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猫と横浜  作者: のらしろ
第二部 結婚するぞ 〜起業編〜

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第61話 三人目の研究者と漢方



 新緑が美しい五月。

 金田病院の日常業務は、小泉ハナ院長とメアリー先生という二人の優秀な医師の采配により、驚くほどスムーズに回り始めていた。


 俺は「カンファレンスでの知恵袋(PCカンニング係)」と「面倒な外国人患者のボッタクリ対応」に専念できるようになり、いよいよ本格的な『病理研究』へと大きく舵を切る決意を固めた。


 そのために、わざわざヨーロッパからゾフィアとテレサという二人の若き才能を招いたのだ。

 そして、俺の研究室ラボの戦力は、さらに増強されることになっていた。


「ミスター・カネダ! 例の彼女を乗せた船が、今日横浜に着くそうですよ!」


 ある日の午前中、オランダ商人のヨハンさんが、息を切らせて病院の事務室に飛び込んできた。

 つい先日、ヨハンさんの紹介で、フランスからまた一人の女性研究者がこの病院を訪ねてくることになっていたのだ。

 旅費は全額俺の方で持つ約束で、手付金としてヨハンさんに渡した五十円の他に、追加で二百円(現在の価値で約四百万円)を支払っていた。


 俺たちがベルリンに渡った時の豪華客船の費用(一人四百円)と比べれば格段に安く済んでいるが、それはヨハンさんが貿易の伝手を使って、彼女を「貨客船(貨物船の客室)」に荷物と一緒に最低限の運賃で乗せてもらったからだという。


「よし! 結さん、横浜港へ迎えに行こう!」


「はい、一様! 新しいお仲間ですね!」


 俺は、白衣を脱いでジャケットを羽織り、結さんと一緒に人力車で横浜港へと向かった。

 初夏の日差しが降り注ぐ波止場には、すでに巨大な貨客船が接岸し、慌ただしく荷下ろしが行われていた。


 だが、待てど暮らせど、船からはそれらしき女性が下りてきそうにない。


「荷降ろしに時間がかかっているようですね。ミスター・カネダ、奥様、よろしければあちらのホテルでお茶でもいかがですか?」


 出迎えに同行してくれていたヨハンさんが、気を利かせて提案してくれた。

 俺と結さんは頷き、ヨハンさんに「彼女が出てきたら知らせてくれ」と一言断ってから、近くにあるあの高級ホテルのラウンジへと向かった。


 冷たい紅茶を飲みながら、結さんと病院のこれからの展望について語り合っていると、三十分ほどして、ホテルのボーイが銀色のお盆に乗せた伝言メモを俺のテーブルに運んできた。


『ヨハン様より。「船から紹介したい女性が出てきた」とのことでございます』


「来たな。結さん、行こう」


 俺たちは急ぎ精算を済ませて、再び波止場へと小走りで向かった。

 潮風が吹き抜ける岸壁に、ヨハンさんと並んで、大きな革のトランクを足元に置いた一人の若い女性が立っていた。


 シンプルな、だがどこか洗練されたラインのドレスを着ている。

 長旅の疲労があるのか、色白の肌は少し青ざめ、表情は暗かった。

 だが、俺と目が合った瞬間、彼女はスッと背筋を伸ばした。

 その深い青色の目には、ギラギラとした……いや、静かに燃えるような強い光が宿っていた。


 『目に力が宿っている』という表現が、これほど似合う女性は初めてだ。


「初めまして。

 あなたが、ミスター・カネダですね」


 彼女は、少し訛りのある英語で、凛とした声で名乗った。


「ソフィア・デュポンと申します。

 二十四歳です」


 彼女の略歴は、すでにヨハンさんからの手紙で聞いていた。

 フランスの一般家庭育ちだったが、大学在学中に両親を流行り病(おそらくコレラか何かだろう)で亡くした。


 その後、苦学しながら大学を卒業し、両親を奪った病気の研究を志したという。

 だが、当時のヨーロッパの学術界は、ゾフィアたちの時と同様に、女性というだけで分厚い壁に阻まれる厳しい世界だった。

 男女の壁に挟まれて研究の先行きが見えなくなった時、ヨハンさんの伝手で俺からの「性別不問、研究の自由と潤沢な資金あり」という誘いを聞き、文字通り身の回りの物だけをトランクに詰め込んで、二つ返事で日本へ飛んできたらしい。


