第26話 新しい住人
第26話 新しい住人
夕方五時を過ぎたころ、沙織は台所で値引き品の鶏むね肉を切っていた。薄い水色のセーターの袖を肘までまくり、肉を少しでも柔らかくしようと包丁の背でたたいていると、玄関の鍵が開く音がした。修一が仕事から戻るには遅く、拓也が帰宅するには早い時間だったため、沙織は濡れた手を布巾で拭きながら廊下へ出た。
玄関には修一と、見知らぬ女が立っていた。女は五十代半ばほどで、赤茶色に染めた髪を肩まで伸ばし、襟に毛皮のついた白いコートを着ていた。甘い香水の匂いが玄関から廊下まで広がり、磨かれた爪には細かな金色の飾りが光っている。足元には紫色の大きなキャリーバッグと、ブランド名の入った紙袋が四つも並んでいた。
「お義父さん、その人は誰ですか?」
「玲子さんだ。前に話した知り合いだよ」
「知り合いが、どうしてそんな大きな荷物を持っているんです?」
「今日から、しばらくここで暮らすことになった」
修一は昨日よりも上等な紺色のジャケットを着ており、胸元には美紀と暮らしていたころには見たことのない銀色の飾りがついていた。玲子は沙織の顔を確かめるように眺めたあと、薄く口角を上げた。前日に玄関へ置かれていた女性用の室内履きを迷わず履いたため、すでに何度か家の中を見ているのだと沙織にも分かった。
「初めまして。修一さんから、お嫁さんのお話は聞いています」
「私は何も聞いていません。ここは私たち夫婦の家です」
「そうなの? 修一さんは、自分がお金を出した家だと言っていたけれど」
「玲子、立ち話も何だから上がりなさい。荷物は俺が運ぶ」
修一は紫色のキャリーバッグを持ち上げ、廊下を進んだ。車輪についた泥が白い床へ細い線を残したが、玲子も修一も気にしなかった。沙織は追いかけようとして、台所から焦げた油の匂いがすることに気づいた。火を止めに戻ると、フライパンに入れた鶏肉の端が黒くなり、煙が換気扇の下で揺れていた。
「待ってください。勝手に決めないでください!」
「もう決めたことだ。玲子は二階の空いている部屋を使う」
「あそこは、将来子供ができたときのための部屋です」
「まだ子供はいないんだから、空き部屋だろう」
「そういう問題ではありません。この家の名義は拓也です」
修一は階段の途中で振り返り、面倒そうにキャリーバッグを一段上へ引き上げた。重い車輪が階段の角へぶつかるたび、新しい木材に黒い傷がついた。沙織が顔をしかめても、修一は自分が買った家なのだから傷の一つや二つは構わないと言い、玲子に先へ上がるよう促した。
玲子が使うことになったのは、修一の部屋の隣にある六畳の洋室だった。薄い黄色のカーテンと小さな机だけが置かれ、沙織はいつか子供部屋にするつもりで壁へ動物の絵を飾っていた。玲子は部屋に入るなり窓を開け、外から入る冷たい風に白いコートの裾を揺らした。住宅街のどこかから夕食の焼き魚の匂いが流れてくると、玲子は鼻を押さえ、すぐに窓を閉めた。
「少し狭いけれど、何とかなるわね」
「狭いって、ここはホテルじゃありません」
「修一さんから、四LDKの立派な家だと聞いていたの。もっと広いお部屋かと思っただけよ」
「あなたは生活費をいくら入れるつもりですか?」
「そんな話、来たばかりの人にするものじゃないでしょう?」
玲子は白いコートを脱ぎ、ベッドもない部屋の中央に立った。下に着ていたのは体の線がはっきり出る紫色のワンピースで、首には小さな石のついた金色のネックレスが下がっていた。拓也が修一の通帳で見つけた宝飾店の支払いを思い出し、沙織はその石から目を離せなくなった。
「そのネックレス、お義父さんに買ってもらったんですか?」
「ええ、お誕生日にね。私に似合うと思ったんですって」
「そのお金は、古い家を売ったお金でしょう」
「夫婦のことは、ご本人たちで話し合ったらどうかしら。私は修一さんから贈られただけだから」
「夫婦って、お義父さんには妻がいます。まだ離婚していません」
「でも、その奥さんはもう別の家で暮らしているのでしょう?」
玲子は鏡を取り出し、口紅の輪郭を小指で整えた。修一は紙袋の中から化粧品や着替えを出し、机の上へ丁寧に並べていた。美紀の荷物を玄関から中へ入れようともしなかった男が、玲子の香水瓶には傷がつかないよう、薄いタオルまで敷いている。沙織はその手つきを見ながら、階段の手すりを強く握った。
