第30話 「他人とは暮らせませんので」
第30話 「他人とは暮らせませんので」
美紀が玄関の扉を閉めようとしたとき、沙織が濡れた靴のまま一歩近づいた。黒いワンピースの肩には廊下から吹き込んだ雨が細かな染みを作り、整えてきた髪も頬へ張りついていた。沙織は扉の縁へ手をかけることはせず、美紀の名前を呼んだ。
「待ってください。最後に、もう一度だけ話を聞いてください」
「約束の三十分は終わりました」
「今度はお金の話ではありません。どうしても伝えたいことがあります」
美紀は閉じかけた扉を止めたが、二人を部屋へ戻そうとはしなかった。玄関の棚には拓也たちが持ってきた焼き菓子が置かれ、その隣には朝の散歩で拾った小さな木の実がガラスの皿へ入れられていた。以前なら息子が困っているという一言だけで、通帳と印鑑を持って食卓へ戻っていただろうと、美紀は自分の手を見た。
沙織は一度唇を結び、それから深く頭を下げた。先ほどとは違い、住宅ローンも十五万円も口にしなかった。顔を上げたときには目の縁が赤くなり、頬を伝った雫を手の甲で拭った。
「私が間違っていました。お義母さんがしてくれることを、全部当たり前だと思っていました」
美紀は答えず、沙織が続けるのを待った。拓也も廊下の壁際へ立ち、濡れたコートの袖を握っていた。エレベーターの到着を知らせる音が遠くで鳴り、買い物袋を持った老夫婦が別の部屋へ入っていった。
「頭金を出してもらったことも、食器棚を買ってもらったことも、毎日ご飯を作ってもらったことも、きちんと考えていませんでした。お義母さんなら何を言っても、最後には私たちを助けてくれると思っていました」
「そうですね」
「家へ戻ってほしいと言ったのも、お義母さんのためではありません。家とお金を失いたくなかったからです」
「それに気づいたのなら、これからの生活で忘れないでください」
「だから、もう一度だけ家族として一緒に暮らしてください。今度は家事も分担します。和室も全部、お義母さんの部屋にします」
沙織は美紀の手を握ろうと両手を伸ばした。美紀は半歩後ろへ下がり、その手を静かに避けた。拒むために声を荒らげる必要はなく、相手を納得させるまで理由を並べる必要もなかった。
「申し訳ないけれど、私はあなたたちとは暮らせません」
「どうしてですか? 私、謝りました。これからは変わります」
「あなたが変わることと、私があの家へ戻ることは別です」
「では、どうすれば許してもらえるんですか?」
「許してもらうために、私を再び家へ入れる必要はありません。あなたは自分のしたことを覚えたまま、自分の生活を立て直してください」
沙織は伸ばした手を胸元へ戻した。美紀はその姿を見ても、玄関の内側から出なかった。古い家を失い、新居の玄関で行き先のない荷物を抱えていた日の自分を、誰かにもう一度経験させたいわけではなかったが、そのために自分の生活を差し出すつもりもなかった。
「でも、私たちは家族でしょう?」
「拓也は私の息子です。それは変わりません」
「私は違うんですか?」
「あなたは拓也の妻です。互いに礼儀を守れるなら、親族として付き合うことはできます」
「一緒に暮らすことはできないんですね」
「ええ。あなたが教えてくれたでしょう」
沙織が顔を上げると、美紀は玄関の外に立つ二人をまっすぐ見た。声には笑いも怒鳴り声もなく、会社で決定事項を伝えるときと同じ落ち着きがあった。窓辺から流れてきたコーヒーの香りが玄関まで届き、美紀は短く息を吸った。
「他人とは暮らせませんので」
沙織は何も言い返せなかった。自分が笑いながら投げた言葉は、余分な音を取り除かれ、そのまま自分へ返ってきた。拓也は母親の後ろにある小さな部屋を見て、ここにはもう母親の暮らしがあり、自分たちが入り込む場所ではないのだと理解した。
