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第2話 ありがとうのない食卓

第2話 ありがとうのない食卓


午後六時を過ぎても、取締役会議室にはコーヒーと紙の匂いが残っていた。美紀は紺色のスーツの袖口を整え、机の上に広げられた資料を一枚ずつそろえた。午前中から続いた会議では、原材料費の上昇に対応するための予算案と、新しい取引先との契約について話し合っていた。数字の間違いを見つけたのも、意見が割れた二つの部署をまとめたのも美紀だった。


「美紀さん、今日も助かりました。あのままでは営業部と製造部が、来週まで言い争っていたと思います」


部長の水野が、冷めたコーヒーの紙コップを持ち上げながら言った。四十代半ばの水野は、灰色のスーツの肩に消しゴムのかすをつけている。美紀はそれを指で示し、自分の鞄へ資料をしまった。


「水野さん、肩についているわよ。お子さんの宿題でも見てきたの?」


「昨日、娘と一緒に工作をしたんです。会社まで連れてきてしまいましたね」


水野は笑いながら肩を払った。美紀も口元を緩めたが、壁の時計を見て、すぐに立ち上がった。沙織から頼まれた唐揚げとサラダを買うには、駅前の店へ急がなければならない。


「もうお帰りですか。夕食なら、皆で何か食べていきませんか?」


「家族が待っているから、今日は帰るわ」


「毎日、ご家族の夕食まで作っているんですか?」


「作るというより、今日は買って帰るだけよ」


美紀はそう答え、椅子を机の下へ戻した。午前四時半から動き続けていることや、昼食を取る時間がなく、自分の弁当を半分しか食べていないことまでは話さなかった。鞄の底には、小さな鮭と卵焼きが残った弁当箱が入っている。夕方になっても食べ物の匂いが漏れないよう、包んでいた布を二重に結び直した。


会社を出ると、外はすっかり暗くなっていた。昼間に降った雨で歩道が濡れ、街灯の黄色い光が細長く映っている。美紀はベージュのコートの襟を立て、黒いパンプスで水たまりを避けながら駅へ向かった。肩に掛けた革の鞄が、歩くたびに脇腹へ当たった。


駅前の総菜店には、閉店間際の客が列を作っていた。揚げ油の匂いと甘辛いタレの匂いが店先まで漂い、美紀の空腹を刺激する。唐揚げを六百グラムと、沙織のために蒸し鶏のサラダを頼むと、店員が透明な容器へ山盛りに詰めてくれた。


「唐揚げは、今から三割引きになりますよ。もう少し入れましょうか?」


「では、二百グラム追加してください。若い人がよく食べるので」


「ご家族が多いんですね」


「四人です。息子が肉をたくさん食べるんですよ」


美紀が財布から千円札を出すと、中には病院の診察券と、スーパーのポイントカードが何枚も重なっていた。小銭入れには一円玉がたまり、ファスナーが閉まりにくくなっている。店員から釣り銭を受け取りながら、美紀は自分の分も買えばよかったと思ったが、八百グラムもあれば四人で十分だと考え直した。


電車の中では、向かいの席に座った若い女性が紙袋から小さなパンを出していた。チーズと黒胡椒の匂いが漂い、美紀は鞄の中の弁当箱を思い出す。鮭は冷たくなっているだろうが、帰宅してから茶漬けにすれば食べられる。そう考えているうちに、美紀は数分だけ眠り、危うく降りる駅を通り過ぎるところだった。


午後七時二十分、美紀は自宅の玄関を開けた。昼間の雨で濡れた靴が、たたきに何足も脱ぎ散らかされている。玄関には暖房の空気ではなく、朝の味噌汁と湿った布の混じった匂いが流れてきた。


「ただいま」


美紀が声をかけても、返事はなかった。居間からテレビの笑い声と、スマートフォンの動画らしい軽い音楽が重なって聞こえる。美紀はパンプスを脱ぎ、修一の運動靴と拓也の革靴、沙織のブーツをいつものように端へ寄せた。


台所へ入ると、美紀の足が止まった。流し台には朝食の茶碗と味噌汁の椀、コーヒーカップ、フライパンまで積み上げられている。大根の切れ端が椀の底に張りつき、豆腐のかけらが白くふやけていた。朝、沙織が食べ残したトーストの皿には、溶けたバターが黄色く固まっている。


美紀は唐揚げの袋を調理台へ置き、蛇口をひねった。冷たい水が食器に当たり、油と味噌の匂いが一度に立ち上る。手袋をする時間も惜しく、スポンジを握ると、ふやけた米粒が指先にまとわりついた。


「お義母さん、帰っていたんですか?」


居間から沙織が顔を出した。薄い桃色の部屋着を着て、髪は朝と同じように頭の上でまとめている。手にはスマートフォンを持ち、もう片方の手で菓子袋からチョコレートをつまんでいた。


