第28話 期限の記された通知
第28話 期限の記された通知
三度目の住宅ローン引き落とし日にも、拓也の口座には必要な金額が入っていなかった。早朝から残業まで引き受けて増えた給料は、消費者金融の返済と家具や家電の分割払いに消え、口座に残ったのは二万六千円だけだった。ダイニングテーブルには銀行の封筒が重なり、その横で昨夜の味噌汁が鍋ごと冷えていた。表面に白い膜が張っていたが、温め直すガス代さえ気になり、拓也は水道水を一杯飲んで家を出た。
昼休みになると、拓也は銀行のローン担当者へ電話をかけた。会社の非常階段は冷たい風が吹き抜け、黒いスーツの裾が何度も膝へまとわりついた。手元には給料明細と返済予定表があり、余白には毎月の支出を何度も書き直した跡が残っていた。
「返済期間を延ばして、月々の支払額を下げることはできませんか?」
「収入と現在の借入状況を確認したうえで、審査となります」
「残業を増やしました。これからは給料も少し上がります」
「ほかにお借り入れはございますか?」
「車と家具、家電のローンがあります。それと、消費者金融からも少し」
担当者の声が一度止まり、紙をめくる音が聞こえた。拓也は非常階段の踊り場にしゃがみ、冷たくなったコンビニの焼きそばパンを膝の上へ置いた。銀行から求められた金額を一つずつ答えるうちに、少しだと思っていた借金がいくつも積み重なっていることを改めて知った。
「ご家族からの援助は、今後も受けられないということでしょうか?」
「母から毎月十五万円を受け取る予定でしたが、事情が変わりました」
「予定というのは、これまでに継続して入金された実績がありますか?」
「ありません。最初の振込前に止まりました」
「お父様からの援助はいかがでしょう?」
「父にも金はありません」
拓也は最後の言葉を小さく答えた。父親には古い家の売却代金と十分な年金があり、家計を支えてくれると信じて新居を購入したとは説明できなかった。銀行が確認するのは信じた理由ではなく、実際の収入と借入額と返済実績だった。
担当者からは、返済条件を変更できると約束はできないと告げられた。収支表、給与明細、ほかの借入先の残高証明をそろえ、窓口で相談するよう案内されたが、審査の間も支払期限は止まらない。拓也は電話を切ると、焼きそばパンを一口かじった。冷えた麺が固まり、濃いソースの味だけが舌に残った。
その夜、拓也は必要な書類をそろえるため、リビングの床へ請求書を並べた。沙織は灰色のスウェットに厚手の靴下を履き、電卓を握っていた。暖房は切られており、窓から入る冷気で二人の指先は赤くなっていた。ソファでは玲子が毛布にくるまり、テレビの旅行番組を見ながら輸入菓子を食べていた。
「車を売れば、ローンの一部は減らせるかもしれない」
「車がなかったら、買い物はどうするの?」
「近くにスーパーがある。自転車でも行けるだろう」
「雨の日は困るわ。それに、せっかく新居に合わせて買った車なのよ」
「家までなくなったら、車だけ残しても仕方ない」
「そこまで深刻なの?」
沙織は電卓の数字を見たまま、声を低くした。これまでにも銀行から封筒は届いていたが、拓也が残業をすれば何とかなると考え、家具の分割払いもカードの買い物も完全には止めていなかった。玄関には新しいブーツの箱があり、まだ値札も外されていなかった。
「住宅ローンだけじゃない。消費者金融の返済もある。母さんから一千万円の返還も求められてる」
「一千万円は、今すぐじゃなくてもいいでしょう?」
「弁護士から期限を切られている。無視すれば訴えられる」
「お義母さん、本当に息子から取り返すつもりなの?」
「条件を破ったのは俺たちだ。この家を売っても、ローンを返したあとに一千万円残るか分からない」