「母さん、本当にごめん」
「その言葉は受け取ります」
「いつか、普通に会えるかな」
「あなたが自分の問題を私に解決させようとせず、自分で向き合えるようになったら、そのときに考えましょう」
「分かった。今度は自分で何とかする」
美紀はうなずき、二人がエレベーターへ乗るまで玄関に立っていた。拓也は最後に一度振り返ったが、戻ってきてほしいとは言わなかった。扉が閉まったあと、美紀は鍵をかけ、冷めたほうじ茶を流しへ捨てた。
豆大福は表面が少し硬くなっていたため、保存容器へ入れて冷蔵庫へしまった。拓也が持ってきた焼き菓子の箱には、薄いクッキーと小さなマドレーヌが入っていた。美紀は一つだけ皿へ取り、残りは翌日会社へ持っていくため、紙袋へ戻した。
拓也夫婦は、銀行と不動産会社へ相談し、新居の任意売却を進めることになった。競売になれば売却価格がさらに下がる可能性があるため、買い手を探し、売却代金を住宅ローンの返済へ充てる方法を選んだ。沙織が見栄えにこだわった大型テレビも、革張りのソファも、最新型の冷蔵庫も、買ったときの半額以下で手放した。
「食器棚はどうする?」
「お義母さんが買ったものよね」
「返すかどうか、弁護士に確認しよう」
「新しいアパートには大きすぎて入らないものね」
「俺たちには、最初から大きすぎる家だったんだ」
引っ越しの日、二人は段ボールへ自分たちの荷物を詰めた。以前のように美紀がおにぎりや煮物を用意することはなく、昼食はコンビニの昆布おにぎりと紙パックの茶だった。沙織は床へ座って冷たいおにぎりを食べ、引っ越し当日に重箱を持ってきた美紀へ、食事を勧めることさえしなかったと気づいた。
一階の和室から沙織の洋服や箱がすべて運び出されると、六畳の畳だけが残った。美紀の布団を敷く場所は、初めから十分にあった。部屋が狭かったのではなく、自分の物を一つも譲ろうとしなかっただけだった。
任意売却が成立しても、住宅ローンの残額と消費者金融、車や家具のローンはすべて消えなかった。美紀の一千万円についても、条件付き譲渡の約束を破ったことを認め、弁護士を通して返済計画を立てることになった。拓也と沙織は駅から離れた古い二DKへ移り、二人の給料から毎月決まった金額を返していく生活を始めた。
新しい部屋には食器棚も大型テレビも入らず、窓を開けると隣の建物の壁が見えた。台所の換気扇は古く、焼いたアジの煙が部屋へ流れたが、沙織は文句を言わずに窓を開けた。拓也が茶碗を洗い、沙織が洗濯物を干し、家事をどちらか一人へ押しつけないことを二人で決めた。
「今日の味噌汁、少し薄いかもしれない」
「それなら、次は俺が味を見ながら作るよ」
「お義母さんには、何度も味が薄いって言ってたよね」
「自分では一度も作らなかったのにな」
二人は湯気の立つ味噌汁を黙って飲んだ。食卓は小さく、椅子を引けばすぐ壁に当たったが、支払い日と残高を二人で確認するようになった。誰かの十五万円を先に数えることも、まだ受け取っていない金で家具を買うこともなくなった。
玲子に置いていかれた修一は、古い木造アパートの一室を借りた。六畳一間の部屋には小さな流し台があり、風呂はついていなかった。保証人を探すのにも苦労し、敷金と最初の家賃を払うと、次の年金まで使える金はわずかになった。
修一はスーパーの品出しを週五日に増やした。朝四時に起きても食事は用意されておらず、作業着が汚れれば自分で洗濯しなければならなかった。洗濯機の操作を間違えて洗剤を入れすぎ、床へ泡をあふれさせた夜、修一は何度も美紀へ電話をかけた。
「美紀、俺が悪かった。戻ってきてくれ」
留守番電話に言葉を残しても、返事はなかった。翌日には、玲子へ贈ったものを返してもらうため連絡したが、電話番号は使われていなかった。流し台には食べ終えたカップ麺の容器が二日分重なり、湿った作業着から生乾きの匂いが漂っていた。
