわよ」


「今日は友達と会うんです。髪に匂いがついたら困るから、パンにします」


「食パンは、昨日でなくなったわ」


「じゃあ、駅で食べます。カレーは、帰りが遅くなるかもしれないので無理です」


沙織は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、朝食には手をつけず二階へ戻った。美紀は冷め始めたアジを保存容器へ入れ、味噌汁には蓋をした。夕食のカレーも自分が帰ってから作るしかなかった。


午前八時四十分、美紀は会社の玄関を通った。淡い灰色のスーツに白いブラウスを合わせ、低いヒールの黒い靴を履いている。通勤電車で押されたせいでブラウスの襟が少し曲がっていたため、エレベーターの鏡を見ながら直した。紙袋に入れた弁当から、鶏肉の甘い醤油の匂いがわずかに漏れている。


「おはようございます、常務」


受付の女性が立ち上がって頭を下げた。美紀も足を止め、花瓶に飾られた黄色いフリージアへ目を向ける。玄関には暖房の乾いた空気と、花の青い香りが混じっていた。


「おはようございます。きれいな花ね。受付に春が来たみたい」


「総務の方が買ってきてくださいました。常務、今日は朝から再建会議ですよね」


「ええ。長い一日になりそうね」


「コーヒーを濃いめに用意しておきます」


受付の女性が笑うと、美紀は「助かるわ」と答えた。家庭では頼まれたことをしてもらうたびに礼を言うのが美紀だけだったが、会社では短い言葉が自然に行き交っている。その違いを考えている時間はなく、エレベーターが開くと、美紀は会議室のある五階へ向かった。


赤字が続いている生活用品事業部の会議には、社長の片桐をはじめ、営業部長、製造部長、経理部長が集まっていた。長机には売上表と在庫表が積まれ、経理部長の古い帳面には、何度も消した鉛筆の跡が黒く残っている。窓の外は曇っており、隣のビルの屋上にたまった雨水が鈍く光っていた。


「価格を上げれば、さらに顧客が離れます」


営業部長が資料を指でたたいた。製造部長は腕を組み、作業着の胸ポケットからボールペンを出したり戻したりしている。


「だからといって、この原価では作るだけ赤字です。営業が安請け合いをするから、現場へ負担が回るんですよ」


「製造が納期を守れないから、値引きせざるを得なかったんでしょう」


二人の声が大きくなり、会議室の空気が固くなった。美紀は配布された資料の端をそろえ、昨夜までにまとめた表を全員の前へ置いた。


「どちらか一方の責任を決めても、赤字は減りません。まず、利益の出ている商品と出ていない商品を分けましょう」


美紀は十二種類あった商品を、原価率と返品率に基づいて三つの समूहに整理していた。赤字商品の中には、長年の取引を理由に、採算を考えず作り続けているものもある。一方で、販売方法を変えるだけで利益を伸ばせる商品もあった。


「この三商品は生産を縮小します。ただし、取引先へ一方的に終了を伝えてはいけません。材料を共通化した後継商品を提案し、半年かけて切り替えます」


「半年も待っていたら、その間の赤字はどうするんです?」


経理部長が尋ねると、美紀は別の表を開いた。


「倉庫に眠っている旧型商品の在庫を、業務用としてまとめて販売します。すでに二社から問い合わせをもらっています」


「いつの間に交渉したんですか?」


「昨日の昼休みです。先方も年度末の予算を使える商品を探していました」


製造部長が表をのぞき込み、営業部長も椅子を寄せた。先ほどまで互いを責めていた二人が、今度は同じ数字を見ながら話し始める。美紀は冷めたコーヒーを一口飲み、舌に残った苦みを水で流した。


午後には、主要取引先との交渉が行われた。先方は納入価格の据え置きを求めていたが、その条件を受ければ会社側の赤字はさらに広がる。美紀は値上げだけを求めるのではなく、包装の簡略化と発注単位の変更を提案した。


「価格を五パーセント上げる代わりに、包装費と配送回数を削減します。御社の保管作業も減りますから、実際の負担増は二パーセント以下になります」


「しかし、社内を説得するには根拠が必要です」


「こちらに試算があります。御社の昨年度の発注実績で計算しました」


美紀が資料を差し出すと、取引先の担当者は眼鏡を上げ、数字を一行ずつ確認した。会議室にはコピー用紙の匂いと、出された煎茶の香りが漂っている。茶托の横には小さな羊羹が置かれていたが、誰も手をつける余裕はなかった。


