第62話 事業化への胎動
ソフィアが合流し、研究室が三人の女性科学者によって本格稼働を始めた初夏。
金田病院の日常は、傍から見れば、俺が院長として辣腕を振るい、次々と新しい医療の形を打ち立てているように見えたことだろう。
だが、実態は全く違った。
診察と治療の最前線は小泉ハナ院長とメアリー副院長に、ペニシリンの精製や新薬(解熱鎮痛剤、経口補水液、漢方の科学的分析)の研究はゾフィアたち三人娘に、そして病院の事務や経理、孤児たちの管理は明日香さんとイルサさんに——。
そう、俺の仕事は完全に『各部門のプロフェッショナルへの丸投げ』状態になっていたのである。
俺自身が直接手を下すのは、せいぜい自室の金庫に隠したPC(ローカルAI)を使って、カンファレンスの時に「南米のシャーマンから聞いた知恵」を披露する時くらいだ。
では、俺は何をして時間を潰していたのか?
答えは簡単だ。
地元・横浜の財界人たちとの交流や、東京のやんごとなき方々とのコネクション作り……つまり「パトロン接待」と「政治的な根回し」である。
正直に言って、病院の現場で血や膿を見るよりも、そっちの(ハードボイルドな探偵稼業に近いような、そうでもないような)裏工作の方が圧倒的に忙しくなっていた。
定期的に、俺は仕立ての良いスーツ(明冶のテイラーで特注したものだ)に身を包み、婚約者である結さんを伴って、渋谷の松濤にある鍋島侯爵邸へとご機嫌伺いに通っていた。
結さんは元男爵夫人であり、侯爵夫人のかつての側近でもある。
彼女が隣にいるだけで、どんなお偉いさん相手でも話がスムーズに進むという、俺にとっては最強の「パスポート」だった。
そんなある日、鍋島侯爵の私室に招かれた時のことだ。
ふかふかの革張りソファに深く腰掛けた侯爵が、葉巻の煙をくゆらせながら、俺に鋭い視線を向けた。
「金田先生。
先生の病院の評判は、今や帝都(東京)の華族たちの間でも持ちきりですぞ。
あの不治の病(梅毒)を完治させる魔法の注射……『ペニシリン』でしたかな」
侯爵は、手元のブランデーグラスをゆっくりと回した。
「そろそろ、先生も次の段階へお進みになるべきではないでしょうか」
「次の段階、と申しますと?」
「あの魔法の薬を、広く一般向けの『市販薬』として販売してはいかがか、とご提案しているのですよ。
もちろん、我が侯爵家も、そして横浜の財界も、出資と販路の確保には全面協力いたします」
薬の市販化。
それは、俺が当初から描いていた「製薬ベンチャー」の究極の目標でもある。
病院の中で、注射器を使って一人ひとりに投与しているだけでは、救える命の数にも、俺の銀行口座に流れ込む利益にも限界がある。
ペニシリンを瓶詰めの薬として全国の薬種問屋や医院に卸すことができれば、莫大な富と名声が手に入るだろう。
「……ありがたいお話です、侯爵様。ですが」
俺は少し口ごもった。
現在、俺たちが病院で使っているペニシリンは、ゾフィアたちが青カビの培養液から抽出し、精製したばかりの「作りたての水溶液」だ。
俺のPCの知識によれば、初期のペニシリンは非常に不安定で、水溶液の状態ではすぐに効力が失われてしまうという致命的な弱点があったはずだ。
瓶詰めにして常温で馬車や汽車に揺られ、何日もかけて運搬し、薬屋の棚に長期間陳列される……そんな過酷な条件で保存が効くのかどうか、俺たちはまだ全く検証していなかったのである。
「実は、そのペニシリンの『保存性』について、現在うちの研究所で急ぎ検証を進めているところなのです。
確かな品質を保証できないものを、世に出すわけにはいきませんので」
俺がもっともらしい理由(事実だが)を並べて説明すると、侯爵は満足げに頷いた。
「なるほど。
さすがは先生、医は仁術、そして商売の基本もわかっておられる。
品質の伴わない粗悪品は、かえって信用を落としますからな。
吉報をお待ちしておりますぞ」
横浜の病院に帰るなり、俺はすぐに白衣を羽織り、一階のタイル張りの特別研究室のドアをバンッと開け放った。
「ゾフィア! テレサ! ソフィア!」
ビーカーや試験管と睨めっこしていた三人娘が、ビクッと肩を揺らして一斉に振り返った。
「ミスター・カネダ?
