第27話 地獄の同居
第27話 地獄の同居
玲子が新居で暮らし始めて一週間が過ぎると、台所の棚には見慣れない調味料が増えていた。外国製のオリーブ油、粒の大きな岩塩、小瓶に入った香草が、美紀の買った食器棚の一段を占領している。沙織が安売りで買った味噌やしょうゆは隅へ押しやられ、開封した砂糖の袋には輪ゴムさえかけられていなかった。朝、白いブラウスに黒いスカートを着た沙織が弁当を作ろうとすると、流し台には玲子が夜食に使った皿が重なっていた。
「玲子さん、使った食器は洗ってください」
「朝になったら、あなたがまとめて洗うと思ったの」
「どうして私が洗うんですか?」
「お嫁さんでしょう? 家のことをするのは普通じゃない」
「あなたはこの家のお客ではなく、勝手に住みついた人です」
玲子は桃色のガウンを羽織り、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。朝食に使うつもりだった卵は前夜のうちに玲子がオムレツにし、残った殻を調理台へ置いたままだった。沙織が卵のことを尋ねると、玲子は三個くらいで細かいことを言うなと笑った。
「その卵、今日の朝食とお弁当に使う予定だったんです」
「また買えばいいでしょう」
「誰のお金で買うんですか?」
「拓也さんが働いているんでしょう?」
「あなたの食費を、どうして私の夫が払うんです?」
「私は修一さんと一緒にいるの。修一さんがこの家へお金を出したなら、私にも使う権利があるでしょう」
沙織は卵の殻を握り、指先へ細かな破片を食い込ませた。玲子の言い分は勝手なものだったが、金を出した修一には住む権利があると考え、美紀だけを追い出したのは自分だった。そこで反論すれば、自分が美紀へ言った言葉まで否定することになるため、沙織は殻を生ごみへ捨てるしかなかった。
朝食は、少し硬くなった食パン一枚とインスタントコーヒーだけになった。沙織がパンへ薄くマーガリンを塗っていると、修一が紺色の作業着姿で下りてきた。玲子はすぐに声を甘くし、修一へ卵が切れていると訴えた。
「修一さん、朝はたんぱく質を取らないと駄目よ。私、空腹だと気分が悪くなるの」
「沙織、卵くらい買っておけ」
「昨日までありました。玲子さんが三個とも使ったんです」
「家にあるものを食べて何が悪い。家族なんだから分け合えばいいだろう」
「私は、この人と家族になった覚えはありません」
「美紀のことは他人だと言ったのに、玲子のことは家族じゃないと言うのか。お前は自分に都合よく言葉を変えるな」
修一はそう言いながら、自分の食パンを二枚トースターへ入れた。残りが一枚しかないことに気づくと、それも玲子の皿へ置き、沙織には買ってくればよいと言った。修一自身は給料を家へ入れず、玲子も生活費を払わないまま、食べる量だけは二人分増えていた。
台所の争いが終わると、次は浴室だった。玲子は朝から一時間近く湯船につかり、香りの強い入浴剤を毎回一本の半分ほど使った。紫色の湯が浴槽の内側へ筋を残し、排水口には赤茶色の長い髪が絡んでいた。沙織が仕事へ出る前にシャワーを使おうとしても、曇った扉の向こうから鼻歌が聞こえるだけだった。
「玲子さん、もう四十分入っています。私も仕事へ行くんです」
「急に出たら、立ちくらみがするわ。あと十分待って」
「毎日こんなにお湯を使われたら、ガス代と水道代が払えません」
「新しい家なのに、お風呂まで節約するの? そんな暮らしは体に悪いわよ」
「払わない人が言わないでください」
「修一さん、この家のお嫁さん、浴室の前で怒鳴るのよ」
修一は廊下の椅子に座り、新聞を読みながら返事をしなかった。沙織が修一の腕をつかんで何とかしてほしいと言うと、新聞を畳み、玲子には沙織が神経質だから気にするなと伝えた。そのあと沙織と二人になると、今度は玲子は長風呂で困ると小声で話した。
「分かってるなら、お義父さんから注意してください」
「俺が言うと角が立つ。女同士で話し合え」
「あなたが連れてきた人でしょう?」
「俺は少し泊めると言っただけだ。ここまで居座るとは思わなかった」
「では、出ていくように言ってください」
「急に追い出したら、俺が悪者になるじゃないか」
修一は立ち上がり、新聞を脇へ挟んで自分の部屋へ逃げた。午後になると玲子の隣へ座り、沙織は金のことばかり言って家の空気を悪くすると話した。夜には沙織の前で、玲子は家事もせずに図々しい女だと悪口を言った。二人を争わせておけば、自分が責任を問われずに済むと考えているのが、沙織にも分かり始めた。