一時間後、取引先は美紀の条件を受け入れた。いきなり値上げするのではなく、三か月間の試行期間を設け、その結果を見て正式契約へ移ることになった。担当者が帰ったあと、営業部長は椅子の背へ体を預け、大きく息を吐いた。


「常務がいてくださって、本当に助かりました。私は値上げの数字ばかり考えていました」


「先方にも事情があるもの。負担を押しつけるだけでは、長い取引は続かないわ」


「それにしても、あの発注実績まで調べていたんですね」


「台所で卵焼きを作りながら、表を見直したかいがあったわ」


美紀が言うと、会議室に小さな笑いが起きた。営業部長は冗談だと思ったらしいが、美紀にとっては今朝の出来事そのものだった。


夕方、片桐社長が美紀を社長室へ呼んだ。窓際の棚には創業当時の工場を写した写真が飾られ、その横には何年も育てている小さなサボテンが置かれている。片桐はネクタイを緩め、急須から美紀の湯飲みへ茶を注いだ。


「今日はありがとう。取引先との契約が切れずに済んだよ」


「まだ試行期間です。三か月後に結果を出さなければなりません」


「君はいつも、うまくいっても気を緩めないな」


片桐は机の引き出しから煎餅の袋を出した。来客用の余りらしく、袋の端が少し折れている。美紀は昼の弁当を食べる時間がなかったため、一枚だけ受け取った。


「美紀さん、君がいなければ、会社はここまで成長しなかった。創業者でもない君に、こんな言い方をするのは妙かもしれないが、私は本当にそう思っている」


美紀は煎餅を割る手を止めた。薄い醤油の匂いが指先に残り、窓の外では雲の切れ間から夕日が差していた。家では、三十年以上食事を作っても、給料の大半を生活費に入れても、一度も言われたことのない言葉だった。


「私は自分の仕事をしているだけです」


「その仕事を当たり前だと思ってはいけない。働いてくれる人がいるから、会社が続くんだ」


片桐の言葉を聞き、美紀は湯飲みを両手で包んだ。温かさが冷えた指へ伝わり、朝から何も握っていなかったように手の力が抜けた。しかし時計は午後七時を示しており、美紀は慌てて立ち上がった。


「申し訳ありません。家族の夕食を作らなければならないので、失礼します」


「今から作るのか? 今日はもう外で食べてもらえばいいだろう」


「材料を用意してあるんです。カレーですから、すぐにできます」


「そうか。君は家に帰っても休めないんだな」


美紀は笑って頭を下げた。社長室を出ると、誰もいなくなった廊下に自分の靴音が響いた。鞄の中には、食べられなかった弁当と、再建計画の資料が一緒に入っている。


帰宅したのは午後八時を過ぎていた。玄関を開けると、朝に干した洗濯物が廊下の籠へ無造作に押し込まれている。乾いたシャツと湿ったタオルが重なり、柔軟剤の匂いがこもっていた。


居間では修一と拓也がテレビを見ており、沙織はソファに座って爪に薄い桃色の液を塗っていた。甘い香油の匂いが部屋いっぱいに広がっている。テーブルには、昼に食べたらしいカップ麺の容器と、空になった菓子袋が置かれていた。


「ただいま。遅くなってごめんなさい」


「お義母さん、何時だと思っているんですか?」


沙織は爪を乾かすため、指を広げたまま顔を上げた。修一はテレビから目を離さず、拓也は腹を押さえるようにしてソファへもたれている。


「会議が長引いたの。取引先との話し合いもあって」


「私たち、ずっと夕食を待っていたんですよ」


「カレーの材料は切ってあったでしょう?」


「私、作れないって朝に言いましたよね」


「箱に作り方が書いてあるから、難しくないわよ」


「外のお仕事なんて、家事を放り出すほど大切なんですか?」


沙織は口元をゆがめ、乾きかけた爪へ息を吹きかけた。


「お義母さんの仕事って、少し立派なパートみたいなものでしょう?」


美紀は鞄の持ち手を握ったまま、修一と拓也を見た。二人とも、美紀が会社の取締役であることを知っている。役員報酬が家の食費や光熱費だけでなく、拓也夫婦の生活まで支えていることも知っているはずだった。