どうなさいましたの?」
「緊急の最優先プロジェクトだ!
ペニシリンの『長期保存方法』と『薬としての販売(市販化)に向けた安定化』について、今すぐ研究を始めてくれ!」
俺が指示を出すと、彼女たちの目の色が変わった。
自分たちが精製した薬が、病院の中だけでなく、日本中の、いや世界中の患者の手に届く市販薬になるかもしれないのだ。
研究者としての血が騒がないはずがない。
「安定化、ですね……。
水溶液のままではすぐに成分が分解してしまうのであれば、不純物を取り除き、水分を飛ばして『粉末状(結晶化)』にするのが一番確実かと存じます!」
ソフィアが即座に化学的なアプローチを提案する。
「オー!
それなら、真空状態での乾燥技術や、特定の溶媒を使った抽出法を試してみましょう!」
ゾフィアとテレサも、すぐに具体的な実験の段取りを相談し始めた。
彼女たちの優秀さに、俺は改めて惚れ惚れした。
俺の「ざっくりとした未来の知識」を、彼女たちがこの時代の技術で「実現可能な形」に翻訳してくれるのだから。
成果が出るまでには、しばらく時間がかかるだろう。
だが、この研究が実を結べば、いよいよ俺は単なる「やり手の病院長」から、『日本初の抗生物質を製造・販売する巨大製薬企業』の創業者として、実業界の表舞台に名乗りを上げることになる。
そうなってくると、深刻な問題がもう一つ浮上してくる。
圧倒的な『人手不足』だ。
研究者については、三人の優秀な女性科学者がいるし、ペニシリンの初期の培養や抽出作業の補助、器具の洗浄といった単純な雑用は、ユキたち孤児(今や三十人近い大所帯だ)を使えばどうにかなる。
だが、大量生産された薬を瓶詰めし、ラベルを貼り、全国の問屋へ配送を手配し、在庫を管理し、代金を回収し、帳簿をつける……。
そうした「ビジネスとしての実務」を専門に担当する人間が、今の俺の陣容には一人もいないのだ。
明日香さんやイルサさんは病院の事務や経理で手一杯だし、俺はパトロン接待で忙しい。
「……きちんと教育された、実務に強い人間が必要だ」
俺は院長室のデスクに広げた大きな日本地図(鉄道網が少しずつ伸び始めている)を眺めながら、腕を組んだ。
それに、もう一つ。
「ユキたちがやっている『パンの製造販売』も、このままお小遣い稼ぎの延長にしておくのはもったいない。
カレーパンの需要は爆発してるんだ。
いっそのこと、製薬会社と一緒に『製パン会社(パン工場)』も法人化して、本格的に立ち上げてしまおう」
製薬事業と、製パン事業。
全く毛色の違う二つの事業を、明冶の世で同時に会社組織としてスケールアップさせる。
「俺は、いったい何屋になりたいんだ……?」
もはや探偵稼業の真似事なんて、俺の頭の片隅からもすっかり消え去っていた。
俺は、押し寄せる膨大な起業準備のタスクに頭を抱えつつも、どこかワクワクしている自分を抑えきれなかった。
極東の港町で、一人の男の途方もない野望が、いよいよ具体的な形を伴って動き出そうとしていたのである。




