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第25話 この家は俺のものだ

第25話 この家は俺のものだ


月末の日曜日、拓也はダイニングテーブルに電卓と請求書を並べた。紺色のジャージの膝には白い糸くずがつき、何度計算しても住宅ローンの返済額と生活費の合計は給料を上回った。消費者金融への返済も始まり、給料日まで使える金は一万二千円しか残っていなかった。台所には昨夜の鍋が置かれ、薄いカレーの膜から古い油の匂いが漂っていた。


「食費を三万円まで下げても足りないな」


「三万円で三人分なんて無理よ。お米だけでも高いのに」


「父さんは昼も夜も家で食べる。酒も俺たちの生活費から買ってるだろう」


「私に言われても困るわ。あなたから話してよ」


沙織はベージュの部屋着の上に厚いカーディガンを羽織り、冷蔵庫から最後のヨーグルトを取り出した。以前は棚に何種類ものデザートが並んでいたが、今では卵が三個と、しなびた長ねぎが一本残っているだけだった。それでも沙織は安い食材ばかりの献立には耐えられないと言い、前日に宅配で注文した海鮮丼の容器を流し台へ積んだままにしていた。


「電気代も先月より上がってる」


「お義父さんが一日中、自分の部屋で暖房をつけているからでしょう」


「父さんの分だけで、食費と光熱費が月に何万円もかかってる。三万二千円の給料を全部入れてもらっても足りない」


「全部は入れないって言うわよ。自分で稼いだお金だって」


拓也は電卓を置き、二階から聞こえるテレビの音を見上げた。修一は朝の品出しを終えると、昼前から缶ビールを飲み、暖房を強くした部屋で競馬中継を見ていた。洗濯も料理も掃除もしないまま、食事の時間になると階段を下りてくる。美紀がいたころと同じ暮らしを続けながら、家計へ渡す金は一度も増えなかった。


昼を過ぎても、修一はダイニングへ来なかった。拓也が二階の部屋をのぞくと、窓を閉め切った室内には酒と汗の匂いがこもっていた。灰色の靴下がベッドの脇に脱ぎ捨てられ、机の上には空になったビール缶と、半分だけ食べた柿の種が散らばっている。修一は赤いセーターに黒い腹巻きを重ね、布団へ足を入れたままテレビを見ていた。


「父さん、話がある」


「あとにしろ。今、いいところなんだ」


「家の金の話だ。今日中に決めないと困る」


「金なら美紀に言え。あいつが意地を張っているせいで、こうなっているんだ」


「母さんは関係ない。俺たちの家計の話だ」


修一は舌打ちし、音量を一つ下げた。テレビの画面では馬が泥を跳ね上げながら走り、修一の手元には赤いペンで印をつけた競馬新聞が広がっていた。貯金がないと言いながら馬券を買う金はあるのかと、拓也は机の端に置かれた投票券を見た。


「父さんには、この家を出てほしい」


修一はしばらく動かなかった。テレビから流れる実況だけが部屋を満たし、やがて外れた馬券を指で二つに折った。拓也は言葉を引っ込めれば、来月も同じ請求書を前に座ることになると考え、父親の正面に立った。


「何を馬鹿なことを言ってる。ここは俺の家だぞ」


「この家は俺の名義だ。住宅ローンも俺が組んでる」


「頭金には、俺が古い家を売った金が入っている。金を出した俺には、ここに住む権利がある」


「父さんの名前は登記に入ってない。持ち分もない。金を出したからって、所有者になるわけじゃないんだ」


修一は腹巻きから出たセーターの裾を直し、ベッドから立ち上がった。拓也より少し低い位置にある顔を近づけ、鼻から強く息を吐いた。朝から飲んだ酒の匂いがしたが、修一は自分の体を大きく見せるように胸を張った。


「俺が古い家を売らなかったら、お前はこの家を買えなかったんだぞ」


「母さんの一千万円がなければ、もっと買えなかった」


「美紀の金は夫婦の金だ。つまり半分は俺のものだ」


「母さん個人の預金から出した金だ。それに、条件を破ったから返還を求められてる」


「そんな紙切れは知らん。親子の間で金を返せなんて、世間が許すものか」


「母さんを他人だと言って追い出したのに、金の話だけ親子で済ませられると思うのか?」


修一の眉間に深いしわが寄った。拓也は父親が拳を握るのを見たが、視線をそらさなかった。廊下では古い洗濯機が脱水を始め、片側へ寄った衣類が内側で鈍い音を立てていた。美紀なら一度止めて中身を均等にしたはずだが、今では機械が揺れても誰も確かめに行かなかった。


「俺を追い出して、どこへ行けと言うんだ」


「年金があるなら、自分でアパートを借りられるだろう」


「保証人はどうする。敷金や礼金は誰が払うんだ」


「母さんには、自分で何とかできると言ったよな。父さんも自分で何とかしてくれ」


「俺と美紀を一緒にするな。あいつは会社から大金をもらっている」


「だったら、その母さんを選べばよかったんだ。この家を選んだのは父さんだろう」


修一は返事をせず、競馬新聞を丸めてごみ箱へ投げた。新聞は縁に当たり、柿の種の袋が落ちて床へ散らばった。修一はそれを拾わず、暖房の温度を二度上げてから拓也を部屋の外へ押し出した。


