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猫と横浜  作者: のらしろ
第二部 結婚するぞ 〜起業編〜

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第64話 朝帰りと帝大卒の書生




 鈴屋の小妓楼での宴は、まさに狂瀾怒涛だった。

 横浜の重鎮たちが、昼間の「鉄道がどうの」「枢密院がこうの」といったインテリジェンス溢れるダベリングから一転、芸者たちをはべらせて三味線の音に合わせて踊り狂っている。


「先生、どうぞ!」


 色っぽい小梅ちゃんに酌をされながら、俺は苦笑いでお猪口を空けた。

 完全に「大人の会合」という名の無礼講だ。


 趣旨が大きく変わり、結局そのまま夜を徹してのドンチャン騒ぎとなり、俺が山手の病院(我が家)に帰り着いたのは、すっかり日が昇った朝のことだった。


「ただいま……」


 フラフラと玄関を開けると、早起きの明日香さんがエプロン姿で出迎えてくれた。


「お帰りなさいませ、一様。随分と遅くまで『お仕事』だったのですね」


 明日香さんが、ニッコリと、しかし全く咎める様子のない笑顔でお茶を淹れてくれる。


 元・鈴屋の高級娼婦である彼女にとって、パトロンや実業家たちとの朝帰りの付き合いなど、この明冶の世では「デフォ(標準仕様)」なのだ。


 むしろ、俺が誰の誘いも受けずに真っ直ぐ帰ってくる方が、「男としての魅力や付き合いがない」と心配される始末である。


「ああ、悪い。鈴谷さんのところでな……」


「存じておりますわ。お疲れ様でした。すぐにお風呂の準備をいたしますね」


 結さんも起きてきて、俺の羽織を受け取りながら優しく微笑んでくれた。

 この寛容さ。俺のハーレム……いや、家族は本当にできた女性たちだ。


 令和の価値観なら、朝帰りなんて修羅場必至だが、ここでは俺の「甲斐性」として受け入れられている。


 俺は風呂で酒と化粧の匂いを洗い流し、さっぱりとした浴衣に着替えてから、昨晩の宴会の「成果」を反芻していた。


 ただ単に芸者と遊んでいただけではない。

 実は昨晩、俺はたまたま隣に座った原善三郎氏(生糸貿易で巨万の富を築いた横浜のドン)に、こぼすように愚痴をこぼしていたのだ。


「原様、実は困っているんです。鍋島侯爵様から『ペニシリンを一般向けの市販薬として事業化せよ』と強いご要望がありましてね。研究所の三人娘ゾフィアたちが保存と安定化の研究を進めているんですが……いざ会社を立ち上げるとなると、肝心の『実務を回せる人間』が全く足りないんです」


「ほう、実務ですか」


「ええ。販売ルートの開拓、在庫管理、経理、それに子供たちの製パン事業も一緒に法人化したいんですが、私や女医たちではそこまで手が回りません。かといって、今更私のようなもぐり上がりの医者のところに、帝大(東京帝国大学)卒のエリートなんかが来てくれるはずもありませんし……」


 俺が本音を吐露すると、原氏は葉巻の煙をくゆらせながら、ニヤリと笑った。


「なるほど。先生、それならば私のところにいる『書生』を一人、回して差し上げましょうか?」


「書生、ですか?」


 書生。当時の名士や政治家の家に住み込み、家事や雑用を手伝いながら学問を修める青年たちのことだ。


「ええ。彼は帝大卒ではありませんが、和仏法律学校(のちの法政大学)でしっかりと学問を修めた優秀な男でしてな。今は私のところで燻っておりますが、先生の新しい事業の立ち上げなら、大いに腕を振るえるでしょう。それでもよろしいかな?」


「和仏法律学校! ええ、もちろん! 学歴なんて関係ありません、実務能力とやる気があれば十分です!」


 俺は飛び上がらんばかりに喜んで、原氏に深く感謝した。

 後日、その書生を紹介してもらう約束を取り付けたのだ。

 宴もたけなわになる頃、もう一つの「収穫」があった。

 原氏との話を終え、たまたま浅野総一郎氏(浅野財閥の創始者)と女性を挟んで杯を交わしていた時のことだ。


「金田先生、実は明後日、私が大変お世話になっている『安田様』にお会いする予定でしてな。もしよろしければ、先生もご一緒しませんか?」


 浅野氏が、声を潜めて誘ってきた。

 安田様。

 俺の頭の中の百科事典データが、ピコンと反応した。

 安田善次郎。安田財閥の創始者にして、「銀行王」と呼ばれる明冶経済界の超大物ではないか!


「えっ!? 私のような者が、安田様にお会いしてもよろしいのですか!?」


「もちろん。安田様も、先生の『ペニシリン』と病院の噂には、大変興味を持っておいでです。ぜひ、お連れしたい」


 俺は二つ返事で浅野氏の誘いに乗った。

 原氏からの書生の紹介といい、安田善次郎との面会といい、昨晩のドンチャン騒ぎは、俺の事業を次のステージへと押し上げるための巨大な跳躍台となったのだ。


「……というわけで、結さん。明後日、俺と一緒に東京の安田様のお屋敷へ行ってもらえないだろうか」


 風呂上がりの朝食の席で、俺が結さんに頼み込むと、彼女は箸を止めて目を丸くした。


「安田善次郎様、ですか!? あの大財閥の……!」


「ああ。浅野様ご夫妻に同伴させていただく形になる。俺一人じゃ心許ないから、元男爵夫人である結さんに、俺のパートナーとしてしっかりサポートしてほしいんだ」


 俺が頭を下げると、結さんは少し緊張した面持ちで、しかし力強く頷いてくれた。


「はい、一様! 喜んでお供いたしますわ。一様の大切な事業のためですもの!」


 頼もしすぎる婚約者である。

 こうして、俺の『製薬会社設立』と『製パン事業法人化』に向けた、怒涛の起業準備が、いよいよ本格的に幕を開けようとしていた。


 待っていろ、明冶の経済界。俺のボッタクリ……いや、革新的なビジネスモデルで、日本中にペニシリンとカレーパンをバラ撒いてやる。


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