「とにかく、この家では暮らせません。ホテルかアパートへ行ってください」
「お前が決めることじゃない」
「私、他人とは暮らせませんから」
「他人とは暮らせないんじゃなかったのか?」
「だから、この人に出ていってもらうんです」
「お前は美紀を追い出したとき、金を出した人間なら住んでもいいと言っていただろう。俺はこの家に金を出した。だから俺が誰を住まわせるか決めてもいいはずだ」
沙織の口が半分開いたまま止まった。あの日、美紀が「お義父さんは一緒に住むのに、私は他人なの」と尋ねたとき、沙織は修一が家の金を出したからだと答えた。実際には美紀も一千万円を出していたが、それを無視し、修一だけを家族として扱った。その言葉を今度は修一に使われ、沙織はすぐに返せる言葉を見つけられなかった。
「でも、この人は家に一円も出していないじゃないですか」
「玲子は俺の客だ。俺が出した金の分で住ませる」
「お義父さんが出した分は、もう頭金に使われています。それに、ここは拓也名義です」
「美紀を追い出すときには、名義の話なんてしなかっただろう」
「それとこれとは違います」
「どこが違うんだ? お前が気に入る他人は置いてよくて、気に入らない他人は駄目なのか?」
玲子は二人の言い争いに興味がないように、キャリーバッグのファスナーを開けた。中には服だけでなく、ヘアアイロン、化粧品、湯沸かし器、何冊もの旅行雑誌が詰められていた。しばらく泊まるという荷物ではなく、当分出ていくつもりがない量だった。
拓也が帰宅したのは、午後七時を少し過ぎたころだった。黒いスーツの肩には細かな雨粒がつき、コンビニで買った食パンと牛乳の袋を提げていた。玄関に見慣れない赤いパンプスがあり、階段の上から女の笑い声が聞こえると、拓也は買い物袋を床へ置いた。
「誰か来てるのか?」
「お義父さんの女よ。今日からここに住むって」
「は?」
「私が止めても聞かないの。あなたから言って」
「父さん!」
拓也が階段を上がると、玲子は修一の部屋で缶入りのカクテルを飲んでいた。机にはスーパーで買った刺身とチーズが並び、しょうゆの小皿にはわさびが多く溶かされていた。家計が苦しいと言いながら、修一は自分たちの分だけ少し高い総菜を買っていた。玲子は拓也を見ると、赤い爪で缶を持ったまま軽く頭を下げた。
「息子さんね。初めまして、玲子です」
「父さん、この人を帰してくれ」
「玲子は行くところがないんだ。しばらく置いてやる」
「ここは俺の家だ。父さんにも出ていってほしいと言ったばかりだろう」
「頭金を出したのは俺だ。お前に指図される筋合いはない」
「ローンを払っているのは俺だ。それに、母さんへ一千万円を返さなきゃならない」
修一は刺身を一切れ取り、わさびじょうゆをつけすぎて顔をしかめた。玲子はそんな修一の背中を笑いながらさすり、冷蔵庫から持ってきた水を渡した。拓也は、二人が自宅のようにくつろぐ姿を前にしても、力ずくで追い出すことはできなかった。
「父さんがこの人に使った金も、返してもらいたいくらいだ」
「俺の金をどう使おうと勝手だ」
「だったら、この人の生活費も父さんが全部払え。俺は出さない」
「細かい男だな。食事が一人分増えるくらい、大した金じゃない」
「父さんの月三万円では、自分の分さえ足りないんだよ」
「お金のことでそんなに揉めるなら、私は外食でいいわ」
玲子は簡単に言い、刺身の最後の一切れを箸で取った。外食代を誰が払うのかは口にせず、空になった容器も机へ置いたままだった。修一も容器を片づけず、拓也に缶を捨てておけと言った。
翌朝、玲子は八時を過ぎても起きてこなかった。沙織が台所でトーストを焼いていると、修一が二階から下りてきて、玲子の分もコーヒーを用意しろと言った。流し台には昨夜のカレー鍋と、修一たちが使った刺身の小皿が重なり、魚と酒が混ざった匂いが残っていた。
「どうして私が、その人の朝食を作るんですか?」
「同じ家で暮らすんだから、それくらいしろ」
「私は家政婦じゃありません」
「美紀には毎日させていただろう」
「お義母さんは、自分からやっていたんです」
「お前も自分からやればいい。玲子はコーヒーに砂糖を二つ入れるから、間違えるなよ」