「今、帰ったところよ。食器、朝からこのままだったの?」


「私、今日はちょっと頭が重くて。雨のせいじゃないですかね」


「洗濯物は取り込んでくれた?」


「えっ、まだ外にあるんですか? 雨、もう降っていませんよね」


美紀は蛇口を止め、ベランダへ向かった。ガラス戸を開けると、冷たい風が足元へ入り込む。朝に干した洗濯物は夜露を吸い、修一のシャツも拓也の靴下も、触るとひんやりしていた。


濡れたタオルを腕へ重ねていると、遠くの家からカレーの匂いが漂ってきた。子どもの笑い声と食器の触れ合う音も聞こえる。美紀は洗濯ばさみを外しながら、昔、拓也がカレーの人参だけを皿の端へ並べていたことを思い出した。星形に切れば食べるかもしれないと考え、一つずつ包丁で形を作った夜もあった。


「お義母さん、夕食、まだですか?」


沙織がガラス戸の内側から尋ねた。美紀は洗濯物を抱えたまま振り返ったが、沙織は手を貸そうとせず、暖かい居間へ戻っていった。


「唐揚げは買ってきたわ。今、出すから」


「遅かったですね。拓也くん、お腹がすいたって言っていましたよ」


「会議が長引いたの。駅前のお店にも人が並んでいて」


「連絡してくれたら、何か頼んだのに」


「電話を見る時間がなかったのよ」


美紀は冷えた洗濯物を籠へ入れ、浴室の乾燥機にかけることにした。電気代がもったいないと思ったが、このままでは明日の朝までに乾かない。沙織が午後のうちに取り込んでくれていれば必要のなかった出費だが、美紀は口に出さず、浴室のボタンを押した。


居間では、修一が茶色いセーターを着てテレビの前に座っていた。拓也は白いワイシャツの袖をまくり、テーブルに置かれた住宅情報誌を眺めている。テーブルの端には、開封された煎餅の袋と、飲みかけの炭酸飲料が置かれていた。


「母さん、遅いよ。腹が減った」


「ごめんなさい。すぐに並べるわ」


「唐揚げ、ちゃんと買ってきた?」


「八百グラムあるから、足りるでしょう」


「八百か。父さんも食べるから、俺の分はあまり残らないな」


「サラダと、昨日の肉じゃがもあるわよ」


「肉じゃがの肉、ほとんど残ってなかったじゃん」


拓也は住宅情報誌を閉じようともしなかった。美紀はコートを脱ぎ、ブラウスの袖をまくって台所へ戻った。唐揚げを電子レンジで温め、千切りキャベツを添え、冷蔵庫から肉じゃがを出して鍋へ移す。煮汁が少なくなっていたため、水と調味料を足して温め直した。


「お義母さん、サラダにドレッシングをかけないでくださいね。自分で量を決めたいので」


「分かったわ。別に出すわね」


「胡麻じゃなくて、玉ねぎのほうでお願いします」


「玉ねぎのは、昨日でなくなったと思うけれど」


「ええ? 買ってきてくれなかったんですか?」


美紀は冷蔵庫の扉に並んだ瓶を確認した。胡麻、青じそ、使いかけのマヨネーズはあるが、玉ねぎのドレッシングは空になっている。買い物用のメモには書かれていなかった。


「今日は頼まれていなかったから。青じそでは駄目?」


「もういいです。塩で食べます」


沙織は小さく息を吐き、再びスマートフォンを見た。美紀は何も言わず、小皿へ塩を入れて沙織の前に置いた。


四人が食卓についたのは、午後八時を過ぎてからだった。唐揚げの皮は電子レンジの蒸気で柔らかくなっていたが、甘い醤油と生姜の匂いは残っている。修一は一番大きな唐揚げを取り、肉じゃがの汁をすすった。


「これも薄いな」


「温め直すときに煮詰まりそうだったから、水を少し足したの」


「水だけ足したんじゃないのか? だから味がぼやけているんだ」


「醤油とみりんも入れたわよ」


「俺は濃い味が好きだと、何年一緒に暮らしているんだ」


修一は醤油差しを取り、肉じゃがの上へ直接回しかけた。美紀は、医師から塩分を控えるように言われたことをもう一度伝えようとしたが、修一は唐揚げを口へ運び、テレビへ顔を向けている。言葉を飲み込み、美紀は自分の茶碗から冷めた御飯を一口食べた。


