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猫と横浜  作者: のらしろ
第二部 結婚するぞ 〜起業編〜

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第73話 カンニングと特許、そして門出




 病院の一階にあるタイル張りの特別研究室ラボのドアを開けると、そこはむせ返るようなアルコールの匂いと、ピリピリとした緊張感に包まれていた。


「……またダメですわ。この溶媒では、三日と持たずにペニシリンの効力が落ちてしまいます」


 ソフィアが、試験管を光に透かしながら疲れた声で呟いた。

 その隣で、ゾフィアとテレサも何やら複雑な化学式を黒板に書き殴っては消し、頭を抱えている。


「ミスター・カネダ……」


 俺の顔を見るなり、三人の女性科学者は申し訳なさそうに肩を落とした。


 ペニシリンの「安定化と保存」の研究。

 俺が彼女たちに丸投げしてから数ヶ月が経つが、これといった成果は上がっていなかったのだ。


 無理もない。俺がPCの百科事典データから引っ張り出した「青カビからペニシリンを抽出する」という大まかな知識だけでは、不安定な水溶液のペニシリンを長期間保存可能な「薬(市販薬)」の形にするのは、この時代の技術では至難の業だった。


 彼女たちは、連日連夜、様々な溶媒を試し、不純物を取り除くための濾過を繰り返し、乾燥させるための工夫を凝らしてきた。

 時々、疲労困憊の彼女たちから報告を受けてはいたが、俺は専門外なので「頑張ってくれ」と励ますことしかできなかった。


「……そろそろ、どうにかしないとマズいな。俺の出番か」


 俺は腕を組み、心の中で決断した。

 限界まで追い詰められた彼女たちを救い、製薬事業を次のステージへと進めるための「カンニング」の封印を解く時が来たのだ。


 俺は院長室に戻り、厳重に鍵をかけた金庫の奥から、ある「極秘資料」を取り出した。

 長野のバザーで買った、あの医療漫画だ。


「ええと、確かこの辺りのエピソードに……あった!」


 俺はページをめくり、現代の医師が幕末にタイムスリップしてペニシリンを精製するくだりを食い入るように読んだ。

 そこには、俺たちと同じようにペニシリンの抽出と安定化に苦しむ主人公が、見事にその問題を解決する手法が描かれていた。


「『和紙』を使うのか……!」


 水溶液状のペニシリン原液を和紙で濾し、不純物から分離し、乾燥させるための画期的なアイデア。

 令和の最新設備(真空乾燥機など)がない時代に、ペニシリンを結晶化(粉末化)に近い状態にするための、ローテクにして最強の解決策だった。


 俺はすぐにその漫画の該当ページをスケッチブックに写し取り(漫画そのものを見せるわけにはいかないからな)、再びラボへと急いだ。


「みんな、次の打ち合わせの前に、これを見てくれないか」


 俺がスケッチブックを広げると、疲れ果てていた三人娘が不思議そうに集まってきた。


「ペニシリンの安定化について、一つアイデアがあるんだが……」


 俺は、漫画から丸写しした「和紙を用いた分離・乾燥法」のメカニズムを、さも自分が長年の研究の末にひらめいたかのように、もっともらしく説明した。


「……!!」


 俺の説明を聞くうちに、三人の女性科学者の目の色が変わった。

 疲労でどんよりとしていた瞳に、強烈な光が宿る。


「オー! ミスター・カネダ! そのアプローチは……!」


「和紙の繊維がフィルターの役割を果たし、同時に水分の蒸発を……! 信じられませんわ、なぜこんなシンプルなことに気がつかなかったのでしょう!」


 ソフィアが興奮で声を震わせ、ゾフィアとテレサも「すぐに実験を始めましょう!」と飛び上がり、その場ですぐに打ち合わせは終了となった。


 俺の(漫画からの)カンニング・アイデアは、彼女たちの行き詰まっていた思考の壁を、見事にぶち壊したのだ。

 スマートとは言い難いカンニングだったが、背に腹は代えられない。

 令和の真空乾燥機がないこの明治の世で、できる限りの工夫で結果を出す。

 それが起業家というものだ。


 とりあえず、これで安定化の問題はクリアできそうだ。

 俺は彼女たちに、この手法で特許を申請し、かつ論文も彼女たち三人の名で出すように指示した。


 これで一応、薬として販売できるレベルまでこぎつけた。

 いよいよ、本格的な製薬事業の立ち上げだ。


 ……と、喜んでいたのも束の間。


「しゃ、社長ぉぉ! もうダメです! パン事業だけで手一杯なのに、これ以上新しい『薬の販売と管理』なんて、俺たち三人じゃ絶対に回りません!」


 大田町の金田商会から、堀尾、吉村、山内のエリート三人衆が、ついに悲鳴を上げて俺の院長室に乗り込んできたのだ。

 彼らの目の下には、以前にも増して真っ黒なクマができている。商会はすでにパンク状態だった。


「わ、わかった! すまん! すぐに製パン業について人を雇え! 何をしてでも安定させろ! それと、ペニシリン専用の『製薬工場』の用地も、高島町で探してくれ!」


 俺は慌てて彼らをなだめ、矢継ぎ早に指示を出した。


「俺たちに、これ以上どうしろと……!?」


 三人は恨めしそうな目で俺を睨んだ。


「申し訳ない! だが、この事業が軌道に乗れば、君たちには年末にたんまりとボーナス(特別成果報酬)を弾む! 期待していていいぞ!」


 俺が無理やり肩を叩くと、三人は「……ボーナス」と呪文のように呟きながら、フラフラと商会へ帰っていった。

 頑張れ、若きエリートたちよ。君たちのデスマーチの果てに、俺の巨大な製薬帝国が築かれるのだ。


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