第22話 父の給与明細
第22話 父の給与明細
一千万円の返還を求める内容証明が届いた翌朝、拓也はほとんど眠れないまま午前五時を迎えた。白い食卓には、住宅ローンの督促状、電気料金の請求書、家具の分割払い明細、美紀の代理人から届いた書類が重なっている。金色の縁がついたカップには昨夜のコーヒーが残り、表面へ薄い膜が張っていた。
拓也は灰色のスウェット姿で椅子へ座り、合意書の写しを何度も読んだ。新居の一階和室を美紀の居室として提供すること、正当な理由なく入居を拒絶した場合には一千万円を返還することが書かれている。最後のページには、拓也の署名と印鑑がはっきり残っていた。
「こんな書類、読んだ覚えがない」
拓也が言うと、向かいに座った沙織は白いフリースの袖を引き下ろした。髪は一晩中結んでいたため、毛先が絡み、香油と煙草の匂いが混じっている。
「覚えていなくても、署名しているんでしょう?」
「住宅会社で何十枚も書かされたんだよ。母さんが用意した書類も、その中に入っていたんだと思う」
「一千万円を返せるんですか?」
「返せるわけないだろ。頭金でもう使っているんだから」
「では、お義母さんを和室に住ませればいいでしょう」
「昨日まで他人とは暮らせないって言っていたじゃないか」
「一千万円を返すよりは、少しくらい我慢できます」
沙織はあっさりと答えた。和室には服やバッグ、通販の段ボール箱が天井近くまで積まれている。美紀が追い出された日から一度も整理されず、床には値札のついた白いコートが落ちていた。
「母さんは、もう戻らないって言っている」
「まだ本気で謝っていないからです。拓也くんから、和室を空けると言ってください」
「母さんに電話しても出ないんだよ」
「会社へ行けば会えるでしょう?」
「取締役をしている母さんの会社へ、金の話をしに行けっていうのか?」
「一千万円を返すよりはいいじゃないですか」
沙織は冷めたコーヒーを流し台へ捨てた。黒い液体が洗っていない皿の上へ流れ、油と混じって排水口へ落ちる。冷蔵庫には朝食になる物がなく、二人は昨日の残りのクラッカーを数枚ずつ食べた。
午前六時になると、修一は紺色の作業着を着て二階から降りてきた。襟には白い糸くずがつき、ズボンの膝は長年の使用で薄くなっている。修一は食卓の書類を見ても足を止めず、冷蔵庫から缶入りのコーヒーを取り出した。
「父さん、美紀の一千万円を返せって通知が来た」
拓也が言うと、修一は缶のプルタブを開けた。甘いコーヒーの匂いが、昨夜から残る生ごみの匂いに混じる。
「放っておけ」
「法律事務所から来ているんだぞ」
「家族の間の話に、弁護士なんか入れて大げさにしているだけだ」
「ここに俺と父さんの署名がある」
「お前が勝手に署名したんだろ」
「父さんも証人のところに印鑑を押しているよ」
「そんなもの、細かく読んでいない」
「読まなかったから無効になるわけじゃないだろ」
修一はコーヒーを飲みながら、合意書を一度だけ見た。自分の印鑑を確認すると、紙を裏返して食卓へ戻した。
「美紀に戻ってこいと言えば済む。和室を空けてやれ」
「お義父さんが二階の部屋を使わなければ、私の服を戻せるんですけど」
沙織が言うと、修一はすぐに顔を上げた。
「どうして俺が部屋を出るんだ」
「もともと二階は、私の衣装部屋と子ども部屋にする予定でした」
「俺は家の売却代金を出した。部屋を使う権利がある」
「お義母さんも一千万円を出したから、和室を使う権利があるんですよね?」
「美紀は出ていったんだから、もう関係ない」
「出ていったのではなく、私たちが入れなかったんです」
拓也が言うと、修一は缶を強く食卓へ置いた。飲み口からコーヒーがこぼれ、督促状の端を濡らす。
