第72話 すし詰めの離れと、パンク寸前のエリートたち
高島町のパン工場が、俺の(令和基準の)異常なまでの衛生・品質へのこだわりを経て、ついに完成した。
二ヶ月という期間、俺の「あれもダメ、これもやり直し」という無茶振りによくぞ耐えてくれた棟梁たちには、頭が下がる思いだ。
「さあ、いよいよ本格稼働だ!」
工場の完成に合わせて、俺は孤児たちの住環境にもメスを入れることにした。
これまで、保護した孤児たち(総勢七十名超)は、山手の病院の裏庭にある「離れ」で寝起きしていた。
最初の三十人くらいまでは何とかなっていたが、ユキが新たに連れてきた四十二人が加わってからは、控えめに言っても「すし詰め状態」だった。
「一様……離れの子たち、夜は本当に雑魚寝で、身動きも取れないくらいだったみたいですよ」
ある夜、結さんが少し顔を曇らせて俺に耳打ちしてきた。
「えっ、そうだったのか? 誰も何も言ってこなかったぞ」
「あの子たちは、雨風をしのげて、温かいご飯が食べられるだけで天国だと思っているんです。だから、文句なんて言うはずがありませんわ。でも、さすがに女の子たちも年頃になってきますし……」
……しまった。
俺は完全に盲点だった。
病院の経営やパトロン接待、研究所の立ち上げに気を取られ、子供たちの生活空間の「質」にまで目が向いていなかったのだ。
「すまない、結さん。教えてくれてありがとう」
俺は深く反省し、すぐに行動を起こした。
工場が稼働するタイミングで、十二歳以上の「正社員(工員)」となった男の子たち(十一名)を、大田町にある『金田商会』の裏手——あの広大な日本家屋の「社宅」へと引っ越させることにしたのだ。
あそこは、堀尾、吉村、山内のエリート三人衆が住んでいるが、男三人が暮らすには無駄に広すぎるくらいの豪邸だった。
「社長! いくらなんでも、俺たちの社宅に血気盛んな少年たちを十一人もぶち込むんですか!?」
商会の事務所で、堀尾が目を白黒させて抗議してきた。
「まあそう言うな、堀尾。あそこは広いんだから、二階の空き部屋を彼らに使わせてやってくれ。彼らは昼間は工場でパンを焼き、夜は疲れて寝るだけだ。君たちの生活の邪魔にはならないはずだ」
俺がなだめすかすと、吉村がため息をつきながら書類から顔を上げた。
「……わかりました。ですが社長、彼らの面倒を見るとなると、我々の業務にさらに負担が……」
「心配するな。彼らには『寮長』として一番年長の子を任命しておく。君たちは、彼らが悪さをしないか見守ってくれるだけでいい。それに、離れの女の子たちに余裕を持たせてやるためだ、頼む」
俺が頭を下げると、三人は「……承知いたしました」と渋々了承してくれた。
結果として、この引っ越しは大正解だった。
離れは女の子と小さな子供たちだけの空間になり、一人ひとりのスペースにかなり余裕ができた。
結さんや明日香さんたち女性スタッフが、彼女たちの身の回りの世話や夜学の勉強を見るのも、格段にやりやすくなったのだ。
……だが。
これで万事解決、とはいかなかった。
「社長ぉぉ! 小麦粉の仕入れ価格がまた上がってます! それに、ホテル以外の洋食屋からも『金田のカレーパンを卸してくれ』って問い合わせが殺到してて……電話のベルが鳴りっぱなしですぅ!」
数日後、またしても山内が半泣きで病院の院長室に駆け込んできた。
彼ら三人のエリート社員を俺が引き抜いた時、本来の目的は「製薬事業(ペニシリンの販売)」と「製パン事業」の両輪を回すことだったはずだ。
ところが、肝心の製薬事業(ペニシリンの安定化・市販化)が研究所で難航しているため、彼らの業務は現在、完全に『製パン事業の運営』のみに振り切っていた。
しかも、高島町の巨大工場が稼働し、七十人の孤児たちがフル稼働でパンを焼き始めたことで、生産量は爆発的に増加した。
それに伴い、材料の仕入れ、在庫管理、新規顧客の開拓、そして売上金の回収……すべてにおいて、扱う金額と物量がケタ違いに膨れ上がったのだ。
「おいおい、山内。落ち着け。ホテル以外の注文も、さばけるならどんどん受けていいぞ。工場はフル稼働してるんだからな」
「受けるのはいいんですが、配達する人間と荷車が足りません! それに、売掛金の回収が遅れている店への督促も……ああっ、もう僕の頭がショートしそうです!」
山内が髪の毛を掻きむしる。
堀尾と吉村も、連日夜遅くまで大田町の事務所で算盤を弾き、帳簿と格闘しているらしい。
エリート書生だった彼らにとって、これほど泥臭く、かつスピード感と膨大な処理能力を求められる実務は初めての経験だったのだろう。
「……すまん。本当にすまん」
俺は心の中で手を合わせた。
完全に「丸投げ」のツケが、彼らのキャパシティをパンク寸前まで追い込んでいたのだ。
「だが、君たちならやれる。この修羅場を乗り越えれば、君たちは日本の実業界を背負って立つ本物の経営者になれる。俺はそう信じている」
俺が(何の解決策も提示せずに)肩を力強く叩くと、山内は「……は、はい。頑張ります」と、死んだ魚のような目でフラフラと商会へ帰っていった。
ごめんよ、若きエリートたち。
俺が病院の院長室で優雅にコーヒーを飲んでいる裏で、君たちが血反吐を吐くような努力をしていることは、ちゃんとわかっている。
いずれ、たんまりとボーナス(成果報酬)を弾んでやるからな。
だが、俺の心にはもう一つ、重くのしかかる懸念事項があった。
「……パン事業がこれだけ忙しいのに、肝心の『製薬事業』の方が、一向に進んでいないな」
俺はコーヒーカップを置き、二階の研究所がある天井を見上げた。
ペニシリンの「保存と安定化」の研究。
これに成功しなければ、俺が安田善次郎氏や鍋島侯爵に大見得を切った「製薬会社」の立ち上げは、絵に描いた餅で終わってしまう。
俺は重い腰を上げ、天才女性科学者たちが籠もるラボへと向かうことにした。




