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猫と横浜  作者: のらしろ
第二部 結婚するぞ 〜起業編〜

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第66話 事業計画と二人の書生




 新緑が目に鮮やかな、安田善次郎氏の広大な屋敷の茶室。

 日本経済の巨人から「これから何を成し遂げるつもりか」と問われ、俺は居住まいを正した。

 隣に座る結さんも、少し緊張した面持ちで俺を見つめている。


「安田様。私は現在、横浜で『金田病院』という小さな病院を経営しております。そこで、あのペニシリンという薬を使い、主に梅毒患者の治療にあたっております」


 俺は、あえて「小さな」と謙遜してみせた。実際には旧イタリア領事館をぶち抜いた巨大な洋館なのだが、安田財閥の総帥の前では謙虚にしておくのが無難だ。


「ですが、病院の中で注射器を使って一人ひとりに投与しているだけでは、救える命の数に限界があります。鍋島侯爵様からも強いご要望を頂いておりまして……私はこのペニシリンを、広く一般向けの『市販薬』として全国に流通させるための、本格的な『製薬会社』を立ち上げたいと考えております」


 俺がそう宣言すると、安田氏はピクリと眉を動かし、深く頷いた。


「なるほど、製薬業の立ち上げですか。それは国家にとっても、多くの民にとっても、大いなる福音となりましょう」


 安田氏は、手元の湯呑みを静かに置いた。


「先生のそのペニシリンの効能については、私どもも存じております。実は、我が安田銀行の取引先にも、先生の病院でその『恩恵』に与った者が少なくありませんでね。彼らから、先生の腕の確かさは嫌というほど聞かされておりますよ」


 ……またか。

 俺は内心で苦笑した。

 ここでも、俺の「ボッタクリ梅毒治療」の裏ネットワークが火を噴いているらしい。

 安田氏ほどの人物の耳に入るくらいだから、どれだけのお偉いさんが俺の世話になっていることやら。


「先生が新たな事業を興されるというのであれば、資金面でのご協力は惜しみません。いくらでもご融資いたしましょう」


 安田氏が、何気ない口調でとんでもないことを言った。

 日本最大の銀行王からの「いくらでも融資する」という言質。これだけでも、今日の東京訪問は歴史的な大勝利だ。

 だが、俺の狙いはそこではない。


「安田様、破格のお申し出、心より感謝申し上げます。ですが……」


 俺は深々と頭を下げた。


「正直に申し上げまして、現在、私の病院は患者様からの治療費(主に外国人からの特別割増料金)で、当面の事業資金は十分に潤沢なのです。資金面での心配はございません」


「ほう?」


 安田氏が、少し意外そうな顔をした。


「私が本当に困窮しているのは、『資金』ではなく『人材』なのです」


 俺は、昨晩のドンチャン騒ぎで原善三郎氏にこぼしたのと同じ愚痴を、今度は安田氏にぶつけた。


「ペニシリンの量産化に向けた研究は、優秀な女性科学者たちに任せております。ですが、いざ会社を立ち上げ、薬を全国に販売・管理し、帳簿をつけ、さらには現在孤児たちに任せている『製パン事業』をも法人化して取り仕切る……そんな近代的な『実務能力』を持った人間が、私の陣容には一人もいないのです」


 俺が切実に訴えると、安田氏は顎を撫でながらフッと笑った。


「なるほど。金の心配はなく、人が欲しいと。先生は本当に、欲がないのか強欲なのかわかりませんな」


 安田氏はそう言って、ポンと手を叩いた。

 すると、茶室の襖が静かに開き、二人の書生らしき青年が、恭しく頭を下げて入ってきた。


「先生、ちょうど良い機会です。彼らを紹介しましょう。堀尾茂助ほりお・もすけ、二十一歳。そして吉村茂助よしむら・もすけ、二十三歳です」


 二人の「モスケ」が、俺と結さんの前に進み出て、深くお辞儀をした。


「彼らは、私のところで書生として面倒を見ている者たちです。二人とも、大学は優秀な成績で卒業したのですが……今の政府や財閥の関連企業には、彼らに見合う適当なポストがすぐには空いておらず、私のところで燻っていたのですよ」


 安田氏が、少し申し訳なさそうに付け加えた。


「実は、二人とも『帝大(東京帝国大学)』の卒業ではありませんでね。金田先生のような国際的な大事業を興される方のもとへ送り出すには、少々学歴が見劣りするやもしれませんが……」


「帝大卒ではない、ですか?」


 俺は二人の青年をまじまじと見つめた。

 堀尾茂助と、吉村茂助。

 安田氏が言うには、堀尾は「慶應義塾」、吉村は「東京専門学校」の卒業生だという。


 ……慶應義塾と、東京専門学校(のちの早稲田大学)。

 俺の頭の中の百科事典データ(令和の常識)が、激しくスパークした。


 おいおいおい!

 安田のおっさん、冗談じゃないぜ。

 慶應義塾といえば、あの福沢諭吉が創設した、実学ビジネスと英語教育の最高峰。

 のちの「慶應ボーイ」こと、日本の資本主義を牽引するエリートたちの巣窟じゃないか!


(ヤリサー問題とかで時々世間を騒がせるが、俺も人のことは言えない)


 そして東京専門学校といえば、大隈重信が創設した、在野の精神と反骨心に溢れるジャーナリストや政治家、そして実業家を輩出する早稲田大学の前身!


「帝大のエリート官僚志望」ではなく、「民間ビジネスの最前線で戦える即戦力」。


 俺が求めていた『近代的な実務能力』を持つ人材として、これ以上ない最高・最強のカード(手札)ではないか!


「安田様! とんでもない! 私自身、学歴など全くないもぐりの……いえ、しがない田舎医者あがりに過ぎません! 彼らのような優秀な学問を修めた若者に手伝ってもらえるなら、これ以上の喜びはありません!」


 俺が興奮気味に身を乗り出して叫ぶと、安田氏も浅野氏も、そして二人の書生も、ホッと安堵の表情を浮かべた。


「そう言っていただけると、私も肩の荷が下ります。彼らも、先生のような新しい時代を切り開く事業家の元でなら、大いに腕を振るえるでしょう」


「ありがとうございます、安田様! 必ずや、彼らを立派な経営者に育て上げてみせます!」


 俺が固く約束すると、堀尾と吉村の二人は、目を輝かせて再び深く頭を下げた。


「金田先生! 明日、すぐにでも横浜の先生の病院へ向かいます!」


「どんな下働きでも構いません! どうか、よろしくお願いいたします!」


 二人の熱意あふれる挨拶を聞きながら、俺は内心でガッツポーズをした。


 昨日の原善三郎氏からの和仏法律学校出身の書生と合わせ、これで一気に三人の「大卒エリート(しかも私学の雄)」を獲得したのだ。


 今日の安田善次郎氏との会合だけで、俺の『会社設立』における最大の問題(人材不足)の半分が、一瞬にして片付いてしまったような気がする。


 横浜の病院に、いよいよ「ビジネスのプロフェッショナル集団」が誕生する時が来たのだ。



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