「今さら俺を責めるな。沙織さんが同居は嫌だと言ったんだろう」
「父さんも母さんを置いて、この家に残ったじゃないか」
「俺まで出ていったら、お前たちが困ると思ったからだ」
「実際には、何も助けてくれていないだろ。住宅ローンの五万円もまだ返してもらっていない」
「銀行の手続きが遅れていると言ったはずだ」
「本当に定期預金があるんだよね?」
「朝から同じ話をするな。仕事に遅れる」
修一は空になった缶を食卓へ残し、玄関へ向かった。拓也が銀行名を尋ねても答えず、扉を強く閉めて出ていく。門の外へ置かれたごみ袋をまたいだが、収集場所へ運ぼうとはしなかった。
「絶対に何か隠していますよ」
沙織が低い声で言った。拓也は玄関の閉まる音を聞きながら、二階へ続く階段を見上げる。
「父さんの部屋を調べてみる」
「勝手に入ったら怒られるんじゃないですか?」
「一千万円を返せるかどうかの話だぞ。定期預金の通帳だけでも確認する」
「見つけたら、残高も見てください」
二人は二階へ上がった。修一の部屋の扉を開けると、煙草、古い衣類、釣り餌が混じった匂いが流れてくる。布団は敷いたままで、枕元には空のビール缶と、食べかけの柿の種が置かれていた。
机の上には競馬新聞、釣り雑誌、スーパーの広告が重なっている。引き出しを開けると、古い領収書、期限の切れた診察券、輪ゴムでまとめた名刺、使いかけの胃薬が入っていた。拓也は一つずつ机の上へ出し、通帳を探す。
「見てください。これ、ホテルの領収書です」
沙織が、机と壁の隙間から落ちていた紙を拾った。露天風呂つきの客室を二名で利用し、夕食を最上級の会席料理へ変更している。宿泊者名には修一の名前だけが印字されていた。
「二人って、誰と行ったんだ?」
「お義母さんではありませんよね?」
「母さんは、この日も会社へ行っていたはずだ」
拓也は領収書を受け取り、日付を確認した。古い家の売却契約が決まった直後だった。宿泊代は十二万円を超え、飲み物や追加料理を含めると十五万円近く支払っている。
さらに引き出しの奥から、高級レストランの領収書と宝飾店の購入控えが出てきた。宝飾店ではネックレスと指輪を購入し、合計は百万円を超えている。女性用のバッグを買った百貨店の明細もあった。
「お義母さんに買った物ではないですよね」
沙織が尋ねた。拓也は、母親が取っ手のほつれた黒い革の鞄を何年も使い続けていたことを思い出す。修理するため黒い糸を買い、夜遅くに自分で縫っていた。
「母さんは、こんなバッグを持っていなかった」
「では、お義父さんには別の女性がいるんですか?」
「母さんは知っていたのかな」
「知っていたら、もっと早く家を出ているでしょう」
「俺たちの新居が決まるまで、黙っていたのかもしれない」
拓也は宝飾店の明細を握った。紙には、商品を受け取った女性のものらしい署名が残っている。修一の名字とは違う名字だった。
机の下には、茶色い紙袋が置かれていた。中にはスーパーの給与明細が数か月分入っている。拓也は最も新しい一枚を取り出し、支給額と控除額を確かめた。
「三万二千円……」
明細に記載された手取り額は、三万二千円だった。修一は週に数回、早朝の品出しを短時間しているだけである。拓也は父親が十分な収入を得ていると思い込んでいたが、自分の携帯電話料金にさえ届かない金額だった。
「これ、月の給料ですよね?」
沙織が紙をのぞき込んだ。
「そうみたいだ」
「一回分ではないんですか?」
「勤務日数が十二日、支給期間も一か月になっている」
「三万二千円で、どうやって十五万円を出すつもりだったんですか?」
「年金と定期預金があると言っていた」