拓也が話している間も、玲子は菓子の袋を開ける音を立てていた。沙織がテレビを消すと、玲子はまだ見ていたと文句を言い、修一を呼んだ。修一は二階から赤いセーター姿で下りてきたが、床に並べられた請求書をまたいで、玲子の隣へ座った。
「父さんも聞いてくれ。この家は、このままだと維持できない」
「また金の話か。働いているお前が何とかしろ」
「父さんにも生活費を入れてもらう。少なくとも年金を家計へ入れてくれ」
「年金は俺の老後のための金だ」
「その老後を、この家で養ってもらうつもりだろう?」
「頭金を出したと言っている。俺には住む権利がある」
「家が銀行に取られたら、その権利もなくなるぞ」
修一は鼻で笑い、テーブルの上からみかんを一つ取った。皮をむくと甘酸っぱい匂いが広がり、白い筋を床へ落としたまま口へ運んだ。競売という言葉を聞いても、拓也が大げさに騒いでいると思っているらしく、玲子へ一房分けながらテレビをつけ直した。
「銀行だって、すぐに家を取ったりしない。払えるときに払えばいいんだ」
「最初の返済から何度も遅れてるんだぞ」
「俺の古い家は現金で売れた。銀行なんかに文句を言われたことはない」
「それは住宅ローンがなかったからだ。この家はまだ銀行へ借金を返している途中なんだよ」
「名義人のお前が銀行と話せ。俺には関係ない」
拓也は床に落ちたみかんの筋を拾い、ごみ箱へ捨てた。修一に何を言っても、自分が出した頭金のことだけを繰り返し、残りの返済については名義人の責任だと言う。美紀の一千万円は夫婦の金だと主張する一方で、住宅ローンは息子だけの借金として扱っていた。
数日後、銀行から返済条件変更の相談について連絡があった。家具と車のローンに加え、消費者金融からの借入額が増えているため、現在のままでは希望どおりの変更は難しいという内容だった。毎月の支出をさらに減らし、延滞分の一部を入金できなければ、正式な手続きへ進められないとも告げられた。
拓也は帰宅すると、車の売却査定を申し込んだ。沙織は黒いコートを脱ぐことも忘れ、台所で査定画面をのぞき込んだ。購入から日が浅い車だったが、ローンの残額より査定額のほうが低く、売っても借金が残る計算だった。
「こんなに安いの? まだほとんど新車なのに」
「買った瞬間から値段は下がるんだ。残るローンは別に払うしかない」
「それなら売らないほうがましじゃない」
「毎月の返済と保険料、駐車場代がなくなる」
「お義母さんが十五万円を振り込んでくれたら、売らなくて済むでしょう?」
「まだそんなことを言ってるのか?」
「一千万円を返せと言いながら、私たちが家を失っても平気なの?」
拓也は返事をせず、車の鍵をテーブルへ置いた。美紀を追い出した直後なら、自分も沙織と同じ言葉を口にしたかもしれなかった。しかし家計簿と通帳を調べた今では、美紀がさらに金を出すことは、助け合いではなく同じ負担を再び押しつけることだと分かっていた。
それから一週間ほどして、銀行から厚い封筒が届いた。封筒の表には「重要」と赤い文字で印刷され、配達員は拓也本人の受領印を求めた。玄関には玲子の赤いパンプスと修一の泥のついた作業靴が重なり、印鑑を探すだけでも靴箱の上に積まれた郵便物を崩さなければならなかった。
拓也はダイニングテーブルで封を開けた。中には滞納額と支払期限が記され、このまま返済が行われなければ期限の利益を失う可能性があると書かれていた。期限の利益を失えば、残った住宅ローンを一括で請求され、それでも支払えなければ、抵当権に基づいて家が差し押さえられ、競売手続きへ進む。拓也は何度も同じ文章を読み、赤い数字で記された日付を指でなぞった。
「沙織、来てくれ」
「今、洗濯物を干してるの」
「すぐに来てくれ。銀行から最後の期限が来た」