修一は冷蔵庫の奥に、自分用の缶ビールとつまみを隠すようになった。ところが玲子がそれを見つけて飲むと、今度は沙織が勝手に取ったのだと思い込んだ。夜の食卓には値引きされた焼きそばが三人分しかなく、修一は自分の皿が少ないと箸でテーブルをたたいた。
「俺の分だけ、どうしてこんなに少ないんだ」
「三人分しか買えなかったからです。四人分買うお金がないんです」
「玲子の分を減らせばいいだろう」
「修一さん、さっき私には、沙織さんが自分だけ多く取るって言ったわよね?」
「そんなことは言っていない」
「言いました。台所で、あの嫁は食い意地が張っているって」
「お義父さん、私には玲子さんが二人分食べると言いましたよね?」
二人の視線が同時に向くと、修一は焼きそばを口へ詰め込んだ。濃いソースが白い肌着の胸元へ落ちたが、修一は紙ナプキンを探すふりをして立ち上がった。食べ終える前に自室へ戻り、扉へ鍵をかけたため、残された沙織と玲子は互いに相手の皿を見ながら黙って麺をすすった。
拓也は朝七時前に家を出て、帰宅するのは午後十時を過ぎるようになった。住宅ローンに加えて消費者金融への返済が始まり、勤務先で残業を引き受けなければ月末の支払いに足りなかった。白いシャツの襟には一日の汗が染み、電車で押された背広には他人の整髪料の匂いが残っていた。疲れた足で玄関を開けても、温かい食事の匂いはしなかった。
その夜も、リビングの床には玲子の雑誌と沙織の通販カタログが散らばっていた。ソファの背には洗濯物が山になり、誰のものか分からない靴下がテレビ台の前へ落ちている。台所には昼に食べたカップ麺の容器と、乾いたご飯粒のついた茶碗が重なっていた。拓也が冷蔵庫を開けると、調味料と玲子の美容飲料しか入っていなかった。
「夕飯は?」
「今、それどころじゃないのよ!」
「冷凍庫に何かないのか?」
「玲子さんが冷凍パスタを食べたわ。私の分まで全部」
「二個しかなかったから、修一さんと分けただけよ」
「俺の分は?」
「帰りが遅いんだから、外で食べてくればよかったでしょう」
拓也は返事をせず、買い置きの米を探した。米びつの底には一膳分も残っておらず、棚の奥から賞味期限を過ぎたクラッカーが見つかった。袋を開けると湿気ていたが、拓也は水道水で流し込み、ネクタイを緩めた。
「食費として四万円置いただろう。もうないのか?」
「お義父さんたちが外食したり、お酒を買ったりしたのよ」
「俺の金を勝手に使ったのか?」
「修一さんが、家の生活費だから使っていいって言ったの」
「父さんは一円も入れてないだろう!」
「俺に怒鳴るな。家計を管理している沙織が悪い」
修一は二階から顔だけ出し、すぐに扉を閉めた。玲子も自分が食べたものくらいで騒ぐなと言い、紫色のガウンを揺らしながら部屋へ戻った。拓也は食卓に残された焼酎のコップを流しへ運び、底に浮いていた梅干しの種を生ごみへ捨てた。
「もう、どうにかしてくれよ」
「私だって毎日言ってるわよ。お義父さんも玲子さんも、話を聞かないの」
「沙織が父さんだけ住まわせたから、こうなったんだろう」
「あなたも賛成したじゃない!」
「母さんを止めなかったことは謝る。でも今は、この家をどうするか考えないと駄目だ」
「私に全部押しつけないで。あなたは残業で家から逃げているだけでしょう」
拓也は脱いだ背広を椅子へ掛けようとしたが、背もたれには玲子のストールが置かれていた。床へ落とせばまた争いになると思い、自分の背広を腕にかけたまま寝室へ向かった。廊下には浴室からあふれた濡れた足跡が続き、靴下の裏へ冷たい水が染みた。
翌朝、沙織は玄関に積まれたごみ袋を見ながら、古い家の朝を思い出した。美紀がいたころは、前夜の食器が流し台に残ることはなく、洗った布巾が窓辺に干されていた。炊飯器からは米の匂いが立ち、鍋には豆腐とわかめの味噌汁があり、弁当箱には卵焼きと焼いた鮭が詰められていた。
沙織は、それらが家に初めから備わっているもののように受け取っていた。美紀が午前四時半に起き、眠そうな目で米を研ぎ、冬には荒れた指へ絆創膏を巻いて洗濯物を干していたことも知っていた。しかし美紀が何を考えながら手を動かしていたのかまでは、今も考えようとしなかった。
「あの人なら、こんなに散らかさなかったのに」
沙織がつぶやくと、玲子が台所の入り口であくびをした。豹柄のパジャマの上に修一のカーディガンを羽織り、洗っていない髪には香油を多くつけていた。甘い匂いと、昨夜の揚げ物の匂いが狭い台所で混ざった。