「定期預金の通帳を探してください」
二人は机の引き出しをすべて開けたが、定期預金の証書も通帳も見つからなかった。押し入れの衣装ケース、釣り道具の箱、古い上着のポケットまで探す。最後に、布団の下から小さな手提げ金庫を見つけた。
「鍵がかかっています」
沙織が金庫を持ち上げた。拓也は机の中から鍵を探し、胃薬の箱の下で小さな銀色の鍵を見つける。差し込むと、簡単に金庫が開いた。
中には普通預金の通帳、印鑑、年金の通知書、女性と撮った写真が入っていた。写真の修一は普段着たことのない白いジャケットを着て、髪をきれいに整えている。隣には、修一より二十歳ほど若く見える女性が立ち、宝飾店の明細に記載された物と似たネックレスをつけていた。
「この人ですね」
沙織が写真を指した。拓也は答えず、普通預金の通帳を開く。最初のページには、古い家の売却代金が入金された記録があった。
売却代金の一部は、予定どおり拓也の新居の頭金として振り込まれている。しかし残った金から、温泉旅館、高級レストラン、百貨店、宝飾店への支払いが次々と引き落とされていた。何度もまとまった現金が下ろされ、残高は急速に減っている。
「家の売却代金、これしか残っていないの?」
拓也は最後のページを開いた。残高は二十万円にも届いていない。そこから修一の携帯電話料金、カード利用料、旅行代金の残りが引き落とされる予定だった。
「定期預金へ移した記録はありますか?」
「ない」
「別の銀行では?」
「それなら、その銀行へ振り込んだ記録があるはずだろ。大きな金を現金で持っていくとは思えない」
「つまり、定期預金なんて最初からなかったんですか?」
拓也は年金の入金記録も確認した。二か月に一度、決まった金額が振り込まれている。しかし入金の直後には、ホテル、レストラン、宝飾店、パチンコ店近くの現金自動預払機からの引き出しが続いていた。
「年金も、ほとんど残っていない」
「お義父さん、この家を支えるって言いましたよね?」
「全部、嘘だったんだ」
拓也は通帳と給与明細を持ち、階下へ降りた。白い食卓へ並べると、住宅ローンの督促状、一千万円の返還通知、修一の三万二千円の給与明細、残高の少ない通帳が一列に並んだ。
沙織は冷蔵庫から水を出し、金色の縁がついたグラスへ注いだ。持つ手が揺れ、水が食卓へ少しこぼれる。督促状が濡れないよう慌てて移動させたが、給与明細の端には透明な染みが残った。
「お義父さんに払ってもらえば大丈夫だと思っていました」
「俺もだよ」
「三万二千円しかないなら、食費にも足りないじゃないですか」
「父さんは年金を家へ入れていなかった。古い家の生活費も、母さんが払っていたんだ」
「でも、お義父さんは自分の家だから、家族を養っているって……」
「家を持っていただけだ。固定資産税も光熱費も、母さんの口座から落ちていた」
「それなら、私たちは誰のお金で暮らしていたんですか?」
拓也は答えなかった。毎朝の食事、弁当、光熱費、保険料、携帯電話料金、新居への一千万円、毎月十五万円の援助。どの支払いの先にも、美紀の名前があった。
午後一時過ぎ、玄関の扉が開いた。修一が午前の勤務を終えて帰宅し、紺色の作業着の上へ茶色いジャンパーを羽織っている。スーパーの揚げ物売り場から移ったらしく、服には油と段ボールの匂いが染みついていた。
「腹が減った。昼飯は何だ?」
修一は靴を脱ぎ、いつものように台所へ向かった。食卓に並べられた通帳と給与明細を見て、足を止める。
「何だ、これは」
「父さんの部屋で見つけた」
拓也は給与明細を持ち上げた。
「手取り三万二千円って、どういうこと?」
「勝手に人の部屋へ入ったのか」
「定期預金を探したんだよ」
