第71話 孤児たちの巨大工場
山内が血相を変えて病院を飛び出していった後、俺はすぐに病院の裏手にある離れ(現在のパン工房)へと足を向けた。
そこでは、ユキをはじめとする三十人近い孤児たちが、粉まみれになって石窯と格闘していた。
汗だくでパン生地をこねているユキを呼び止め、俺は彼女を院長室の応接ソファに座らせた。
冷たい麦茶を出すと、彼女は「ふぅ」と一息ついた。
「先生、どうしたんですか? そんな改まって」
「ユキ、よく聞いてくれ。さっき、商会のお兄さん(山内)から泣きつかれたんだ。ホテルの支配人が、遠慮をなくしてとんでもない量の追加注文を出してきたらしい」
「ええっ! あのお優しかった支配人さんが!?」
ユキが目を丸くする。
「ああ。で、俺は高島町の埋立地に中古の倉庫を買って、そこを本格的な『パン工場』に改築することに決めた」
俺がそう告げると、ユキの表情がサッと青ざめた。
「む、無理です! 先生! 今の私たちの人数じゃ、これ以上の増産は絶対に……!」
当然の反応だ。
今でさえ、彼女たちはギリギリのラインでホテルへの納品をこなしているのだから。
「わかってる。だから、ユキに相談があるんだ」
俺は身を乗り出し、ユキの目を見つめた。
「工場を大きくして、働く人間を『増員』できないかと考えている。以前、ユキが言っていたよな? 横浜には、まだまだ困っている孤児がいっぱいいるって。別のグループのリーダーから話を聞いていたんだろう?」
俺が尋ねると、ユキはハッとして、強く頷いた。
「はい! 港の方や、関内の路地裏に、手癖の悪くない子たち……まだヤクザや悪い大人に見つかっていない、本当に困っている子たちがたくさんいます。彼らなら、絶対に一生懸命働いてくれるはずです!」
「よし、それなら」
俺はユキに指示を出した。
「ユキの知り合いの孤児のリーダーたちを集めて、その『困っている孤児』を全部、俺のところに連れてこい」
数日後。
金田病院の広い前庭は、異様な熱気に包まれていた。
ユキの呼びかけに応じて集まったのは、なんと総勢四十二人もの薄汚れた子供たちだった。
年齢は下は五、六歳から、上は十五、六歳まで。
これで、元々いた三十人と合わせて、俺が保護する孤児の数は一気に七十人を超えたことになる。
「先生! 私の知り合いのリーダーたちが面倒を見ている子たち、これで全部です!」
ユキが、俺を見上げて誇らしげに報告する。
俺は集まった子供たちの顔をぐるりと見渡した。
誰もが不安げだが、同時に「ここでならご飯が食べられるかもしれない」という必死の希望をその目に宿している。
「よし。よく来たな」
俺は、念のため鈴谷さんに裏から手を回してもらい、彼らの身辺調査(ヤクザの紐付きでないか、犯罪に関わっていないか)を済ませていた。
結果は全員シロ。純粋に身寄りがなく、その日暮らしをしている子供たちばかりだ。
「全員、今日から俺の会社で保護する」
俺がそう宣言すると、子供たちの間にどよめきと、そして安堵の波が広がった。
ただ闇雲に集めるだけでは、ただのスラムの延長になってしまう。
俺は、彼らを正式に組織化することにした。
「十二歳以上の者は、新しくできる『パン工場』の正社員(工員)として採用し、給金を払う。十二歳以下の小さな子供たちは、手伝い扱いだ。工場には入れない。その代わり……」
俺は、傍らに控える小泉ハナ先生とメアリー先生、そしてイルサさんと明日香さんを指し示した。
「読み書き、計算、そして英語の勉強をしてもらう。これは仕事だと思って励んでくれ」
さらに、正社員として働く十二歳以上の子供たちに対しても、俺は妥協しなかった。
「向上心のある者には、工場での仕事が終わった後、『夜学』として勉強を教える」
この時代、義務教育の制度は整いつつあったが、彼らのような孤児が通える学校はまだ皆無に等しかった。
そこで、俺たち病院スタッフ(主にハナ先生と俺)が交代で、彼らの夜の勉強を見ることにしたのだ。
組織化はそれだけではない。
俺は定期的に全員を工場の前に集め、前世の知識(サラリーマンであった先輩からの受け売りだが、研修で叩き込まるというアレ)をフル活用して、近代的な「会社組織」の概念を教え込んだ。
「いいか、みんな。仕事というものは、ただ言われたことをやるだけじゃない。いかにして無駄を省き、より良いものを作るか。それを常に考えるのが『TQC(全社的品質管理)』であり、『改善活動』だ」
……明冶の子供たちにTQC活動(トヨタ生産方式のパクリ)を叩き込むなんて、我ながら無茶苦茶だとは思う。
だが、俺の熱弁に、ユキをはじめとするリーダー格の子供たちは真剣な顔で頷いていた。
「すぐに結果が出なくてもいい。だが、昨日より今日、今日より明日、少しでも仕事を『改善』しようとする意識を持つんだ。それが、君たち自身の給料と、未来の生活を豊かにする」
仕組みは整えた。
あとは、肝心の工場の完成を待つばかりだった。
高島町の中古倉庫は、建物だけは立派だったが、そのまま食品を扱う工場にするには不衛生すぎた。
俺は、病院の改築でお世話になったあの腕利きの棟梁たちを再び呼び寄せ、徹底的な改修を命じた。
「棟梁。床は水洗いできるようにコンクリートかタイルに。壁には漆喰を塗り、ネズミや虫が絶対に入らないように隙間を塞いでくれ。パンを焼く窯は、最高のレンガで巨大なものを組んでほしい。絶対に、衛生面だけは妥協できないんだ」
「へいへい、わかっておりやすよ、先生。病院を作った俺たちに任せておきなせえ!」
棟梁たちは、俺のやたらと細かい(令和の食品衛生法レベルの)注文にブツブツ言いながらも、見事に応えてくれた。
結局、工場の完成までには丸二ヶ月の期間を要した。
俺としては、衛生基準をクリアした完璧なパン工場が仕上がって大満足だったのだが……。
その二ヶ月間、俺の「こだわりの遅れ」によるしわ寄せは、すべてあの商会の三人(堀尾、吉村、山内)に降りかかることになった。
「しゃ、社長ぉぉ! ホテルの支配人が『いつになったらカレーパンが来るんだ!』って、毎日毎日、鬼の形相で商会に乗り込んでくるんですぅぅ!」
山内が涙目で俺のデスクに突っ伏す。
増産体制が整うまでの間、需要と供給のバランス崩壊の矢面に立たされた彼らの苦労は、筆舌に尽くしがたいものがあっただろう。
「まあまあ、山内。宮仕えには『理不尽はお友達』という素晴らしい言葉があるじゃないか。この試練を乗り越えれば、君たちも一流のビジネスマンだ」
俺がハードボイルドに(無責任に)肩を叩くと、山内は「理不尽はお友達……」と呪文のように呟きながら、フラフラと商会へ帰っていった。
頑張れ、若きエリートたちよ。
君たちの苦労の上に、俺の巨大なパン帝国……いや、孤児たちの輝かしい未来が築かれるのだ。




