第23話 月三万円の大黒柱
第23話 月三万円の大黒柱
修一がスーパーへ出勤する朝、拓也は珍しく午前五時半に目を覚ました。二階の廊下には、洗濯かごからこぼれた靴下と灰色の作業着が置かれ、階段の下からは焦げたパンの匂いが漂っていた。修一は紺色の作業着の下に毛玉のついたトレーナーを着込み、台所でインスタントコーヒーをすすっていたが、流し台には昨夜のカレー皿が重なったままだった。拓也は父親の背中を見ながら、給与明細に書かれていた三万二千円という数字を思い出し、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。
「父さん、今日は何時まで働くんだ?」
「九時までだ。朝の品出しは俺がいないと回らないからな」
修一はそう言って胸を張ったが、出勤するのは週に三日で、一回の勤務時間は三時間ほどだった。短時間でも働いていること自体は、誰かに責められるようなことではない。それでも修一は、自分の収入だけで家族を養えるような言い方をし、美紀が会社から受け取る役員報酬を何年も軽く扱ってきた。
「母さんの仕事なんて、少し立派なパートみたいなものだって、沙織も言ってたよな」
「実際、女の稼ぎなんて小遣いみたいなものだ。家は男が守るものなんだよ」
「月三万二千円で、この家を守れるのか?」
修一の手が止まり、コーヒーの粉が入った瓶の蓋が床へ落ちた。乾いた音が台所に響いたが、修一は拾おうとせず、曲がった襟を乱暴に直した。拓也は自分で蓋を拾い、テーブルの上に置かれたスーパーの値引きシール付きのあんパンを見た。以前なら、美紀が焼いた鮭と卵焼き、温かい味噌汁が並んでいた時間だった。
「給料だけじゃない。俺には年金がある」
「その年金、家に入れたことがあるのか?」
「夫婦の金は一緒だ。美紀の口座から生活費が出ていたなら、それで足りていただろう」
「母さんの金を使わせて、自分の年金はホテルと宝石に使っていたんじゃないか」
修一は返事をせず、あんパンを作業着のポケットへ押し込んだ。透明な袋が潰れ、中の砂糖が作業着に白く付いたが、修一は気づいていなかった。拓也は、父親が家計を守っていたのではなく、美紀の口座を家の財布として使い、自分の金だけを好きに扱っていたのだと理解した。
修一が出勤したあと、拓也はダイニングテーブルにノートパソコンと通帳、請求書を広げた。沙織は薄い桃色の部屋着のまま起きてきて、冷蔵庫から昨日買ったプリンを取り出した。髪には寝癖がつき、甘い香油の匂いがしたが、テーブルの上の督促状を見ると、プリンの蓋を開ける手が止まった。
「朝からまたお金の話?」
「父さんの給料、月三万二千円だった」
「でも、年金と貯金があるんでしょう?」
「年金は女に使ってる。貯金もほとんど残ってない」
「そんなはずないわよ。お義父さん、この家の頭金を出したって親戚の人にも言ってたじゃない」
沙織は口を尖らせ、銀色の小さなスプーンでプリンの表面を何度も突いた。拓也は古い家の売買契約書と、新居を購入したときの入金記録を見比べた。確かに修一は売却代金の一部を頭金に入れていたが、それは働いて築いた財産ではなく、祖父母から相続した家を売って得た金だった。その残りまで浮気相手に使われたとなれば、修一が新居の購入後も家計を支えられるという根拠は、初めからどこにもなかった。
「父さんの金で足りない分は、母さんの一千万円で埋めてる。それに母さんは、毎月十五万円を振り込む予定だった」
「家族なんだから、それくらい出すのは普通でしょう?」
「その家族を、君は他人だと言って追い出したんだ」
「だって、一緒に住むのと援助するのは別の話じゃない。お金を渡したからって、ずっと居座られたら困るもの」
沙織はそう言ったあと、半分残ったプリンを冷蔵庫へ戻した。拓也は言い返そうとしたが、あの日、自分も美紀の荷物を家へ入れなかったことを思い出し、唇を閉じた。母親が一千万円を出し、毎月十五万円を援助し、家事まで引き受けることを当然だと思いながら、和室の一部すら渡そうとしなかったのは沙織だけではなかった。
