第1話 朝四時半の台所
第1話 朝四時半の台所
午前四時半、枕元に置いた目覚まし時計が鳴るより少し早く、美紀は目を開けた。カーテンの向こうはまだ暗く、古い木枠の窓には細かな結露がついている。隣では夫の修一が掛け布団を腹までずらし、大きないびきをかいていた。美紀は音を立てないように布団を抜け出すと、薄い水色のカーディガンを花柄の寝間着の上に羽織り、冷えた廊下へ出た。
台所の照明をつけると、流し台には昨夜の湯飲みが三つ残っていた。沙織が食べたプリンの空き容器も水につけたままになっており、甘いバニラの匂いが、排水口の湿った匂いに交じっている。美紀は袖を肘までまくり、湯飲みと容器を洗ってから、四人分の米を炊飯器に入れた。冷たい水に指を浸すたび、右手の関節が小さく痛んだ。
「今日は鮭だったわね」
誰に聞かせるでもなく口にしてから、美紀は冷蔵庫を開けた。棚には昨夜の残りの肉じゃが、半分だけ使った豆腐、輪ゴムで口を閉じた漬物が並んでいる。奥から塩鮭を四切れ取り出すと、一切れだけ少し小さいものがあったので、それを自分の皿に置いた。魚焼きグリルへ残りの三切れを並べ、弁当用の卵を二つ、縁の欠けた茶碗へ割り入れた。
卵を溶いている間に洗濯機を回し、味噌汁の鍋へ昨日切っておいた大根と油揚げを入れる。だしの匂いが台所に広がる頃には、新聞配達のバイクが家の前を通り過ぎた。美紀は厚焼き卵を巻きながら、壁の時計を見上げた。五時になる前に弁当を仕上げれば、浴室まで掃除できるはずだった。
「母さん、今日の弁当、鮭?」
背後から声がして、美紀は菜箸を止めた。スウェット姿の拓也が、寝癖のついた髪をかきながら冷蔵庫を開けている。牛乳パックを取り出した拓也は、コップを使わず、そのまま口をつけようとした。
「拓也、コップを使って。みんなが飲むんだから」
「ちょっとくらいいいだろ。どうせ俺しか飲まないし」
「沙織さんも昨日、カフェオレにしていたでしょう」
「じゃあ、母さんが新しいのを買ってくればいいじゃん」
拓也は戸棚からコップを出したが、牛乳を飲み終えると流し台へ置き、そのまま二階へ戻っていった。美紀は濡れたコップの底が残した丸い跡を布巾で拭いた。子どもの頃の拓也は、目玉焼きを作っただけでも「お母さん、すごい」と拍手していた。あの小さな手が、いつから弁当箱を無言で鞄へ入れる手になったのか、美紀にははっきり思い出せなかった。
五時半になると、修一が台所へ入ってきた。紺色のジャージの腹をかきながら椅子に座り、テーブルの端に置かれた朝刊を広げる。美紀が味噌汁をよそっている間も、修一は新聞から顔を上げなかった。
「お茶」
「今、味噌汁を出すから待って」
「先にお茶が欲しいんだよ。新聞を読むときは、いつもそうだろう」
美紀は味噌汁の椀を置き、急須へ湯を注いだ。昨夜のうちにポットを満タンにしておいたのは自分だったが、修一は湯の残量を確かめようともしない。湯気の向こうで、修一は折り込み広告を一枚抜き取った。新築住宅の写真が大きく載っており、明るいリビングで若い夫婦が笑っている。
「拓也たちの家も、こんな感じになるのか」
「まだ決まっていないでしょう。返済額も、きちんと計算しないと」
「お前は朝から金の話か。あいつだって、いつまでも親と同居じゃ肩身が狭いんだよ」
「だから私も、できるだけ手伝うつもりよ。でも、無理なローンを組んだら困るのは拓也たちでしょう」
