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猫と横浜  作者: のらしろ
第二部 結婚するぞ 〜起業編〜

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第63話 ダベリングの会合と大人の階段




 新緑が薫る五月の良い季節。

 ペニシリンの「保存と市販化」という壮大なミッションを研究所の三人娘(ゾフィア、テレサ、ソフィア)に丸投げし、俺は今日も今日とて、横浜港を代表するあの高級ホテルの一室に足を運んでいた。


 目的は、横浜財界人たちの「親睦会」への出席である。

 一介の(もぐりの)医者上がりにしては、随分と身の丈に合わないというか、少しおこがましい気がしないでもない。


 だが、最近の俺は、第二国立銀行の柳澤頭取や鈴谷さんをはじめとする横浜財界から、やたらと担ぎ上げられているのだ。


「いやあ、金田先生! 今日も一段とお顔の色がよろしい!」


「先生のところのカレーパン、うちの女房がすっかり虜になりましてな。今朝も子供と奪い合っておりましたよ」


 ホテルの一室に集まった十数人の実業家たちは、上等な葉巻をくゆらせ、昼食のステーキにナイフを入れながら、口々に俺を歓迎してくれた。


 この集まり、何か重大な決議をするわけでも、新しいプロジェクトを立ち上げるわけでもない。

 ただ美味しい昼食を食べながら、近況を報告し合うだけの、本当に「緩い」集まりだった。


 だが、それがいい。

 俺のような新参者がポツンと浮いてしまうこともなく、皆がフランクに話しかけてくれるので、非常に有意義な時間を過ごさせてもらっている。


 何より、彼らが持ち込む「情報の鮮度」は、スマホでニュースをチェックできない俺にとって、貴重なインプットの場でもあったのだ。


「そういえば皆様、聞かれましたかな? 来年にはいよいよ、東海道線が全線開通する見通しだとか」


「おお! ついに新橋から神戸まで、一本の鉄路で繋がるのですな!」


 今日の話題は、変化の激しい日本各地の噂話——特に「鉄道熱」についてだった。

 この明冶二十年代、日本中に鉄道建設の機運が高まっていた。東海道線の全線開通は、物流や人の流れを劇的に変える。ここ横浜にとっても、ダイレクトに影響の出るビッグニュースだ。


「いやはや、鉄道というのは夢がありますなあ。あの黒鉄の塊が、大量の荷物と人を乗せて疾走する姿は、まさに文明開化の象徴です」


 鈴谷さんが興奮気味に語ると、隣に座っていた恰幅の良い商人が身を乗り出した。


「どうです? 我々も一つ、鉄道会社を立ち上げてみませんか? 例えば、群馬の官営工場(富岡製糸場など)とこの横浜港を直接結ぶ路線を敷けば……」


「おおっ! それは面白い! 生糸をダイレクトに港へ運び込めれば、莫大な利益を生みますぞ!」


 お偉いさん方が、まるで少年のように目を輝かせて「自分たちで鉄道を持てないか」と盛り上がっている。


 ……おいおい。


 いくらなんでも、いくらなんでも話のスケールがデカすぎないか?

 たしかに、群馬と横浜を直結させれば大儲けだろうが、鉄道敷設なんて国家プロジェクトレベルの話だぞ。


 ペニシリンで一山当てようと夢見ている俺が言うのもなんだが、はっきり言って、壮大すぎる『ダベリング(無駄話)』の会合である。


「金田先生、どう思われますかな? 先生の病院も、鉄道が通ればさらに遠方から患者を集められるでしょう!」


 急に話を振られ、俺は慌ててステーキを飲み込んだ。


「ええ、まあ……夢のある話ですね。ただ、うちの病院は今でも、全国から『お忍び』の患者様がひっきりなしでして。これ以上増えると、うちの美人女医たちが過労で倒れてしまいますよ」


 俺が冗談めかして答えると、ドッと笑いが起きた。


「違いありませんな! 金田病院の美しき女医先生方の噂は、もはや東京の華族たちの間でも伝説ですぞ!」


「私など、病気でもないのに診察券をもらいたいくらいですわ、ガッハッハ!」


 やれやれ、このエロ親父どもめ。

 だが、そんな下世話なジョークが飛び交う空気も、嫌いじゃない。


 他にも、伊藤博文を中心とする「枢密院」が作られるとか、大日本帝国憲法の発布が近いとか、色々と小難しい政治の話も出たが、結局は「鉄道一色」に染まって昼食会はお開きとなった。


「さて、夕方になれば解散……」


 と、俺が帰り支度をしようとした時のことだ。


「おいおい、先生。何をおっしゃる。こんな良い季節に、昼飯食ってサヨナラなんて野暮な真似はしませんよな?」


 柳澤頭取が、俺の肩をガシッと掴んだ。


「さあ皆様! これからが本番ですぞ! 鈴谷さんの店に『凸(突撃)』いたしましょう!」


「おおーっ! 待ってました!」


「先生、今夜は帰しませんぞ!」


 ……マジか。


 還暦近いおじさんたちが、目を血走らせて雄叫びを上げている。

 こうして俺は、有無を言わさず馬車に押し込まれ、関内にある鈴屋さんの小妓楼へと強制連行されることになったのである。


「いらっしゃいませぇ〜、旦那様方!」


 鈴屋の暖簾をくぐると、艶やかな着物姿の女性たちが、黄色い声を上げて出迎えてくれた。

 ここからが、夜を徹しての「大人の会合」の始まりだ。


 昼間のダベリングとは打って変わり、座敷に上がった途端、実業家たちの眼の奥に獣のような光が灯った。


「先生、どうぞどうぞ! 今日はこちらの小梅ちゃんがお相手をいたしますぞ!」


「いや、俺は別に……」


 俺がタジタジになっていると、鈴谷さんがニヤリと笑いながら耳打ちしてきた。


「ご心配なく、先生。うちの店には、奥様の結様も、そして明日香も元々おりましたからね。先生がここで少々羽目を外したところで、彼女たちが咎め立てするような野暮はいたしませんよ。それが『明冶の男』の甲斐性というものです」


 ……なんて恐ろしいコンプライアンスだ。


 だが、確かにその通りかもしれない。

 結さんも明日香さんも、この時代の「男の付き合い」については妙に寛容だ。


 というか、俺が女の尻を追いかける甲斐性なしだと思われる方が、彼女たちのプライドに障るらしい。

 それに、ここにいるお偉いさん方は全員、俺が梅毒の「特効薬」を作っていることを知っている。


「先生の薬があると思えば、どんな遊びも怖くありませんな! ガッハッハ!」


 ……おい。


 お前ら、ペニシリンを「遊び放題の免罪符」みたいに使うな。

 俺は心の中で強烈なツッコミを入れつつも、勧められるがままに日本酒の杯を干した。


 こうして、一切の羽目タガが外れた、壮絶な宴会が幕を開けたのである。


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