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猫と横浜  作者: のらしろ
第二部 結婚するぞ 〜起業編〜

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第65話 電話と迎賓館



 朝帰りの翌日、つまり安田善次郎氏の屋敷を訪問する前日の夕方。

 俺の病院の玄関口に、郵便局の配達員が息を切らせて駆け込んできた。


「金田先生! 東京の浅野様より、至急の電報でございます!」


 俺が受け取って封を切ると、そこにはこう記されていた。


『アスノケン ヤスダサマニ デンワニテ レンラクズミ ゴフサイデ オイデヲ』


 電話……!


 俺は思わず電報を握りしめた。

 この明冶二十年代前半、電話はまだ一般には全く普及していない超最新の通信機器だ。

 東京と横浜の間に電話線が開通したばかりで、特権階級か一部の政府機関、大企業しか持っていない代物である。


 浅野氏は、わざわざその「電話」を使って、俺と結さんが同伴することを安田氏に直接伝えてくれたというのだ。


「結さん! 浅野様から電報だ。明日はご夫妻で、安田様のお屋敷へ招待してくださるそうだ!」


「まあ! それは……いよいよですわね、一様」


 結さんは少し緊張した面持ちで頷いたが、すぐに元男爵夫人としての凛とした表情を作り、翌日の訪問に着ていくドレスの準備に取り掛かった。


 そして翌日。

 俺たちは横浜駅から、お馴染みの「陸蒸気」に乗り込んだ。

 浅野氏ご夫妻と、彼らの秘書らしき人物数名がすでに乗車しており、一行が乗り込んだ一等車は、ほとんど貸切のような状態だった。


「金田先生、奥様。本日は遠路はるばる、ありがとうございます」


 浅野氏が、にこやかに俺たちを迎えてくれた。

 浅野夫人も、結さんとは何度か顔を合わせているようで、二人はすぐに親しげに談笑を始めた。


 汽車に揺られること一時間弱。新橋駅に到着すると、そこにはすでに十台近い人力車がズラリと待ち構えていた。

 俺たちはそれぞれ人力車に分乗し、浅野氏の先導で、東京の街を北東へ——安田善次郎氏の屋敷がある本所(のちの墨田区横網町周辺)へと向かった。


「……ここが、安田様のお屋敷か」


 人力車が立派な門をくぐると、俺は思わず息を呑んだ。

 そこは、俺の山手の病院(旧イタリア領事館)をさらに二回りも三回りも大きくしたような、広大な敷地だった。


「現在、庭園を大規模に整備している最中でしてね。いずれは国内外の賓客をお招きする『迎賓館』のような役割を持たせようと、安田様は意気込んでおられますよ」


 浅野氏が、建設中の壮大な日本庭園を指差しながら教えてくれた。

 のちの「旧安田楠雄邸庭園」のような、見事な回遊式庭園の原型だろうか。


 中央には大きな池がゆったりと水を湛え、その周囲には計算し尽くされた配置で名石や樹木が並んでいる。五月の爽やかな風に、木々の新緑がキラキラと揺れていた。


 今はまだ庭師たちが忙しそうに庭木を選定し、石を運んでいる最中だが、完成すれば息を呑むような美しさになることは想像に難くない。

 俺たちは、その見事な庭園を一望できる、静閑な茶室へと通された。

 畳の心地よい匂いと、微かに香るお香。


 ほどなくして、一人の初老の男性が、静かな足取りで茶室に姿を現した。


 安田善次郎。


 一代で「安田銀行(のちの富士銀行、みずほ銀行の源流の一つ)」を設立し、日本を代表する大財閥を築き上げた男。

 その鋭い眼光と、質素だが隙のない着物姿からは、底知れぬ威厳と知性が漂っていた。


「遠いところをようこそ。安田善次郎です。浅野君から、先生の噂はかねがね」


 安田氏が静かに頭を下げると、俺と結さんも深くお辞儀を返した。

 お茶が出され、場の空気が少し和らいだところで、安田氏が口を開いた。


「実は、先生のお名前は、京橋の田中(田中製造所社長)からも聞いておりましてね。あの画期的な『暗視野顕微鏡』の開発に、多大な貢献をされたとか。そして、その顕微鏡を使って見つけ出した病原菌と、特効薬のペニシリン……。いやはや、実に興味深い」


 安田氏は、手元の湯呑みをゆっくりと回しながら、俺を真っ直ぐに見据えた。


「金田先生。失礼ながら、先生は一体どのようなご経歴をお持ちで? そのような高度な医学と光学の知識を、どこで学ばれたのですか?」


 来た。

 鍋島侯爵夫人に突っ込まれた時と同じ、俺の「出自」に関する核心の質問だ。

 俺は、結さんと事前に打ち合わせておいた「バックストーリー」を、ここでも披露することにした。


「……お恥ずかしい話ですが、私は正規の医学教育を受けたわけではありません」


 俺は、わざと少し目を伏せ、苦労を滲ませた口調で語り始めた。


「若い頃、南米のコロンビアに住んでおりまして。そこで現地のシャーマン(呪術医)から、植物やカビから薬効成分を抽出する秘伝を教わりました。その後、ヨーロッパの大学に潜り込み、独学で細菌学の基礎を齧ったのです」


 俺は言葉を区切り、安田氏の反応を窺った。

 安田善次郎ほどの人物になれば、俺の「コロンビア渡航歴」など、本気を出せばすぐに調べ上げられてしまうだろう。


 だが、俺はあえて具体的な地名や大学名をぼかし、検証不可能なグレーゾーンに話を逃がした。


「日本に帰国後、その知識を元にペニシリンを精製しましたが、それを科学的に証明する手段がなかった。そこで田中製造所の技術を頼り、あの顕微鏡を作らせた……という次第です」


 俺が説明を終えると、安田氏はしばらく黙考していた。

 その鋭い視線が、俺の心の奥底まで見透かそうとしているようで、背中に冷たい汗が流れる。


「……なるほど。南米の秘伝と、独学の細菌学ですか」


 安田氏は、フッと小さく笑った。


「面白い。実に面白い経歴だ」


 俺はホッと胸をなでおろした。

 どうやら、安田氏も鍋島侯爵夫人と同じく、俺の「過去」よりも「結果」を重んじてくれるタイプのようだ。


「ですが、先生。私が関心があるのは、先生の過去ではありません。先生がこれから『何をなされるのか』です」


 安田氏の目が、再び鋭く光った。


「お伺いしましょう。先生はこれから、この日本で、どのような事業を成し遂げるおつもりですか?」


 俺は居住まいを正し、安田善次郎という巨人の前で、俺の「本当の野望」を語り始めた。




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