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第24話 家計の柱という真実

第24話 家計の柱という真実


拓也は、古い家から運び込まれた段ボールを一階の和室から引っ張り出した。箱の側面には美紀の丸い字で「家計簿・税金関係」と書かれており、薄く積もった埃が拓也の黒いスウェットパンツに付いた。沙織の冬物のコートを押しのけて蓋を開けると、輪ゴムでまとめられた通帳や領収書、角の擦れた家計簿が何冊も入っていた。拓也は畳の上に座り、母親が毎晩、台所の隅で小さな電卓をたたいていた姿を思い出した。


「こんな古いものまで調べるの?」


「今まで誰が何を払っていたのか、確かめるんだ」


「お義母さんが好きで家計簿をつけていただけでしょう。細かい人だったもの」


「細かく記録してくれていたから、今でも確かめられるんだよ」


沙織は白いニットの袖を指先まで引っ張り、畳に並べられた書類をまたいで窓を開けた。冷たい風と一緒に近所で焼いている魚の匂いが入り、カーテンの裾が段ボールの角に引っかかった。拓也は鼻の奥に残るアジの開きの匂いを感じながら、十二年前の日付が書かれた家計簿を開いた。


食費、電気代、ガス代、水道代、固定資産税、火災保険料、給湯器の修理代まで、支払者の欄には美紀の名前が並んでいた。修一が会社を退職したあとは、修一の携帯電話料金や生命保険料も美紀の口座から引き落とされていた。拓也が就職してからも家へ生活費をほとんど入れなかった時期があり、その穴まで母親の役員報酬で埋められていた。家計簿の余白には、米を安く買えた店や、洗剤の特売日まで青いボールペンで書き込まれていた。


「俺が会社を休んでいた年、母さんが俺の国民年金まで払ってる」


「そのころは収入が少なかったんでしょう? 親なら助けるわよ」


「結婚式の不足分も、車の頭金も母さんだ。父さんが出したって聞いてた」


「夫婦のお金なら、どちらが払っても同じじゃない」


「同じなら、どうして父さんは全部自分が払ったような顔をしていたんだ?」


沙織は答えず、窓際に置いてあった化粧品の箱を拾い上げた。新居へ来てから買った香水の瓶が中で転がり、甘い花の匂いが和室に広がった。拓也はその匂いをかぎながら、母親が使っていたのはいつも薬局で売られている無香料の化粧水だったことを思い出した。家族の支払いを優先するため、美紀が新しい口紅を買うのは年に一度ほどだった。


拓也は別の通帳を開き、給与が振り込まれた日から支払いの流れを追った。毎月、まとまった役員報酬が入ると、住宅費や保険料が引き落とされ、そのあと修一名義の口座へ生活費が送られていた。美紀の通帳に残る金額は、家族が思っていたよりずっと少なかった。それでも美紀は三十五年間働きながら少しずつ貯金し、老後資金として用意した金から一千万円を新居の頭金に出していた。


「この一千万円がなかったら、頭金は足りなかった」


「お義父さんが古い家を売ったお金もあったじゃない」


「それだけじゃ足りない。家具や家電の支払いも含めたら、母さんの金がなければ、この家は買えていない」


「でも、もう出してもらったお金でしょう?」


「条件付きだ。母さんの部屋を用意しないなら返さなきゃならない。弁護士からも通知が来てる」


沙織は白いニットの胸元を押さえ、和室を見回した。壁際には高級ブランドの紙袋、着なくなったワンピース、通販で買ったまま開封していない美容器具が積まれていた。この部屋に美紀の布団を敷く場所がなかったのではなく、沙織が自分の物を片づけようとしなかっただけだった。拓也は、母親の居場所より自分たちの荷物を優先した結果、一千万円の返還義務まで抱えたのだと、散らかった畳を見ながら口にした。


「俺たちは、母さんから一千万円を受け取って、月十五万円も出させて、家事までさせるつもりだった」


「家族なら助け合うものじゃない」


「母さんには何を返すつもりだったんだ?」


「住む場所を用意する話だったでしょう」


「その場所から追い出したのは、君だ。俺も止めなかった」


沙織は唇を結び、袖口についた糸くずを何度もつまんだ。助け合いという言葉を使いながら、自分が美紀のためにしたことを探しているようだったが、朝食を作ったことも、洗濯を代わったことも、病院へ付き添ったこともなかった。沙織が口にする家族とは、自分が世話と金を受け取るときだけ使う言葉になっていた。


拓也はノートパソコンを和室へ持ち込み、美紀の勤務先のウェブサイトを開いた。会社案内の役員紹介には、濃紺のスーツを着た美紀の写真と、取締役事業統括本部長という肩書が掲載されていた。その下には、赤字事業の再建、新規取引先の開拓、人材育成に長く携わってきた経歴が書かれている。家庭で灰色のエプロンを着ていた母親とは違い、写真の美紀は背筋を伸ばし、落ち着いた目で正面を見ていた。