拓也は家計簿を作るため、古いメールと銀行の履歴を調べ始めた。固定資産税、電気代、ガス代、水道代、四人分の食費、修一の携帯電話料金、家族の保険料まで、美紀の口座から引き落とされていた。拓也が収入を減らした時期には、車検代や勤務先までの定期券代も美紀が負担していた。運動会の日に買ってもらった赤い自転車も、成人式に着た紺色のスーツも、結婚式の費用の不足分も、父が用意したのだと信じていたが、振込人の名前はすべて美紀だった。
「これも母さんが払っていたのか……」
「何を一人でぶつぶつ言ってるの?」
「俺たちの生活費だよ。父さんが払っていたと思っていたものまで、ほとんど母さんの口座から出てる」
「でも、お義母さんは役員なんでしょう。収入が多い人が払うのは当然じゃない」
「当然なら、どうして俺たちは一度も母さんに金額を聞かなかったんだ?」
拓也の声が大きくなると、窓辺に置かれた観葉植物の葉が、暖房の風で小さく揺れた。値札を外していない鉢カバーも、沙織が新居の見栄えに必要だと言ってカードで買ったものだった。母親の援助が止まった今、その支払いさえ翌月の請求に含まれる。
午前九時半を過ぎると、修一が仕事から戻ってきた。作業着には段ボールの細かな粉がつき、ポケットから潰れたあんパンが半分のぞいていた。修一は玄関で靴を脱ぎ散らかし、冷蔵庫を開けたが、朝食になるものが見つからず舌打ちした。拓也は給与明細と通帳を並べたまま、父親をダイニングへ呼んだ。
「父さん、きちんと話をしてくれ。毎月、家にいくら入れられる?」
「朝から働いて帰った人間に、まず飯を出すのが先だろう」
「母さんがいたときは、父さんが出してもらう側だった。今は母さんはいない」
「俺はこの家に、古い家を売った金を入れたんだ。それで十分だ」
「その家は祖父さんたちから相続したものだろう。売った残りの金まで、ほかの女に使ったじゃないか」
修一は椅子を引くと、音を立てて腰を下ろした。テーブルの端にあった冷めた麦茶を飲み、口元を作業着の袖で拭いた。拓也が住宅ローンの督促状を差し出しても、修一は封筒を裏返し、宛名が自分ではないことを確かめるように眺めただけだった。
「ローンの名義はお前だ。自分の家なんだから、自分で払え」
「父さんは、俺がこの家を支えるって言ったよな」
「そんなものは言葉のあやだ。美紀が意地を張らずに戻れば、全部元どおりになる」
「戻る部屋をなくしたのは、父さんたちだろう。それに、母さんの一千万円は条件付きだった。住まわせないなら返さなきゃならない」
修一の頬がわずかに動いた。拓也は弁護士から届いた内容証明を開き、一階の和室を美紀の居室として提供すること、約束を守らない場合は一千万円の返還を求めることが書かれた合意書の写しを示した。そこには拓也と修一が押した印鑑があり、読んでいなかったという言い訳では消せない形で約束が残っていた。
「こんな紙、家族の間では意味がない」
「家族だから払えと言っておいて、母さんを他人として追い出したんだ。どっちなんだよ」
「俺に偉そうな口を利くな。俺はお前の父親だぞ」
「父親なら、三万円でどうやってこの家を支えるつもりだったのか教えてくれ」
修一は答えず、合意書をテーブルへ投げた。紙の端が麦茶の雫に触れ、茶色くにじんだが、署名と押印ははっきり読めた。沙織は少し離れた場所で腕を組み、和室へ続く扉を見ていた。そこには彼女の季節外れの洋服と未開封の段ボールが積まれ、美紀の布団一枚を置く場所さえ残されていなかった。
拓也は、父親を大黒柱だと思っていた自分の記憶を一つずつ確かめた。家族旅行の代金を払ったのも、学費を用意したのも、毎朝弁当を作りながら会社へ通い続けたのも美紀だった。修一は食卓の上座に座り、金を出したような顔で受け取るだけだった。それを見抜けなかったのではなく、見ようとしなかったのだと、拓也は汚れた合意書を布巾で拭きながら口にした。
「この家の大黒柱は、父さんじゃなかった。ずっと母さんだったんだ」
「今さら何を言ってる。美紀は俺の妻なんだから、働いた金も俺の家の金だ」
「その母さんは、もうこの家にはいない。それでも来月のローンは待ってくれないぞ」
壁の時計が十時を告げ、誰も止めなかった洗濯機の中から湿った衣類の匂いが漂ってきた。修一は顔を背け、沙織は和室の扉を閉めたが、テーブルの上から督促状も返還請求書も消えなかった。拓也は月三万二千円の給与明細を封筒へ戻し、次に確かめるべきものとして、美紀が長年支払ってきた家計の記録をすべて集め始めた。