沙織はトースターの扉を強く閉めた。パンの端が網に引っかかり、焦げた匂いが立ち上ったが、修一は玲子のための白いカップを探して食器棚を開けていた。その食器棚も美紀が代金を払ったものだった。
玲子が起きてきたのは午前九時半だった。薄い桃色のガウンを羽織り、髪を大きなクリップで留めたまま、焼き直して硬くなったトーストを一口かじった。コーヒーがぬるいと言って残し、冷蔵庫に果物はないのかと尋ねた。
「朝はヨーグルトと果物を食べるようにしているの」
「自分で買ってきてください」
「修一さん、この家のお嫁さん、少し言い方がきつくない?」
「沙織、客にはもっと愛想よくしろ」
「いつまで客のつもりなんですか? 大きな荷物まで持ち込んでいるじゃないですか」
「細かいことを言うと、家の空気が悪くなるわよ」
玲子はトーストを半分残し、皿を流し台へ運ぶこともなく二階へ戻った。ガウンの裾から甘い香水と整髪料の匂いが残り、沙織は手つかずのパンを見つめた。美紀が残り物を捨てず、自分の昼食にしていたことなど思い出しもしないまま、沙織は硬くなったトーストを生ごみへ押し込んだ。
昼になると、洗面所には玲子の化粧品と整髪剤が並び、浴室には紫色のタオルが何枚もかけられていた。洗濯かごには玲子の下着やワンピースまで入れられていたが、本人はソファに座って旅行雑誌を読んでいた。修一が洗濯をするはずもなく、結局、沙織が自分たちの衣類と一緒に洗濯機へ入れることになった。
「玲子さん、自分の洗濯物くらい、自分でやってください」
「洗濯機の使い方が分からないの。この家のものは新しいでしょう?」
「ボタンを押すだけです」
「縮んだら困る服もあるのよ。家にいる人がやったほうが早いでしょう」
「私も仕事があります」
「今日はお休みなのよね? それなら時間があるじゃない」
玲子はページをめくりながら答え、テーブルに置いた空の紅茶カップへも目を向けなかった。沙織は洗濯物を握ったまま、かつて美紀に「外の仕事なんて家事を放り出すほど大切なんですか」と言った自分の声を思い出した。あのとき美紀がどんな顔をしていたかは覚えていなかったが、自分の手にある他人の湿った衣類の重さだけは、はっきり分かった。
三日が過ぎても、玲子は生活費を一円も入れなかった。冷蔵庫の牛乳を勝手に飲み、沙織の化粧水を使い、暖房をつけたまま近所へ買い物に出かけた。戻ってくると紙袋は増えていたが、食料や洗剤を買ってくることはなかった。
「玲子さん、今月の食費を入れてください」
「修一さんから聞いていないわ」
「一緒に住むなら、負担するのが普通でしょう」
「私は修一さんに招かれたの。お金の話は修一さんとして」
「その修一さんには、お金がないんです」
「それなら、息子さんが家の持ち主なんでしょう? 家族を養うのは普通じゃないの?」
玲子はそう言って、新しく買った赤いマグカップへ紅茶を注いだ。戸棚にあった美紀の茶葉を惜しげもなく使い、濃すぎたからと半分を流しへ捨てた。湯気と一緒に甘い桃の香りが広がったが、沙織には下水口から上がる生ぬるい匂いのほうが強く感じられた。
美紀を追い出したとき、沙織は一人分の家事が減り、夫婦だけの気楽な暮らしが始まると思っていた。ところが実際には、働かず、金を入れず、片づけもしない住人が一人増えた。しかも玲子は美紀と違い、言葉を飲み込むことも、家族のために自分の食事を後回しにすることもなかった。
その夜、沙織は一階の和室へ入り、積み上げた洋服の箱を見回した。美紀が住むはずだった部屋を自分の物で塞ぎながら、追い出すことに何のためらいも持たなかった場所だった。二階から玲子の笑い声と修一の声が聞こえ、廊下には二人が注文したすしの空き桶が置かれていた。
「他人とは暮らせませんので」
沙織は、誰もいない和室で自分が美紀に言った言葉を口にした。あのときは便利だった言葉が、今では自分の首を締める理屈になっていた。襖の向こうから修一が玲子のために風呂を沸かせと叫んだが、沙織は返事をせず、畳の上に座り込んだ。
しかし返事をしなくても、浴槽は空のままで、夕食の皿も洗われなかった。玲子が自分から動く様子はなく、修一もすべて沙織がするものだと思っていた。美紀という家計の柱を追い出した家には、金を使い、家事を押しつけ、権利だけを主張する新しい住人が加わっていた。