「お前は何でも心配しすぎなんだ。黙って金だけ出してやればいい」
修一は広告を新聞の下へ押し込み、味噌汁をすすった。大根を二切れ食べたところで、椀をテーブルへ置く。美紀は弁当箱に蓋をしながら、修一の口が開く前に何を言われるか分かっていた。
「薄いな。味噌をけちったのか?」
「塩分を控えるように、お医者さんから言われたでしょう」
「朝くらい、ちゃんとした味のものを食わせてくれよ。俺は病人じゃない」
美紀は小皿に出した漬物を、修一の前へ置いた。修一は礼を言わず、たくあんを二切れ口へ入れる。ぱりぱりと噛む音を聞きながら、美紀は自分用に残していた小さな鮭を弁当箱へ入れた。昼に社員食堂で何か頼めばよいと思ったが、今月は拓也夫婦の新居に必要な費用を少しでも残しておきたかった。
六時を過ぎた頃、沙織が白いフリースの上下を着て台所へ入ってきた。長い髪は頭の上で無造作にまとめられ、甘い花の香りがする香水だけは、朝からしっかりつけている。沙織は椅子へ座ると、挨拶より先にスマートフォンをテーブルへ立てかけた。
「お義母さん、今日、パンじゃないんですか?」
「昨日、沙織さんが和食がいいと言ったでしょう」
「そうでしたっけ。今朝はトーストの気分なんですよね」
「食パンなら冷凍庫にあるわよ。すぐ焼く?」
「お願いします。バター、多めで」
美紀は自分の前に置いた冷めかけの御飯を横へ寄せ、冷凍庫から食パンを取り出した。トースターの受け皿にはパンくずがたまり、端が黒く焦げている。昨日掃除をしたばかりなのにと思いながら受け皿を外すと、沙織のスマートフォンから楽しそうな笑い声が流れてきた。
「この家、かわいい。アイランドキッチンだって」
沙織は住宅紹介の動画を拓也に見せた。着替えを終えた拓也は、白いシャツの襟を直しながら画面をのぞき込む。二人の間では、もう新居を買うことが決まっているようだった。
「こういうキッチンなら、私も料理する気になるかも」
「沙織、料理なんかできたっけ?」
「できるよ。今の台所が古くて狭いから、やる気が出ないだけ」
二人が笑う横で、トースターが高い音を立てた。美紀は焼けたパンへバターを厚く塗り、沙織の前へ置く。沙織は画面から目を離さず、片手で皿を引き寄せた。
「コーヒーもお願いします」
美紀は返事をせず、コーヒーメーカーへ水を入れた。昨日買ったばかりの豆は、もう半分近くまで減っている。拓也夫婦が夜中に何杯も飲んだらしく、流し台の隅には茶色い染みのついたマグカップが二つ残されていた。
「母さん、俺の弁当は?」
「玄関の棚に置いてあるわ。今日は鮭と卵焼きよ」
「肉はないの?」
「昨夜、肉じゃがを食べたでしょう」
「弁当には肉が欲しいんだよな。午後、腹が減るから」
「じゃあ、明日は豚肉を焼くわね」
「生姜焼きにして。薄い肉じゃなくて、厚いやつ」
拓也は弁当の中を確かめることもなく、鞄へ押し込んだ。美紀は「行ってらっしゃい」と声をかけたが、玄関から返事は聞こえなかった。少し遅れて修一も立ち上がり、脱いだジャージを椅子の背に掛けたまま洗面所へ向かった。
七時前になると、美紀は食器を洗い、洗濯物をベランダに干した。冬の空気は冷たく、濡れたシャツから上がる洗剤の匂いが鼻に残る。修一の靴下は片方が裏返り、沙織のフリルのついた下着は洗濯ネットに入っていなかった。美紀は一枚ずつ形を整え、風で飛ばされないよう、洗濯ばさみを二つずつ使って留めた。
