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第29話 お母さん、助けて

第29話 お母さん、助けて


拓也が美紀の新しい住所を知ったのは、代理人の弁護士を通して面会を申し込んだからだった。美紀は金銭の話をするなら弁護士事務所でと最初は断ったが、拓也が一度だけ直接話したいと繰り返したため、日曜日の午後二時から三十分だけ会うことを認めた。沙織と二人で訪ねること、修一を連れてこないこと、金銭についてその場で合意を求めないことが条件だった。


当日は朝から細い雨が降り、拓也は紺色のスーツに古い灰色のコートを重ねていた。沙織は黒いワンピースを選び、真珠に似た飾りのついたイヤリングをつけたが、玄関を出る前に派手すぎると考えて外した。二人は駅前の菓子店で最も安い焼き菓子の箱を買い、濡れないよう紙袋へビニールをかぶせた。


「本当に、ここでいいのよね?」


「母さんが弁護士に伝えた住所だから、間違いない」


「会社の近くって聞いていたけど、便利な場所ね」


「母さんの給料なら、もっと広い部屋にも住めたはずだ」


「一人なら、これくらいで十分なんじゃない?」


拓也は答えず、マンションの入口で部屋番号を押した。沙織の言葉には、広い新居を追い出された美紀がどこで暮らしたのかを気にする様子より、役員報酬があるなら援助できるはずだという考えが残っていた。拓也はインターホンから聞こえた母親の声へ名前を告げ、解錠された扉を押した。


美紀の部屋は、六階の廊下の一番奥にあった。呼び鈴を押すと、生成り色のブラウスに紺色のカーディガンを着た美紀が扉を開けた。以前のような灰色のエプロンはつけておらず、短く整えた髪からは石けんの匂いがした。玄関には茶色の革靴と白い運動靴が一足ずつ並び、壁には小さな布製の買い物袋が掛けられていた。


「約束どおり、三十分だけです。どうぞ」


「母さん、急に無理を言ってごめん」


「その話は中で聞きます。靴はそろえてください」


「お邪魔します、お義母さん」


美紀は紙袋を受け取ったが、その場で開けず、玄関脇の棚へ置いた。沙織は部屋へ一歩入ると、白い靴下の足を止めた。広くはない一LDKだったが、床には物が落ちておらず、淡い緑色のカーテンから午後の光が入っていた。


窓辺には小さな観葉植物が三鉢置かれ、丸い葉には霧吹きの水滴が残っていた。木製の椅子には読みかけの経営書が伏せてあり、その上に細い銀色のしおりが挟まれている。壁際の本棚には仕事の資料と料理の本が並び、下段には拓也が子供のころに作った紙粘土の犬が置かれていた。


「これ、まだ持っていたんだ」


「引っ越し業者に保管してもらっていた荷物の中から出てきました」


「小学校で作ったものだよね。耳が片方取れてる」


「あなたがランドセルへ無理に入れて持ち帰ったからです。その日の夕食は、サバの味噌煮でした」


「よく覚えてるね」


拓也は紙粘土の犬へ指を伸ばしかけたが、触れずに手を下ろした。美紀は思い出を捨てたわけではなく、それでも新居へ戻らない生活を作っていた。窓の外では雨がベランダの手すりを濡らし、室内には湯を沸かす小さな音が聞こえた。


美紀は二人を丸いテーブルへ案内し、ほうじ茶を三つの湯飲みへ注いだ。皿には午前中に買ったという小さな豆大福が並べられ、きな粉の匂いが湯気と混ざった。以前なら美紀が手作りの煮物や巻きずしを用意していたが、今は来客のために無理をして台所へ立つことはなかった。


「それで、話とは何ですか?」


「家のことなんだ」


「弁護士から、銀行の通知については聞いています」


「このままだと、期限の利益を失って、競売になるかもしれない」


「そうですか」


「そうですかって、お義母さんの一千万円も入っている家なんですよ」


沙織は湯飲みを持ったまま身を乗り出した。黒いワンピースの袖口にほうじ茶が一滴こぼれ、慌てて指でぬぐった。美紀は布巾を差し出したが、住宅ローンについて口を挟もうとはしなかった。


