第69話 商会の船出とカレーパンの洗礼
大田町の新しい店舗兼社宅に、三人の若きエリート社員(堀尾、吉村、そして原氏紹介の法政大卒の青年・鈴木)を残し、俺は第二国立銀行へと足を向けた。
俺の基本方針は「任せられることはどんどん任せる」だ。
彼らがこの最初のテスト(十円の支度金での拠点立ち上げ)で使えないと判断すれば、事業そのものの形を考え直さなければならない。
別に、病院経営のボッタクリ……いや、手堅い収益だけでも十分に食っていけるのだから。
銀行のVIP用応接室に通されると、いつものように柳澤頭取が揉み手で現れた。
「やあ、金田先生! 大田町の物件、お気に召していただけましたかな?」
「ええ、完璧でしたよ。柳澤頭取の目は確かだ。今日は、その物件を拠点とする新しい『商会』の口座開設と、今後の取引について相談にきました」
俺は、現在ホテルに卸しているパンの取引について説明した。
これまでは俺が個人的に請求書を出し、現金で回収していたが、事業規模が拡大してきた今、それでは限界がある。
「これからは、新しく立ち上げる『金田商会』を通して請求書を発行し、代金のやり取りはすべてこの銀行の口座を通した『振替』で処理したいんです」
「なるほど、それは近代的で合理的ですな! 当行としても、大口の取引口座が増えるのは大歓迎ですぞ!」
柳澤頭取は喜んで了承してくれた。
俺はひとまず、商会の『資本金』として自分の口座から一千円(現在の価値で約二千万円)を新しい法人口座に移した。
この時代、まだ「株式会社」に関する法律(商法)は未整備で、個人商店の延長のような「言ったもん勝ち」の部分が大きい。だが、銀行にきちんとした法人口座を作り、資本金を積むことで、社会的な信用度は格段に上がるはずだ。
翌日の午後。
山手の金田病院の院長室に、三人の青年が息を切らせて報告にやってきた。
「社長! 大田町の事務所と社宅の準備、完了いたしました!」
堀尾が、ピシッと背筋を伸ばして一枚の書類を俺に差し出した。
そこには、俺が渡した十円の「支度金」の使途明細が、驚くほど几帳面な字でびっしりと書き込まれていた。
俺は明細に目を通し、思わず感心した。
彼らはまず、居抜き状態だった店舗の一階を掃除し、明るい窓際に自分たちの事務机を三つ並べたらしい。
そして、奥の部屋には前の持ち主が残していった頑丈な金庫がそのまま置かれており、それを再利用することで費用をゼロに抑えていた。
支出のメインは、彼ら三人が生活する日本家屋(社宅)のインフラ整備だった。
布団一式、食卓と食器類、それに水道とガスの開栓手続きと権利金。
これだけ揃えて、使った金額はわずか『四円(約八万円)』。
残りの六円は、一銭の狂いもなく俺の前に返却された。
「……見事だ。完璧な仕事ぶりだよ」
俺の試験に対する彼らの解答は、非常に満足のいくものだった。
無駄遣いをせず、あるものを活かし、必要なインフラを最速で整える。
これぞ実務能力だ。
「よし。残りの六円は、君たちの『制服代』だ」
俺がそう言うと、三人はキョトンとした顔をした。
「制服、ですか?」
「ああ。これから君たちは『金田商会』の顔として、ホテルや取引先に営業に回ることになる。いくら能力があっても、身なりが貧相では信用されない。形から入るのもビジネスの基本だ。この金で、古着屋でもいいから、全員ビシッとした『背広』を揃えてこい」
俺の言葉に、三人は顔を見合わせ、パッと表情を輝かせた。
この時代、洋装の背広はエリートの象徴だ。
「はいっ! ありがとうございます、社長!」
彼らは風のように病院を飛び出していった。
そして翌日。