「泥棒みたいなことをしやがって」
「定期預金なんて、どこにもないじゃないか」
「別の場所に保管している」
「どこ?」
「お前に教える必要はない」
「この通帳には、家の売却代金が入っている。定期預金へ移した記録はないよ」
「現金で入れたんだ」
「いつ、どこの銀行に?」
「そんな昔のことは覚えていない」
修一は食卓へ手を伸ばし、普通預金の通帳を取ろうとした。拓也は先に押さえ、最後の残高が記載されたページを開く。
「二十万円も残っていないじゃないか。父さん、この金を何に使ったんだよ」
「俺の家を売った金だ。俺が何に使ってもいいだろ」
「これは誰に買ったネックレス?」
拓也は宝飾店の明細と、女性と写った写真を並べた。修一の顔から血の気が引き、すぐに写真へ手を伸ばす。
「それも勝手に見たのか」
「母さんではないよな?」
「お前には関係ない」
「家族の住宅ローンを払うと言いながら、別の女に百万円の宝石を買ったのか?」
「女ではない。知人だ」
「知人と二人で露天風呂つきの部屋へ泊まるの?」
沙織がホテルの領収書を差し出した。修一は答えず、テーブルの紙をまとめて奪おうとした。
「父さん、俺たちを騙していたのか?」
拓也が通帳を握ったまま尋ねた。修一は息子の目を見ず、力任せに通帳を取り上げる。表紙が拓也の指へ擦れ、乾いた音を立てた。
「騙してなんかいない。家の頭金を出してやっただろ」
「この家を支えると言ったじゃないか」
「住ませてやっているんだから、それで十分だ」
「この家は俺の名義だ。父さんに住ませてもらっているわけじゃない」
「俺の金が入っているから買えたんだぞ」
「母さんも一千万円を出した。毎月十五万円も払う予定だった」
「美紀の金は夫婦の金だ。俺が出したのと同じだ」
「では、古い家の売却代金も夫婦の金だったんじゃないのか?」
修一は口を閉じた。自分名義の家を売った金だけは自分のものと言い、美紀が三十五年間働いて貯めた一千万円は夫婦のものだと言う。その違いを説明する言葉は出てこなかった。
「母さんが家を支えていたんだろ」
拓也が言った。
「食費も、光熱費も、保険料も、俺たちの携帯電話も、全部母さんが払っていた。父さんは三万二千円の給料と年金を、自分とその女のために使っていただけじゃないか」
「美紀が勝手に払っていたんだ」
「誰かが払わなければ、生活できなかっただろ」
「俺は家を持っていた。住む場所を与えてやった」
「その家も、もう売ったじゃないか」
「だから、この家の頭金を出してやったんだ!」
修一は通帳と写真、領収書を胸へ抱え、二階へ向かった。給与明細だけが食卓へ残されている。階段を上る途中で拓也が呼び止めても、一度も振り返らなかった。
二階の扉が閉まり、内側から鍵をかける音がした。沙織は三万二千円と記載された給与明細を拾い、何度も数字を確かめる。金額は読み直しても変わらなかった。
「私、お義父さんには何百万円も貯金があると思っていました」
「俺もだよ」
「これから、どうするんですか?」
「分からない」
拓也は椅子へ座り、冷めた朝のクラッカーを一枚口へ入れた。湿気を吸って柔らかくなり、噛んでも音がしなかった。食卓には住宅ローンの督促状と、一千万円の返還通知が残っている。
修一が家を支えていたのではなかった。修一は、家の名義を持っていただけだった。毎日の食事も、支払いも、息子夫婦への援助も、美紀の収入によって続いていた。
それでも二階の部屋で、修一は通帳を布団の下へ隠していた。美紀に養われていたと認めれば、自分が長年誇ってきた「家族を支える父親」という姿が崩れる。だから残高の少ない通帳を胸へ抱え、誰にも見せないよう鍵をかけた。