「一千万円については、代理人から返還を求めています」


「でも、家が競売になったら、返せなくなります」


「その可能性も含め、弁護士と相談しています」


「だったら、家を守ったほうがお義母さんのためでもあるでしょう?」


「どのような方法で守るのですか?」


沙織は布巾を畳み、膝の上へ置いた。そこで初めて言葉を選ぶように何度か唇をなめたが、美紀へ何をしたかではなく、どうすれば再び金を出してもらえるかを考えていた。拓也が横から口を開こうとすると、沙織は先に椅子から立ち上がった。


「お義母さん、家に戻ってきてください」


美紀は湯飲みへ手を伸ばさず、沙織を見上げた。沙織は深く頭を下げたが、両手はワンピースの裾を握っていた。雨粒が窓をたたく音の中で、換気扇だけが低く回っていた。


「お義母さんが戻れば、住宅ローンも払えます。毎月十五万円を振り込んでもらえれば、銀行にもきちんと返済できます。それに、お義父さんと玲子さんはもういません。今なら一階の和室も空けられます」


「私が戻る条件は、和室が空いていることだけですか?」


「もちろん、それだけではありません。家族みんなで、もう一度やり直したいんです」


「家族みんなとは、誰のことですか?」


「私と拓也さんと、お義母さんです。家事だって、前みたいにしてもらえれば、家の中も落ち着くと思います」


拓也は顔を上げ、沙織を見た。謝るために頭を下げたと思っていたが、沙織の口から出るのは十五万円と住宅ローンと家事の話ばかりだった。美紀は何も言わず、皿の上で乾き始めた豆大福の粉を見ていた。


「前みたいに、とはどういうことですか?」


「朝食やお弁当を作ったり、洗濯や掃除をしたりです。私もできることは手伝います」


「自分の家の家事をすることが、私を手伝うことなのですか?」


「そういう意味ではなくて、お義母さんは家事に慣れているから、中心になってもらえれば助かるということです」


「私は会社の仕事も続けています」


「それでも前はできていたじゃないですか」


沙織の声が少し大きくなった。すぐにまずいことを言ったと気づき、口元を押さえたが、言葉は戻らなかった。美紀は午前四時半に起きて家事をし、取締役として一日働き、帰宅後も夕食を作っていた。その暮らしを、沙織は今も「できていた」の一言で片づけていた。


「沙織、もうやめろ」


「だって、ほかに方法がないのよ。家がなくなったら、私たちはどこへ行けばいいの?」


「それを母さんに全部背負わせる話じゃない」


「拓也さんだって、お義母さんに助けてもらいたくて来たんでしょう?」


「俺は、まず謝りたかったんだ」


「なら、早く言えばいいじゃない」


拓也は膝の上で両手を組み、節の白くなった指を見た。引っ越しの日、美紀が重箱と荷物を抱えて玄関に立っていたとき、自分は沙織の隣に立ち、何も言わなかった。少しだけ別に暮らせばよいと口にしながら、母親の布団を置く場所さえ作らなかった。


「母さん、あの日は悪かった。俺は、沙織が慣れるまでだと思っていた」


「私の荷物を家へ入れなかったことも、慣れるまでのつもりでしたか?」


「それは……父さんも新居にいたし、母さんなら会社の給料で何とかできると思った」


「私なら何とかできるから、追い出してもよいと考えたのですね」


「そんなつもりじゃなかった」


「では、どんなつもりだったのですか?」


拓也は言葉を探したが、答えは見つからなかった。母親が金を持っているから住む場所は自分で用意できる、家事が得意だから家族全員の世話をする、収入が多いから住宅ローンまで助ける。その考えの中には、美紀が何を望んでいるかという問いが一つもなかった。


「母さん、家族なんだから助け合おう。俺も残業を増やすし、沙織も無駄遣いをやめる。母さんだけに全部出してもらうつもりはない」


「十五万円は出してほしいのでしょう?」


「今すぐ止められたら、家を失う」


「家事もしてほしいのでしょう?」


「分担する。前とは変える」


「では、私が困っていたとき、あなたは何を助けてくれましたか?」


拓也はテーブルの上の湯気を見つめた。美紀が朝から晩まで働き、修一から文句を言われ、沙織から世間知らずと笑われていたとき、自分は食事を待ちながら黙っていた。古い家が勝手に売られても、母親がどこで暮らすかを確かめなかった。