浴室へ行くと、床には修一が使った髭剃りの包装と、沙織の長い髪が落ちていた。美紀はスーツのスカートを汚さないよう、寝間着のまま膝をついて床を磨く。排水口の蓋を開けると、生ぬるい石鹸と湿った髪の匂いが上がってきた。時計を見ると七時十五分になっており、美紀は急いでブラシを動かした。
掃除を終えた美紀は、寝室で紺色のスーツに着替えた。白いブラウスの袖に小さな水滴がついていたので、ハンカチで押さえる。鏡の前で髪をまとめ、薄く口紅を塗ると、台所へ戻った。
自分の御飯と味噌汁は、すっかり冷めていた。鮭は弁当に入れてしまったため、皿には昨夜の肉じゃがが少し残っているだけだった。美紀は椅子へ座る時間を惜しみ、流し台の前に立ったまま、冷たいジャガイモを口へ運んだ。味のしみた煮汁は固まりかけ、脂が舌に薄く残った。
「お義母さん、今日、帰りは何時ですか?」
まだテーブルでスマートフォンを見ていた沙織が尋ねた。食べ終えたトーストの皿には、耳だけが残されている。
「今日は会議があるから、七時頃になると思う」
「そんなに遅いんですか? 夕飯はどうするんです?」
「肉じゃがが残っているし、冷凍庫に餃子もあるでしょう」
「私、冷凍餃子ってあまり好きじゃないんですよね。帰りに何か買ってきてもらえません?」
「何がいいの?」
「拓也くん、唐揚げが好きだから、駅前のお店のをお願いします。私はサラダがあればいいです」
美紀は口の中のジャガイモを水で流し込み、手帳へ「唐揚げ、サラダ」と書いた。取締役会の資料を確認し、部下との面談を済ませたあと、店が閉まる前に駅前へ寄らなければならない。鞄の中には、拓也夫婦が検討している新居の資金計画を記した封筒も入っていた。
「沙織さん、今日、銀行へ行くなら、この返済表も見てもらって。頭金を増やせば毎月は少し楽になるけれど、固定資産税もあるから」
「分かりました。でも、お義母さんも一緒に払ってくれるんですよね?」
「そのつもりよ。拓也の収入が元に戻るまでは、私が支えるから」
「よかった。それなら、少しくらい広い家でも大丈夫ですね」
沙織は満足そうに笑い、食べ残したパンの耳と皿をテーブルへ置いたまま二階へ上がった。美紀はそれを流し台へ運び、生ごみの袋へ入れた。まだ食べられるパンの耳を捨てるとき、母が作ってくれた砂糖まぶしの揚げパンをふと思い出したが、時計の針はもう七時半を過ぎていた。
美紀はコートを着て、黒いパンプスに足を入れた。玄関の鏡には、きちんと髪をまとめた会社役員の顔が映っている。その足元には、誰もそろえなかった三人分の靴が散らばっていた。美紀はしゃがみ込み、修一の運動靴と拓也の革靴、沙織の毛皮のついたブーツを壁際へ並べ直した。
「新しい家に移れば、きっと少しは変わるわ」
小さく口にすると、二階から沙織の笑い声が聞こえた。拓也の収入が戻り、新居で生活が落ち着けば、家事も分担できるようになるかもしれない。今は自分が踏ん張る時期なのだと考え、美紀は重い鞄を肩へ掛けた。
外へ出ると、朝の冷たい空気が頬に触れた。近所の家から焼いたパンの匂いが漂い、通学途中の小学生が母親に手を振っている。美紀は家の鍵を確かめ、駅へ向かって歩き出した。
背後の家では、洗濯機の終了を知らせる電子音が鳴っていた。二階にはまだ沙織がいたが、降りてくる気配はない。美紀は一度だけ足を止めたものの、会社へ遅れるわけにはいかなかった。
帰宅したら、自分が干せばよい。いつものようにそう考え、美紀は再び歩き出した。