「母さん、今度から肉を増やしてよ」


拓也が、肉じゃがの中を箸で探りながら言った。ジャガイモと玉ねぎを端へ寄せ、残っていた小さな牛肉を口に入れる。


「肉ばかりではなく、野菜も食べないと」


「仕事をしていると腹が減るんだよ。母さんは会社で座っている時間が長いから分からないだろうけど」


「私も今日は一日、会議だったのよ」


「会議なら座って話すだけじゃん。俺は外回りもあるんだ」


「拓也くん、今日も大変だったもんね」


沙織が拓也の皿へ唐揚げを二つ移した。美紀の皿には、小さな唐揚げが一つと、崩れたジャガイモが残っている。朝からまともに食べていなかった胃へ、脂の匂いだけが重く入ってきた。


「そういえば、新居の返済表、銀行で見てもらった?」


美紀が尋ねると、沙織は箸を止めた。食卓の空気が変わり、拓也も住宅情報誌へ目を向ける。


「見てもらいました。でも、頭金をもう少し増やしたほうがいいって」


「いくらくらい?」


「できれば、あと五百万円です」


「五百万円……」


「お義母さん、出せませんか? 私たち、家電も買わなくちゃいけないんです」


「頭金のために出す分は、もう話したでしょう。それ以上となると、私の老後のお金から出すことになるわ」


「一緒に住むんだから、老後のお金なんて別にいらないでしょう?」


沙織は何でもないことのように言い、サラダのキュウリを噛んだ。修一も、醤油をかけた肉じゃがを食べながらうなずく。


「そうだ。拓也たちが家を買えば、お前だってそこに住めるんだ。家賃の代わりだと思えばいい」


「でも、住宅ローンは何十年も続くのよ。拓也たち自身で払える範囲にしないと」


「だから、母さんが役員をしている間は助けてもらうって話だろ。俺の給料が戻れば、そのあとは何とかするよ」


拓也の言葉を聞き、美紀は膝の上で左手を握った。今日の会議では、役員の任期や次年度の事業計画についても話し合った。会社で求められる責任は年々重くなっているのに、家族は美紀がいつまでも働き、必要なだけ金を出せると考えている。


「分かったわ。もう一度、私の預金を確認してみる」


美紀がそう答えると、沙織はすぐに笑顔を見せた。


「ありがとうございます。やっぱり新築なら、妥協したくないですもんね」


「母さんなら、何とかしてくれると思っていたよ」


拓也は唐揚げをもう一つ取り、口いっぱいに頬張った。修一はテレビの音を大きくし、美紀のほうを見なかった。誰の口からも、今日一日の仕事をねぎらう言葉は出なかった。


食事が終わると、三人はそれぞれ居間を離れた。修一は新聞を持って寝室へ行き、拓也夫婦は新居の内装を相談しながら二階へ上がる。テーブルには、食べ残したジャガイモ、丸めたティッシュ、空になった炭酸飲料の容器が残された。


美紀は食器を流し台へ運び、朝から二度目の洗い物を始めた。唐揚げの油が皿に白く固まり、スポンジを何度滑らせても、ぬるつきが指先に残る。浴室からは乾燥機の低い音が響き、洗濯物から飛んだ湿気で廊下の空気まで生ぬるくなっていた。


洗い物を終えると、美紀は米びつから翌朝の米を四合量った。一合、二合と数えながら、会社で水野から言われた「今日も助かりました」という言葉を思い出す。家では一度も聞かなかった言葉が、米粒の落ちる乾いた音と一緒に頭の中へ残った。


二階から、沙織の明るい声が聞こえてきた。


「拓也くん、新しい家では大きいソファが欲しい。今のは色が古いもん」


「母さんに買ってもらえばいいよ。頭金を出せるくらいなんだから」


「じゃあ、明日、見に行こうよ」


二人の笑い声が天井越しに響いた。美紀は米を研ぐ手を止め、濁った水の中に指を沈めたまま、しばらく動かなかった。爪の間へ入った米粒が皮膚を押し、蛇口から落ちる水滴が金属の流し台を規則正しくたたいている。


ここで話を蒸し返せば、拓也は機嫌を損ねるだろう。収入が減り、ようやく生活を立て直そうとしている息子の邪魔をしたくはなかった。新居へ移り、家族の暮らしに余裕ができれば、拓也も沙織も今より周囲を見るようになるかもしれない。


「あと少しだから」


美紀は自分へ言い聞かせ、水を捨てた。新しい水を入れると、白く濁っていた米が少しだけ透けて見えた。炊飯器の予約ボタンを押し、明日の朝も四時半に鳴る目覚まし時計を確かめる。


居間の照明を消す前、美紀はテーブルの下に落ちていた唐揚げの衣を拾った。油の染みた指を台布巾で拭き、曲がっていた椅子を一脚ずつ戻す。明日の朝になれば、また四人がこの食卓に座る。


美紀は最後に自分の冷えた麦茶を一口飲んだ。誰からも「ありがとう」と言われなかった一日は、そうしていつもと同じように終わった。



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