「何か言った?」
「別に。それより、昨日の食器を洗ってください」
「朝から細かいことを言わないで。コーヒーを飲んでからにするわ」
「そう言って、一度も洗ったことがないでしょう」
「家事が好きな人がやればいいのよ。前にいた奥さんは、何でもしてくれたんでしょう?」
「お義母さんとあなたを一緒にしないでください」
「同じ男と暮らした女同士じゃない。そんなに立派な奥さんなら、どうして追い出したの?」
沙織の手から、ごみ袋の口を縛っていた紐が落ちた。玲子は返事を待たず、美紀が使っていた白いカップを食器棚から取り出した。そのカップには小さな青い花が描かれ、持ち手の内側に薄いひびがあった。美紀は拓也が小学生のころに贈ったものだからと、捨てずに使い続けていた。
「それは使わないでください」
「どうして?」
「お義母さんのカップです」
「もう住んでいない人のものでしょう。置いてあるなら使ってもいいじゃない」
「返してください!」
沙織がカップを取り上げようとすると、玲子の指が滑った。白いカップは床へ落ち、乾いた音を立てて三つに割れた。青い花の描かれた欠片が冷蔵庫の下へ滑り込み、玲子は自分の足へ当たらなかったことを確かめてから肩をすくめた。
「古いカップ一つで、そんな顔をしないで」
「謝ってください」
「わざとじゃないわ。手を出したあなたにも責任があるでしょう」
「出ていってください。今すぐ、この家から出ていって!」
沙織の声が家中へ響いたが、修一は二階から下りてこなかった。玲子は割れた欠片を拾わず、コーヒーは外で飲むと言って着替えに戻った。床には白い破片とこぼれた粉が残り、沙織は膝をついて一つずつ拾った。
青い花の欠片を指でつまむうち、沙織の頭には美紀の顔が浮かんだ。あの日、美紀も自分の荷物と重箱を抱え、玄関の外へ出ていった。背後で鍵が閉まっても怒鳴り返さず、自分を押しのけた家族へすがることもなかった。
昼休みになり、沙織は勤務先の休憩室でスマートフォンを開いた。昨夜の残りを詰める余裕がなかったため、昼食はコンビニで買った梅おにぎり一個だった。海苔の湿った匂いを感じながら、美紀とのメッセージ画面を開くと、以前送った「カーテン代、お願いします」という文章が残っていた。その前にも、家具代や頭金の確認ばかりが並び、美紀の体調を尋ねる言葉は一つもなかった。
沙織は新しい文章を打ち始めた。「先日は申し訳ありませんでした」と入力したが、指を止めて削除した。最初に謝れば、自分が全面的に悪かったと認めることになるような気がした。代わりに、できるだけ柔らかく見える言葉を選び、事情を説明することにした。
「お義母さん、一度だけ話し合いませんか。お義父さんが女性を連れてきて、勝手に住まわせています。家の中がめちゃくちゃになり、ローンの支払いも苦しくなっています。お義母さんから、お義父さんとその女性に出ていくよう言ってもらえませんか。十五万円の援助についても、今後のことを相談したいです」
文章を読み返した沙織は、最後に「家族ですから、力を貸してください」と付け加えた。送信ボタンを押すと、肩から力が抜けたように椅子へもたれた。美紀なら事情を知れば放っておかず、修一を叱り、玲子を追い出し、台所を片づけ、滞った支払いまで何とかしてくれると考えた。
しかしその文章には、美紀を他人と呼んだことへの謝罪も、一千万円を返す約束もなかった。美紀がどこで暮らし、何を食べ、仕事と引っ越しをどう両立させたのかを尋ねる言葉もなかった。沙織が求めたのは話し合いではなく、壊れた家を元どおりにするための家事と金と後始末だった。
午後の休憩が終わる直前、メッセージには既読の印がついた。沙織はすぐにスマートフォンを握り、返信を待った。だが画面には何も表示されず、冷めたペットボトルの緑茶だけが机の上で水滴を作っていた。
しばらくして届いたのは、美紀からの返事ではなかった。美紀の代理人である弁護士の名前と連絡先、それに短い一文だけが表示された。沙織は何度も読み返したが、言葉の意味は変わらなかった。
「今後、住居および金銭に関するご連絡は、すべて代理人を通してください」
沙織はスマートフォンを伏せ、食べ終えたおにぎりの袋を小さく折った。窓の外では細い雨が降り始め、休憩室へ戻ってきた同僚が傘を忘れたと笑っていた。家へ帰れば、散らかった台所と玲子の長風呂と修一の怒鳴り声が待っている。それでも美紀が戻るための部屋も、美紀へ向ける言葉も、沙織はまだ用意していなかった。