「美紀、話はあとでいいから、早く夕飯にしてくれ」


修一がテレビを見たまま言った。拓也も住宅情報誌をめくり、沙織の言葉を訂正しようとしない。


「母さん、カレーならすぐできるだろ。俺、明日も早いんだよ」


美紀はコートを脱ぎ、台所へ向かった。調理台には、朝に用意した野菜と肉がそのまま残されている。保存容器の蓋を開けると、切った玉ねぎの匂いが鼻にしみた。


鍋へ油を入れ、肉と野菜を炒める。ジュッという音が上がると、三人はようやく食卓へ移動してきた。沙織は爪を傷つけたくないと言って、皿もスプーンも運ばなかった。


「お義母さん、私のカレーは少なめにしてください。夜に炭水化物を取りすぎたくないので」


「分かったわ」


「でも、お肉は多めでお願いします」


「母さん、俺は大盛りね」


「俺はジャガイモを少なくしてくれ。腹にもたれる」


美紀は鍋を混ぜながら、一人ずつ違う注文を聞いた。茶色いルーが野菜に絡み、湯気と一緒に香辛料の匂いが立ち上る。会社では何人もの部長が美紀の判断を待ち、社長が働きを認めていた。それでも家では、四枚の皿へカレーを盛り分ける家政婦のように扱われている。


食卓へカレーを並べると、拓也はすぐにスプーンを取った。修一は福神漬けがないと不満を言い、沙織は肉の数を確かめている。美紀は自分の皿を運ぶ前に、空になった水差しへ麦茶を足した。


「お義母さん、お水もください」


「冷蔵庫に入っているわよ」


「爪がまだ乾いていないんです」


美紀は冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を沙織のコップへ注いだ。沙織は礼を言わず、カレーの人参を皿の端へ寄せた。


「少し辛くないですか?」


「いつもと同じルーよ」


「作る人が急いでいると、味も雑になるんですね」


美紀は椅子へ座らず、流し台に置いた弁当箱を開けた。朝に詰めた御飯は固くなり、ホウレンソウから出た水分が卵焼きへ染みている。捨てるのはもったいないため、明日の朝に温めて食べようと蓋を閉じた。


食事を終えた三人は、汚れた皿をテーブルへ残して部屋を出た。修一は風呂へ行き、拓也夫婦は新居の家具を調べると言って二階へ上がる。美紀のカレーは、食卓の端で湯気を失っていた。


美紀は椅子へ座り、冷めたカレーを一口食べた。ジャガイモはまだ少し硬く、急いで作ったため玉ねぎも十分に溶けていない。それでも空腹の胃へ温かいものが入ると、指先まで少しずつ熱が戻った。


会社で受け取った感謝の言葉と、沙織が口にした「少し立派なパート」という言葉が、同じ一日の中で並んでいた。美紀はスプーンの柄についたカレーを布巾で拭き、残りを急いで食べる。家族が新居へ移れば、暮らしにも気持ちにも余裕ができるはずだと、また同じことを考えた。


二階から沙織の声が聞こえてきた。


「拓也くん、このソファ、四十万円だって。でも新居には絶対に合うよ」


「母さんに相談すればいいだろ」


美紀は空になった皿を持ち、流し台へ立った。水を出すと、皿についたカレーが薄い茶色になって排水口へ流れていく。食器を洗い終えたあとには、乾いていない洗濯物を畳み、明日の弁当の下ごしらえをしなければならない。


会社では取締役と呼ばれ、家庭では食事を運ぶ人として名前を呼ばれる。その違いを口にすれば、修一はきっと「家族なんだから当然だ」と言うだろう。美紀は濡れた手をエプロンで拭き、冷蔵庫から明日の弁当に使う豚肉を取り出した。


時計の針は、午後十時を回っていた。明日の朝も、目覚まし時計は四時半に鳴る。美紀は肉へ生姜と醤油をもみ込み、誰もいなくなった台所で、一人分だけ残った冷たい麦茶を飲んだ。



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