沙織は濡れたタオルを持ったまま椅子へ座った。髪を後ろで無造作に束ね、薄い黄色の部屋着には洗剤の白い跡がついていた。通知を読み進めるうちに、タオルを握る指へ力が入り、冷たい水がテーブルへ落ちた。
「一括って、残っているローンを全部?」
「そうだ。払えるわけがないから、家は競売になる」
「いつまでに払えばいいの?」
「ここに書いてある日までだ。延滞分と遅延損害金を入れなきゃならない」
「消費者金融から、もう少し借りられないの?」
「借入限度額まで使ってる。これ以上借りても、来月の返済が増えるだけだ」
「お義父さんの年金は?」
「父さんに聞いても出さないだろう。それに、全部入れても足りない」
二人が話していると、修一が階段を下りてきた。茶色のボストンバッグを持ち、新しいコートを着ていた。後ろから玲子も現れ、紫色のキャリーバッグを一段ずつ下ろしていた。二人とも旅行へ出かけるような服装だったが、玲子の紙袋には洗面道具や化粧品まで詰められていた。
「どこへ行くんだ?」
「玲子と少し出かける」
「この荷物で、少しには見えない」
「家の中がうるさくて休めないからな。しばらく玲子の知り合いの所へ行く」
「家が競売になるかもしれないんだぞ。父さんも話を聞いてくれ」
「名義人のお前が責任を取れと言っただろう」
「父さんは、この家は自分のものだと言って居座ったじゃないか」
「銀行に取られるような家なら、もう俺には必要ない」
修一は悪びれず、玄関で革靴を履いた。沙織は濡れたタオルを持ったまま廊下へ出て、生活費だけでも置いていくよう求めた。修一は財布を開き、千円札を一枚取り出しかけたが、玲子がタクシー代に必要だと言うと、そのまま財布へ戻した。
「お義父さん、この家に金を出したから住む権利があると言いましたよね」
「住める家だから権利があるんだ。競売になるなら話は別だ」
「自分だけ逃げるつもりですか?」
「俺は名義人じゃない。お前たち夫婦の借金だ」
「お義母さんを追い出したときは、自分の家みたいに振る舞っていたでしょう!」
「美紀の話を持ち出すな。あいつが十五万円を止めなければ、こうはならなかった」
修一は玄関を開け、玲子の荷物を外へ運んだ。冷たい雨の匂いが入り、廊下に落ちていた広告が風でめくれた。玲子は沙織へ借りていた傘を返すこともなく、赤いパンプスの音を響かせて修一のあとを追った。
「玲子さん、うちの化粧品やタオルを持っていかないでください」
「私のものと一緒になっただけよ。細かいことを言わないで」
「食費も光熱費も払っていないでしょう!」
「家を失う人に請求されても困るわ。修一さん、早く行きましょう」
玲子は振り返らず、門の前で待っていたタクシーへ乗り込んだ。修一もボストンバッグを抱えて後部座席へ入り、拓也と沙織を残したまま車は走り去った。玄関には泥のついた車輪の跡と、玲子が落とした金色の髪留めだけが残った。
修一は、玲子が以前暮らしていた賃貸マンションへ行くつもりだった。しかし玲子はすでに部屋を解約しており、実際に頼れる知り合いもいなかった。二人は駅前の安いホテルへ泊まったが、宿泊費と食事代はすべて修一の口座から支払われた。
三日目の朝、ホテルの小さな部屋で、玲子は修一の通帳を開いた。窓辺には食べかけのサンドイッチが置かれ、乾燥したパンの端が硬くなっていた。修一は白い肌着のままベッドへ腰かけ、残高がほとんどない通帳を取り返そうと手を伸ばした。
「これだけしかないの?」
「次の年金が入れば何とかなる」
「家を売ったお金が残っていると言っていたでしょう?」
「新居の頭金や旅行に使った。お前のネックレスやバッグにも使ったじゃないか」
「私は、まだ数百万円は残っていると思っていたのよ」
「俺には毎月年金がある。スーパーの給料も入る」