 この時代において、女性で二十四歳という年齢が若いのかどうかは判断が難しいが、研究者としては、まだ何ら大きな成果を出していない「駆け出し」の扱いになる。


 しかし。


 ソフィア・デュポン。


 俺は、彼女の名前を聞いただけで、妙な確信を持った。


「デュポン、ですか。……いい名前ですね」


 縁起がいい。科学や化学の分野に進むのならば、この名はあまりにも縁起が良すぎる。(まさか、あの令和の世界にも存在する巨大化学メーカーの一族と関係があるわけではないだろうが)


 俺は完全にその「名前の響き」と、彼女の目ヂカラが気に入り、その場で笑顔で握手を求めた。


「ようこそ、日本へ。

 ソフィア。

 今日から君は、金田病院の創薬研究室の正規メンバーだ」


「……!

 ありがとうございます、ミスター・カネダ!」


 ソフィアの暗かった表情が、パッと花が開くように明るくなった。

 その後は、ヨハンさんと一緒に人力車に分乗して病院に向かった。

 到着するなり、俺は院長室にうちのスタッフたち(メアリー先生、小泉先生、ゾフィア、テレサ、そして明日香さんとイルサさん)を集め、ソフィアを紹介した。


「彼女が、うちの研究部門に加わる三人目のメンバーだ。

 助手ではなく、正規の研究者として迎える」


 同年代のヨーロッパ出身の女性研究者が増えたことで、ゾフィアとテレサは歓声を上げてソフィアを歓迎した。これでラボ(タイル張りの特別研究室)は、三人の優秀な女性科学者たちによって、さらに活気づくことだろう。

 だが、俺の構想はこれで終わりではなかった。


「……そろそろ、日本人研究者も必要かな」


 俺は、研究室で白衣に着替えた彼女たちの熱気あふれる議論を眺めながら、腕を組んで考えていた。

 西洋の化学や細菌学も最重要課題だが、俺は『漢方薬』の効能も並行して科学的に扱いたいと思っていたのだ。


 俺は自室に戻り、PCを開いた。

 以前から、漢方の名著の抜粋部分を(ローカルの百科事典から)検索し、ノートに書き写してまとめていたのだ。

 たまたま見つけたのが、漢方の三大古典とか言われている『傷寒論しょうかんろん』などの記述だった。


 数日後、俺はその抜粋をまとめたノートを、病院の主要スタッフ全員(研究チームと医師チーム)の前にドンと置いた。


「これを見てくれ。日本の、いや東洋の伝統的な医学書の一部だ」


 俺が説明を始めると、皆、不思議そうな顔でノートを覗き込んだ。


「昨今はやりの細菌学とは全く別次元のアプローチになるが、これも古くから東洋で蓄積されてきた病気治療の手段だ。迷信や呪術のような怪しいものも多く混ざっているのは知っているが……例えば『葛根湯』など、実際に発汗作用や解熱効果のあるものもある」


 俺は、小泉先生とソフィアに視線を向けた。


「俺がやりたいのは、これらの伝統的な生薬の成分を、君たちの化学の力で分析することだ。本当に効果のある治療法を、細菌学の研究や臨床データと照らし合わせて科学的に証明し、新しい薬として精製していきたい」


 俺は、以前指示を出した『結核の特効薬開発』の次のテーマ、あるいは並行して進めるテーマとして、このノートを彼女たちに渡しておいた。


 ちなみに、本丸である結核については、やっと重症の結核患者から痰のサンプルをシャーレで提供してもらったばかりだ。

 これから暗視野顕微鏡で結核菌の姿を探し出し、分離して培養するという、気の遠くなるような基礎研究の入り口に立ったレベルだった。


「漢方の科学的分析……!

 ミスター・カネダ、これは非常に興味深いアプローチですわ!」


 ソフィアが目を輝かせてノートを手に取った。

 ゾフィアとテレサも、未知の東洋の知識に興味津々だ。


「よし。

 これでうちの研究室は、西洋の細菌学と東洋の生薬学のハイブリッドになるぞ」


 俺は、彼女たちの頼もしい横顔を見ながら、ニヤリと笑った。

 もぐりの医者から始まった俺の野望は、いよいよ『世界初の総合製薬ベンチャー』としての形を整えつつあった。



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