「これが母さんの仕事だ」


「肩書だけ立派でも、実際に何をしているか分からないじゃない」


「会社の売上の三割を扱う事業部をまとめてる。社員も百人以上いる」


「そんな話、聞いたことないわ」


「君が聞かなかったんだ。母さんが会議で遅くなった夜も、パートみたいなものだって笑っただろう」


沙織の顔から、いつもの薄い笑みが消えた。拓也も画面を見たまま、母親の仕事内容を正しく知らなかった自分に気づいた。役員であることは知っていたが、朝食や弁当が時間どおりに出てくることのほうを重く考え、会社で何を任されているのか尋ねたことはなかった。


その日の午後、拓也は会社の代表番号へ電話をかけた。家族として美紀へ取り次いでもらおうとしたが、受付の女性は落ち着いた声で用件を尋ねた。拓也が金のことだとは言えず口ごもっていると、保留の音が短く流れたあと、美紀の秘書を名乗る女性に代わった。


「取締役は、ただいま取引先との会議中です。緊急のご用件でしょうか」


「息子の拓也です。母に、少し話したいと伝えてください」


「どのようなご用件か、お伺いしてもよろしいでしょうか」


「家のことです。家族が困っていると伝えてもらえれば分かります」


「私的なご連絡については、ご本人の携帯電話へお願いいたします。なお、取締役からは、金銭に関するご連絡は代理人を通すよう申しつかっております」


電話は丁寧に切られたが、拓也はしばらく受話器を耳に当てたままだった。テーブルには昼に食べたカップ麺の容器が置かれ、スープの表面には白い脂が固まっていた。母親なら食べ終わった器をすぐ片づけ、午後の仕事へ戻る前に夕食の下ごしらえまで済ませていた。だが会社では、その母親の予定を秘書が管理し、取引先が面会を待つほど重要な仕事を任されていた。


夕方、修一が帰宅すると、拓也は家計簿と通帳をダイニングテーブルに並べた。修一は紺色の作業着を脱ぎ、白い肌着姿で冷蔵庫を開けたが、作り置きの料理がないと分かると麦茶だけを取り出した。コップへ注ぐ途中で少しこぼしても、布巾を取ろうとはしなかった。


「父さん、この家の前の家計、ほとんど母さんが払っていたんだな」


「夫婦なんだから、誰の口座から出ても同じだと言っただろう」


「だったら、母さんの仕事を女の小遣いだなんて言うなよ」


「美紀が出世できたのは、俺が家庭を守ってやったからだ」


「朝四時半に起きて家事をしていたのも母さんだ。父さんは味噌汁が出てくるのを待っていただけじゃないか」


修一は麦茶を一気に飲み、コップを音を立てて置いた。テーブルにこぼれた水が家計簿へ近づいたため、拓也は慌てて冊子を持ち上げた。何年分もの数字が書かれたその帳面は、修一の言葉よりはっきりと、誰が家を守ってきたかを示していた。


「母さんは世間知らずなんかじゃなかった。俺たちが自分で生活できないことを分かっていて、黙って支えてくれていたんだ」


「だったら最後まで責任を持つのが親だろう」


「追い出しておいて、最後まで金だけ出せっていうのか?」


「一千万円も十五万円も、美紀が勝手に決めたことだ」


「一千万円には条件がある。十五万円はまだ一度ももらっていない。父さんたちは、もらえるつもりで使っただけだ」


修一は何も言えなくなり、テーブルの上の携帯電話を裏返した。その画面には、浮気相手から届いた「次の旅行はいつにする?」というメッセージが一瞬だけ表示されていた。拓也はそれを見ても追及せず、目の前の請求書を金額順に並べ直した。住宅ローン、消費者金融、家具と家電の分割払い、それに美紀から請求された一千万円が加われば、修一の月三万円では利息の一部にもならなかった。


夜になっても、三人の夕食は用意されなかった。沙織が冷凍庫から出した三個入りの餃子を焼いたが、油を入れすぎて皮が黒く焦げ、換気扇を回しても煙の匂いがリビングに残った。修一は一つしかない餃子を見て文句を言い、沙織は自分で作ればよいと皿を押し返した。拓也は冷めた白飯をかき込みながら、母親がいたころには考えもしなかった食費の残額を頭の中で計算した。


美紀が家を出てから止まったものは、十五万円の振込だけではなかった。温かい食事も、洗濯された服も、期限どおりの支払いも、家族同士が正面から争わずに済む暮らしも、美紀が一人で支えていた。拓也はようやくその事実へたどり着いたが、玄関に母親の靴はなく、一階の和室にも母親の荷物はなかった。


拓也は食後、家計簿を元の段ボールへ戻さず、自分の机の上に置いた。表紙についた油の染みを乾いた布で拭き、最後のページまで丁寧に読み直すことにした。そこに書かれた数字をいくら調べても、これから美紀が家事をし、金を払い、家族の言葉を黙って受け入れる予定は見つからなかった。


「母さんは、もう俺たちの財布じゃないんだな」


拓也が小さく言っても、修一も沙織も答えなかった。台所では焦げた餃子のフライパンが水につけられ、白い脂が水面に浮いていた。誰かが片づけるのを待っていた三人は、その誰かがもう戻ってこないことだけを、ようやく同じ食卓で理解し始めていた。



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