俺の期待通り、古着屋を駆けずり回って見つけてきたであろう、少しサイズは合っていないが立派な背広に身を包んだ三人の「紳士」が、得意げな顔で病院に現れた。
「おお、見違えたな。立派なビジネスマンだ」
俺は三人を連れて、病院の奥へと向かった。
まずは、小泉ハナ院長、メアリー先生、そして研究室のゾフィアたち三人娘に、新しい「営業・管理部門」のメンバーとして彼らを紹介した。
美女揃いの医療・研究スタッフを前に、背広姿の三人はガチガチに緊張して赤面していたが、まあ、それはご愛嬌だ。
次に俺は、彼らを病院の裏庭にある離れ——パン工場へと案内した。
そこでは、ユキをはじめとする三十人の孤児たちが、小麦粉まみれになって石窯と格闘していた。
「ユキ、ちょっと手を止めてくれ。彼らが、今日から君たちの作ったパンを売りさばいてくれる『商会』のお兄さんたちだ」
俺が紹介すると、ユキたちは「こんにちはー!」と元気よく挨拶をした。
「さて、言葉で説明するより、実際に商品を知ってもらうのが早いだろう。ユキ、あれを出してくれ」
「はい、先生!」
ユキが満面の笑みで差し出したのは、揚げたてのアツアツ、黄金色に輝く『カレーパン』だった。
「さあ、食べてみてくれ。これが、今ホテルで飛ぶように売れている、うちの看板商品だ」
三人の新入社員は、不思議そうにその楕円形の揚げパンを受け取り、一口かじった。
サクッという小気味良い音と共に、中からスパイシーなカレーの香りが弾け飛んだ。
「……!!」
三人の目が、これ以上ないほどに見開かれた。
「な、なんですかこれは! 舌が痺れるように辛いのに、旨味が後を引いて止まらない!」
「美味い……! こんなパン、帝大の近くの洋食屋でも食ったことがないぞ!」
「これが、子供たちが作っている商品だというのですか!?」
彼らは、あっという間にカレーパンを平らげ、口の周りに油をつけながら興奮の声を上げた。
「その通りだ。君たちの最初の仕事は、このカレーパンをはじめとする『横浜名物のパン』の会計処理と、販売ルートの拡大だ」
俺は、真剣な表情で三人に告げた。
「現在、取引先はあの高級ホテル一軒だけだが、お披露目パーティーの反響で、あちこちから引き合いが来ている。
まずは、ホテルの請求書の発行と代金の回収から始めてくれ。
今後は、子供たちの作るパンは、すべて君たちの商会を通して販売していくことになる」
俺はユキたちにも向き直った。
「ユキ。今後は、このお兄さんたちと相談しながら、パンの生産量を調整して作っていこうね。でも、もし何か困ったことや、お兄さんたちが変なことを言ったら、いつものように直接私(先生)に言って構わないからね」
「はいっ、先生!」
ユキが元気よく返事をすると、三人のエリート社員は「絶対に子供たちを泣かせるような真似はしません!」と慌てて姿勢を正した。
「それから、もう一つ」
俺は、三人に一枚の通帳を手渡した。
「第二国立銀行に、『金田商会』名義で資本金一千円の口座を作っておいた。大きな出金には俺の決裁が必要だが、当座の運転資金はそこから使っていい。今後は、この口座の残高の上下が、君たちの『商会の実績』そのものになる」
一千円という大金が入った通帳を受け取り、三人の手は微かに震えていた。
彼らにとって、これは単なる就職ではない。自分たちの力で事業を回し、会社を大きくしていくという、途方もない挑戦の始まりなのだ。
「期待しているぞ。未来の経営者たち」
俺の言葉に、三人は深々と、そして力強く頭を下げた。
病院、研究所、そして商会。
三つの車輪が揃い、俺の事業はいよいよ本格的な推進力を得て、明冶の荒波へと漕ぎ出そうとしていた。