美紀は立ち上がり、窓辺の観葉植物へ霧吹きをかけた。丸い葉から一滴の水が落ち、白い鉢の縁を濡らした。会社の部下からもらった植物は、この部屋へ来たときには小さな葉が三枚しかなかったが、今では新しい芽が二つ伸びていた。


「この部屋へ来た最初の朝、私は四時半に目を覚ましました」


「母さんは昔から早起きだったよね」


「早起きが好きだったのではありません。四人分の朝食と弁当と洗濯を終えるには、その時間に起きるしかなかったのです」


「知らなかった」


「知ろうとしなかったのでしょう」


美紀は椅子へ戻り、自分の湯飲みを両手で包んだ。ほうじ茶はすでに冷めていたが、飲み直すために台所へ立とうとはしなかった。今は自分が飲みたいときに、自分の分だけ淹れ直せばよかった。


「あなたたちの言う助け合いは、私だけが金と時間を出すことなの?」


拓也も沙織も答えなかった。壁の時計の秒針が進み、約束した三十分が残り五分になっていた。沙織は一度顔を上げたが、美紀の体調や新しい生活について尋ねる代わりに、銀行の支払期限を思い出した。


「でも、このままでは本当に競売になります」


「それは拓也名義の住宅ローンです」


「親なら、息子が家を失うのを見過ごせるんですか?」


「嫁なら、夫の母親を住む家もないまま追い出せるのですか?」


沙織は口を閉じ、黒いワンピースの裾にできたしわを伸ばした。玄関先で頭を下げたことを謝罪だと思っていたが、美紀が必要としていた言葉を何一つ口にしていなかった。自分が困っている事情を説明すれば、相手は動いて当然だという考えだけが残っていた。


「母さん、俺たちはどうすればいい?」


「自分たちの収入に合った生活へ戻ることです。銀行と弁護士へ正直に相談し、売れるものを売り、必要なら家を手放してください」


「一千万円の返還は待ってもらえないの?」


「その話は代理人を通してください」


「十五万円も、もう出してくれない?」


「私は、住んでもいない家のローンを払うつもりはありません」


美紀は時計を確認し、面会の時間が終わったことを伝えた。残った豆大福を保存容器へ入れ、二人の湯飲みを流し台へ運んだ。沙織は焼き菓子の紙袋が玄関脇に置かれたままなのを見て、受け取ってもらえないのかと尋ねた。


「品物に罪はありませんから、いただきます。会社の皆さんと分けます」


「お義母さんのために選んだんです」


「私が好きな菓子を知っていましたか?」


「それは……甘いものなら何でもいいと思って」


「そうですか」


美紀の好物は豆大福であり、拓也は窓辺の皿を見て初めて思い出した。子供のころ、美紀は給料日に商店街で豆大福を二つ買い、一つを拓也へ分けてくれた。今、その思い出を持ってきたのは美紀自身で、息子夫婦の紙袋には値段だけで選んだ焼き菓子が入っていた。


玄関で靴を履くとき、拓也の背中に、引っ越しの日の記憶が重なった。あの日、美紀は同じように鞄を持ち、置き場所のない荷物を足元へ置いていた。自分は扉の内側に残り、母親が出ていくのを止めなかった。


「母さん、本当に戻る気はないの?」


「次に会うときは、弁護士を通してください」


「俺は母さんの息子だよ」


「息子であることと、あなたの借金を私が払うことは別です」


「家族なんだから」という言葉を、拓也はもう一度口にできなかった。美紀は玄関の扉を開き、二人が廊下へ出るのを待った。沙織は最後まで和室を空けるという話を繰り返そうとしたが、美紀の部屋にはすでに自分で選んだ椅子と本棚と植物があり、今さら物置だった部屋を差し出されても戻る理由にはならなかった。


扉が静かに閉まり、内側から鍵の回る音がした。新居の玄関で美紀が聞いたものと同じ音だったが、今度は拓也と沙織が外に立っていた。二人の手元には母親からの金も、新しい約束もなく、雨に濡れた焼き菓子のビニールだけが空になって残っていた。


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