「月三万円でしょう? ホテル代にもならないじゃない」
玲子は通帳をベッドへ投げ、紫色のキャリーバッグへ服を詰め始めた。修一がどこへ行くのかと尋ねても、知り合いの家へ移るとしか答えなかった。前日まで椅子へ掛けていた白いコートを着て、金色のネックレスがあることを鏡で確かめると、部屋の鍵を修一の手へ押しつけた。
「待ってくれ。俺一人では、アパートも借りられない」
「それは息子さんに頼めばいいでしょう」
「家はもう競売になる。美紀も俺の電話に出ない」
「では、働いて自分で何とかして。あなたが奥さんに言ったことでしょう?」
「お前のために、いくら使ったと思ってるんだ」
「あなたが自分で使ったのよ。私は頼んでいないわ」
玲子はキャリーバッグを引き、ホテルの部屋を出ていった。廊下に甘い香水の匂いが残ったが、修一が追いかけたときには、エレベーターの扉が閉まっていた。修一の財布には数枚の千円札しかなく、翌日の宿泊費も払えなかった。
新居では、玲子と修一がいなくなっても、暮らしは元へ戻らなかった。洗面所に残された化粧品、浴室の排水口に絡んだ髪、冷蔵庫の奥に放置された美容飲料が、二人のいた跡を残していた。沙織は紫色に染まった浴槽をスポンジでこすったが、力を入れるたび腕が震え、洗剤の匂いで何度も咳き込んだ。
「二人はいなくなったのに、何も楽にならないね」
「ローンも借金も残ってるからな」
「お義父さん、もう戻ってこないの?」
「玲子さんに捨てられたら、戻ろうとするかもしれない」
「鍵を替えたほうがいいわ」
「その金もない。それに、もうすぐ俺たちもここを出ることになる」
拓也は期限の記された通知を透明なファイルへ入れた。食卓には、銀行の通知、消費者金融の返済予定表、車と家具のローン明細、美紀の代理人から届いた一千万円の返還請求書が並んでいた。どの紙にも支払期限があり、どの金額も待ってくれなかった。
沙織は高級な食器棚を開け、引っ越しのときに美紀がそろえた皿を一枚ずつ眺めた。見栄えが必要だと言って選んだ大きなソファも、壁いっぱいのテレビも、最新型の冷蔵庫も、まだ支払いが終わっていなかった。家を手放しても、売却代金ですべての借金を返せなければ、残った金額を払い続けなければならない。
「こんなはずじゃなかった」
「何が?」
「新しい家で、余裕のある生活をするはずだったのよ」
「母さんの十五万円と父さんの金を当てにした生活だった。最初から、俺たちの収入では余裕なんかなかったんだ」
「でも、お義母さんは一千万円も出せるくらいお金があるでしょう?」
「まだ母さんを当てにするのか?」
沙織は食器棚の扉を閉めた。中で皿同士がぶつかり、硬い音を立てた。拓也は銀行へ提出する書類を封筒に入れたが、収支表の最後には毎月の不足額が赤字で残ったままだった。
二人が手に入れた新居は、もう二人を守る場所ではなかった。修一の援助は最初から存在せず、美紀の送金は一度も始まらず、返済条件の変更も難しいと告げられていた。広いリビングには家具が残っていたが、暖房をつける余裕がなく、冷えたソファへ座ると布地から玲子の香水の匂いがした。
玄関の郵便受けが閉まる音がし、拓也は新しい封筒を取りに行った。今度は消費者金融からの督促状で、遅延した場合の利息が細かな数字で記されていた。期限の利益を失う可能性を知らせる銀行の通知と並べると、テーブルの端まで紙で埋まった。
新居も、父親の援助も、母親の十五万円も、すでに二人の手から離れようとしていた。残っているのは返済しきれない借金と、自分たちの力では維持できない四LDKの家だった。拓也と沙織は灯りを一つだけつけた食卓に座り、日付の書かれた通知を挟んだまま、次に頼れる相手の名前を同時に考えていた。




