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猫と横浜  作者: のらしろ
第二部 結婚するぞ 〜起業編〜

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第70話 需要と供給と悲鳴



 大田町の店舗兼社宅に、三人のエリート青年(慶應出身の堀尾、早稲田の前身出身の吉村、そして原善三郎氏の紹介でやってきた法政大の前身出身の山内豊、二十二歳)を送り込み、「金田商会」という名の会社を立ち上げた俺。


 これで、俺の抱えていた膨大な事務作業と、ホテルへのカレーパンの納品・集金という面倒な実務を、完全に彼らに『丸投げ』できる。


 ああ、なんて素晴らしい響きだろう、丸投げ。

 これで俺は、本来の目的である創薬の研究(という名目の、自室でのPCカンニングと、結さんたちとの優雅なティータイム)に専念できると、ホッと胸を撫で下ろしていた。


 ……のだが。

 その安寧は、商会設立からわずか数日で脆くも崩れ去ることになる。


「しゃ、社長ーーッ!!」


 ある日の午後。

 山手の金田病院の玄関に、商会の若手三人衆の一人、山内豊が、血相を変えて転がり込んできた。


 ビシッと決めていたはずの古着の背広は汗でヨレヨレになり、ネクタイはひん曲がっている。


「どうした、山内。そんなに慌てて。まさか、売上金を落としたとか言わないだろうな?」


 俺が院長室から顔を出すと、山内は「ぜぇ、ぜぇ」と肩で息をしながら、首を激しく横に振った。


「ち、違います! ご相談です、社長! とんでもない事実が発覚いたしました!」


「とんでもない事実?」


「はい! あの……パンの販売についてです!」


 俺は首を傾げた。

 パンの販売? 今までユキたち孤児の女の子に任せていて、何の問題もなかったはずだが。


 俺は山内を応接室に通し、冷たいお茶を出してやった。

 一口飲んで落ち着いた山内は、悲痛な顔で訴え始めた。


「社長……需要と供給のバランスが、完全に崩壊しております」


 話を聞けば、こういうことだった。

 現在、うちのカレーパンやジャムパンの卸先は、俺が最初に泊まったあの有名な高級ホテル一択だ。


 しかし、そのホテル側は、連日連夜、宿泊客からの「あのスパイシーな揚げパン(カレーパン)をもっと食べたい!」という猛烈なリクエストに晒されていたらしい。


「ホテルの支配人は、本当はもっと、何倍もの追加注文を入れたかったそうです。ですが……」


「ですが?」


「今まで納品や集金に来ていたのが、ユキちゃんたち……小さな女の子ばかりだったでしょう? 支配人も人の子です。『これ以上、この小さな肩に重い荷物(大量のパン)を背負わせるわけにはいかない』と、涙を飲んで追加注文を我慢していたそうなんです!」


 ……マジか。

 明冶のホテルマン、優しすぎるだろ!


「しかし、今回、窓口が我々『金田商会』という大人の男の組織に一本化されました。それを知った支配人さんが、『よし、大人の男が運ぶなら容赦はいらん!』とばかりに、これまでの遠慮を一切かなぐり捨てて、すさまじい量の追加発注を叩きつけてきたのです!」


「なるほど……それで?」


「当然、ユキちゃんたちだけでは、到底作りきれる量ではありません! ですが、ホテルの支配人は『需要に供給が追いつかないのは、そちらの商会の責任だぞ! 何とかしろ!』と、ものすごい圧を掛けてくるんです!」


 山内が頭を抱えて泣きそうになっている。

 なんだか、中間管理職の悲哀を全身から放っているな。若きエリートに、早々に社会の厳しさを味わわせてしまったようだ。


「……わかった。で、どうするつもりだ?」


 俺が尋ねると、山内はパッと顔を上げ、懐から一枚の書類を取り出した。


「はい! 実は、私が以前お世話になっていた原善三郎様のツテを使いまして、高島町の埋立地に、手頃な『中古の倉庫』を見つけました! ここを買い取り、本格的な『パン工場』として改築する稟議書です!」


 おっ、さすがは法政大の前身出身。行動が早い。

 俺は稟議書を受け取り、金額の欄を見て目を疑った。


「……百円?」


 百円。現在の価値で約二百万円だ。

 いくら中古の倉庫とはいえ、横浜の港湾部(高島町)の土地付き物件が、たったの百円?

 俺が山手で買った元の屋敷が千五百円、この病院(元イタリア領事館)が三千円、大田町の商会と社宅のセットが二千円だったことを考えると、あまりにも安すぎる。


「おい、山内。これ、事故物件とかじゃないだろうな?」


「滅相もございません! 原様の威光で、相場からかなり負けていただいたのは事実ですが、元々倉庫などの事業用物件は、山手や関内の『居留地ブランド』が乗った洋館に比べれば、このくらいが相場なのだそうです」


 相場ってなんだ。

 俺が今まで買ってきた物件が、いかに「プレミアム価格」だったかを思い知らされる。

 柳澤頭取め、いい笑顔でしっかりボッタクリ(適正な銀行の利益)を乗せてやがったな。

 まあ、俺も外国人患者にボッタクリ治療費を請求しているから、お互い様か。


「それに、工場予定地として、高島町は非常に都合が良いのです。何より、小麦粉などの重い材料の搬入が、山手の急な坂を登らなくて済むため、搬送費を大幅に値切れます! その辺りのコストダウンの試算も、稟議書にまとめてあります!」


 山内が胸を張る。

 俺は稟議書に目を通し、小さく笑った。

 完璧だ。

 物流の導線からコスト計算まで、見事な事業計画書に仕上がっている。

 彼ら三人に商会を任せた俺の目に、狂いはなかった。


「よし、許可する。ただちに銀行の商会口座から百円を引き出し、その倉庫を買い取ってくれ」


 俺が書類にサイン(持参していた万年筆でかっこよく)をすると、山内は「ありがとうございます!」と深々と頭を下げた。


「しかし、社長。もう一つ問題が……」


「なんだ?」


「工場を新設しても、パンを焼く『工員』が足りません。ユキちゃんたちだけでは限界です。大至急、工員の増員をお願いしたいのですが……」


 うむ、それはもっともな話だ。

 いくら設備がデカくなっても、中身を作る人間がいなければ意味がない。


「わかった。増員の件は、俺に任せろ。少し待っていてくれ。君たちは、とりあえず工場の設備の整備を急いでくれ。大量の小麦を挽くための石臼の手配や、大量のパンを一度に焼ける巨大なレンガ窯を組む職人の手配だ」


「承知いたしました! すぐに吉村と堀尾に連絡し、手配に走らせます!」


 山内は、来た時よりも遥かに晴れやかな顔で、弾かれたように病院を飛び出していった。


 さて。

 パン工場で働く「人員」の確保か。

 俺は、病院の裏庭にある離れへと向かった。そこには、俺がこの明冶の世で一番頼りにしている「現場のリーダー」がいるからだ。


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