「俺は出ていかない。この家は俺の金で買った家だ。文句があるなら、お前たちが出ていけ」


「ローンを払っているのは俺だぞ」


「勝手に払えばいい。名義人なら、それくらい責任を持て」


扉が閉まり、内側から鍵をかける音がした。拓也は廊下に立ったまま、自分名義の家で父親に追い出されるように部屋を離れた。階段の手すりには洗濯した修一の作業着がかけられ、水が十分に切れていない袖から床へ雫が落ちていた。


一階へ戻ると、沙織はヨーグルトの空き容器を前に置き、スマートフォンを見ていた。拓也の顔を見ただけで話の結果が分かったらしく、画面を伏せて小さく息を吐いた。テーブルの上には家具店から届いた分割払いの請求書があり、その隣には通販で買ったまま使っていない金色の花瓶が置かれていた。


「出ていかないって?」


「この家は自分のものだってさ」


「でも、お義父さんの家じゃないでしょう?」


「それを説明しても、金を出した人間には住む権利があるって言い張るんだ」


「だったら、お義母さんにも住む権利があったことになるじゃない」


沙織は口にしてから、自分の言葉に気づいたように視線を落とした。修一より多い一千万円を出した美紀を、沙織は他人だから住ませないと言った。その一方で、金を出したと主張する修一には何も言えず、食費も光熱費も払い続けている。


「あなたから、もっと強く言ってよ」


「君も言ってくれ。ここは俺たち夫婦の家なんだから」


「私が言ったら、お金のない人は出ていけって言ってるみたいじゃない」


「実際、父さんに金があると思っていたから、母さんを追い出したんだろう?」


「そんな言い方しないで。お義父さんが、この家を支えるって言ったのよ」


「君はそれを信じた。俺も信じた。だから今さら言いにくいんだ」


沙織は金色の花瓶を両手で持ち、置き場所を変えるふりをした。新居へ引っ越した日、修一が親戚の前で「俺が息子に家を買ってやった」と話すのを聞き、沙織は何度もうなずいていた。美紀の一千万円を知らなかったわけではないが、修一のほうを立てれば、その後も金を出してもらえると考えていた。


「お義母さんを追い出したのは、同居が嫌だったからよ。お金とは別でしょう」


「父さんとの同居は嫌じゃないのか?」


「最初は、お義父さんが生活費を入れてくれると思っていたもの」


「結局、金だったんじゃないか」


「あなたも同じでしょう。十五万円が入るから、この家を買ったんじゃない」


拓也は言い返せず、冷めた麦茶を飲んだ。コップの底には洗い残した白い汚れがあり、口をつけるとわずかに洗剤の味がした。自分たち夫婦は、美紀の援助を受けることを当然と考え、修一の見栄を財力だと思い込み、その金額に合わせて家と家具を選んだ。誰かにだまされたというより、都合のよい話だけを信じたのだった。


その夜、三人は値引きされたコロッケと千切りキャベツを食べた。修一はコロッケが冷たいと文句を言い、沙織は電子レンジで温めればよいと答えた。拓也はソースの瓶を振りながら、父親へ一か月以内に退去してほしいと改めて伝えた。


「何度言われても出ていかん。この家には俺の部屋がある」


「家計がもたないんだ。少なくとも、食費と光熱費を入れてくれ」


「家を買うときに出した金を、月割りにして考えろ。俺は何年分も先に払っている」


「残りを女に使った人が言うことか?」


「俺の金を誰に使おうと、俺の自由だ」


「この家の金も、好きに使っていいと思っているの?」


沙織が尋ねると、修一は箸を止め、千切りキャベツを口へ入れた。マヨネーズをつけすぎた葉が唇に残ったが、修一は舌でなめ取っただけだった。食卓に置かれたティッシュ箱は空になっており、買い足す金も手間も、誰かが出すものだと思っている態度は変わらなかった。


「俺が金を出した家なんだから、俺がどう使おうと自由だ」


「どう使うって、何をするつもりなの?」


「客を呼ぶこともある。いちいちお前たちの許可を取る必要はない」


「誰を呼ぶんだよ」


「俺の知り合いだ。お前たちには関係ない」


修一は食べ終えた皿をテーブルに残し、二階へ上がった。階段を踏む音が消えると、沙織は箸を置き、拓也の顔を見た。二人とも、修一が言う「知り合い」が誰なのか、すでに見当がついていた。


翌朝、玄関の靴箱の上に見慣れない鍵が置かれていた。赤い革のキーホルダーには、甘い香水の匂いが染みついていた。拓也が手に取ると、それは新居の合鍵であり、修一の使っているものとは別の一本だった。


「これ、誰の鍵?」


沙織が青いパジャマの襟を押さえながら、階段の上にいる修一へ尋ねた。修一は新しいシャツを着ており、白髪を水で丁寧になでつけていた。いつもは履かない革靴まで玄関にそろえられ、その横には女性用の室内履きが一足置かれていた。


「今日から、俺の客が来る」


「客に合鍵を渡したの?」


「しばらく泊まるかもしれない。空いている部屋があるんだから問題ないだろう」


「空いている部屋なんてないわよ」


「一階の和室がある。荷物を片づけておけ」


修一はそう言うと、鏡の前でシャツの襟を直した。美紀のために用意されるはずだった和室を沙織が物置に変え、今度は修一が別の女の部屋として使おうとしていた。拓也は赤いキーホルダーを握りしめたが、修一は取り返すように手を伸ばし、玄関の外から近づいてくる高い靴音へ顔を向けた。



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