美紀は修一からの留守番電話を聞くと、録音を代理人へ転送した。離婚の手続きも弁護士を通して進め、修一と直接会うことはしなかった。古い家の売却代金が浮気相手へ使われた記録についても整理し、財産分与や慰謝料の話し合いを任せた。
会社では引き続き取締役として会議へ出席し、新しい事業計画を進めた。部下の佐藤から休日の予定を尋ねられると、美紀は机の引き出しから料理教室の案内を出した。端にはトマトソースの小さな染みがつき、先週の授業で使った鉛筆の書き込みが残っていた。
「今度の日曜日は、魚料理の教室へ行きます」
「美紀さんが料理を習うんですか? 何でも作れるのに」
「家族が食べる料理ばかり作ってきたので、自分が食べたいものを習うことにしたんです」
「何を作るんです?」
「白身魚の香草焼きです。レモンを多めに使うそうですよ」
料理教室では、年齢も仕事も違う六人が同じ調理台を囲んだ。美紀は薄い青色のエプロンをつけ、タイムとローズマリーを指で刻んだ。葉をつぶすと青い香りが立ち、熱したオリーブ油の音と混ざった。
隣にいた女性は魚の皮を焦がし、講師を呼んで笑っていた。美紀もソースの塩を少し入れすぎたが、誰からも味が薄い、遅い、もっと肉を増やせとは言われなかった。焼き上がった魚を白い皿へ盛り、自分の席へ運ぶと、美紀は温かいうちにフォークを入れた。
「お味はどうですか?」
「レモンがよく合います。家でも作ってみます」
「ご家族に作ってあげるんですか?」
「いいえ。まずは自分のために作ります」
次の日曜日、美紀は市場で小さな白身魚を一切れ買った。八百屋ではローズマリーが見つからず、代わりに窓辺で育てられる鉢植えを選んだ。帰宅すると観葉植物の隣へ新しい鉢を置き、葉を二枚だけ摘んで夕食に使った。
家族へ食事を作る義務はなくなったが、台所へ立たなくなったわけではなかった。食べたいものを考え、必要な分だけ買い、温かいうちに自分で味わう時間は、美紀の一日の中へ自然に加わった。余った魚は翌日の弁当に入れ、レモンの端は紅茶へ浮かべた。
春が近づいたある朝、美紀は午前六時半に目を覚ました。目覚まし時計が鳴る少し前だったが、布団から飛び起きる必要はなかった。生成り色のパジャマの上へ薄いガウンを羽織り、カーテンを開けると、雨上がりの冷たい空気が部屋へ入った。
ベランダの椅子には小さな水滴が残り、ローズマリーの葉から湿った土の匂いがした。美紀は窓を閉めて台所へ向かい、一人分の湯を沸かした。四人分の弁当箱も、大量の洗濯物も、家族の支払日を書き込んだ家計簿も待っていなかった。
朝食には、厚切りのトーストと半熟の目玉焼き、レタスとトマトを用意した。昨日作ったニンジンのスープを温めると、バターと玉ねぎの匂いが部屋に広がった。コーヒーは豆をゆっくり挽き、青い縁のついた新しいカップへ注いだ。
美紀は立ったまま残り物を口へ入れず、椅子を引いて座った。トーストへバターを塗り、黄身を崩して一口食べたあと、熱いコーヒーを少しずつ飲んだ。味が薄いとも、遅いとも、弁当に肉を増やせとも言う人はいなかった。
テーブルの端には読みかけの本があり、その隣には料理教室の日程を書いた手帳が置かれていた。午後には友人と美術館へ行き、帰りに小さな喫茶店へ寄る予定だった。家族の都合が変われば取り消される予定ではなく、美紀自身が選んだ休日だった。
家族から追い出された日に始まったのは、空っぽの部屋で息を潜める暮らしではなかった。五十八年間、夫や息子の予定を先に書き、自分の希望を帳面の最後へ追いやってきた美紀が、自分の時間と金を自分で使う暮らしだった。美紀は温かいコーヒーのカップを両手で包み、今日の予定を手帳の最初の行へ、ゆっくりと書き込んだ。




