第60話 カンファレンスとローカルAI
新緑が眩しい季節を迎え、金田病院の玄関口は、かつての俺の屋敷以上に賑わいを見せるようになっていた。
徐々にではあるが、この病院にやってくる患者の層に明らかな変化が生じていたのだ。
夜の街で遊んできた「紳士諸君」以外の患者……つまり、真っ当な病気を抱えた一般の患者たちも、ぽつりぽつりと増え始めていた。
「そろそろ、その『一般的な診察』に対して、真剣に向き合う時が来たな」
俺は院長室(という名の、事務仕事をする部屋)で、帳簿をめくりながら一人ごちた。
ここ金田病院にやって来る患者のほとんどは、俺の個人的な付き合いからの紹介か、山手という高級住宅街の立地もあって、いわゆる「上流階級」に属する人たちが多い。
彼らは金払いこそ良いが、その分、扱いが非常に難しい。
「先生、うちの息子が昨晩から高熱を出しまして……どうか、あの魔法の注射で治してやってくださらんか!」
「奥様が原因不明の腹痛で苦しんでおられます!
名医の先生なら、すぐに治せましょう!」
流石に、受付で「ノー! 俺が先だ!」と怒鳴り散らすようなモンスターペイシェントと呼べそうなのは、相変わらず欧米の船乗りやならず者くらいだ。
だが、日本の名士たちは別の意味で厄介だった。
彼らは俺たちを「何でも治せる神様」のように過大評価しており、少しでも期待に添えない結果になれば、病院の評判に致命的な傷がつきかねない。
割と最近、特に増えてきているのが、そうした名士たちの「子供」の診察依頼だった。
この時代、乳幼児の死亡率は現代とは比べ物にならないほど高い。
親たちの切迫感は、梅毒に怯える紳士たちのそれとは種類が違い、非常に重いプレッシャーとしてのしかかってくる。
「一様、今日も小児の患者様が三名ほど……」
診察の最前線に立っている小泉ハナ先生が、疲れた顔で報告にやってきた。
「お疲れ様、ハナさん。一人で背負い込むなよ」
俺は彼女を労い、冷たいお茶を差し出した。
診察は原則として小泉先生(とメアリー先生)に一任している。
だが、彼女たちが診察し、少しでも「危ない」と感じるような難しい症例であれば、すぐに入院(あるいは別室で待機)させて、病院の主要スタッフ全員で相談する形をとるようにルール化していた。
そう、現代医療では当たり前の『カンファレンス(症例検討会)』の導入である。
「よし、ハナさん。
今日の午後、全員を集めてカンファレンスをやろう」
午後。
院長室に、小泉先生、メアリー先生、そして研究室からゾフィアとテレサも招集された。
白衣姿の女性陣に囲まれ、俺は黒板の前に立った。
「最初の症例は……五歳の男児。
三日前からの高熱、激しい咳、そして呼吸困難か。
ハナ先生の見立ては?」
「はい。
聴診器の所音から、気管支炎、あるいは重度の肺炎が疑われます。
ですが、この高熱の持続と、痰の多さは……」
ハナ先生がカルテを読み上げながら、苦渋の表情を浮かべる。
この時代の医療技術では、肺炎は命に関わる重篤な病だ。抗生物質がなければ、ただ氷枕で冷やし、栄養をつけるくらいしか対処法がない。
「メアリー先生はどう見る?」
「……ジフテリアの可能性も否定できませんわ。
喉の奥に偽膜(白い膜)ができていなければよいのですが」
二人の正規の医師が、深刻な顔で議論を交わす。
そこで役立つのが、俺の『チート兵器』だ。
「ちょっと待ってくれ。
俺も、以前南米で似たような症例を見たことがある……気がする。
少し『文献』を調べてみよう」
俺はそう言って、皆に背を向け、机の上に置いた分厚い本(の陰に隠したノートPC)を開いた。
こっそりと電源を入れ、キーボードを叩く。
俺のPCのSSDには、通信料をケチるために、ネット環境のない場所でもローカルで動く軽量なAI環境(と、膨大な『家庭の医学』や百科事典のテキストデータ)が突っ込んである。
貧乏探偵だった時代に、出先でネットに繋げなくても調べ物ができるようにと構築しておいた、涙ぐましい節約の結晶だ。
俺は素早く、ハナ先生から聞いた症状(五歳、高熱、激しい咳、呼吸困難、痰)をキーワードとして入力し、ローカルAIに「推定される病名と、明冶時代の医療環境でも可能な対処法」を検索・推論させた。
「しかし……我ながら、本当に良い時代(令和)から持ち物を持ってきたものだ」
画面に次々と出力される推論結果を見ながら、俺は内心で感嘆した。
もちろん、クラウドに繋がった巨大な最新AIには及ばない。
だが、俺が要求しているのは、あくまで「明冶二十年の医者たちに、ヒントを与えるための情報」だ。
一般的な病院としても、小泉先生やメアリー先生の能力は十分すぎるほど高い。
あえて俺のPCがないとここは危ない……なんてことはない。
だが、このローカルAIは凄い。
俺が入力した症状から、いくつかの可能性(マイコプラズマ肺炎、百日咳など)を提示し、さらに「水分補給の重要性」や「物理的な気道の確保(加湿など)」といった、当時としては画期的なアドバイスを弾き出してくれる。
俺は画面を閉じ、振り返って皆に向き直った。
「……思い出した。百日咳、あるいは非定型肺炎の可能性が高いな」
俺がもっともらしい顔で(カンニングした情報を)語り始めると、二人の女医はハッと顔を上げた。
「ヒャクニチゼキ……!
確かに、あの特有の咳の音は……」
「非定型肺炎ですか。
なるほど、それならば……」
俺はさらに、AIからのアドバイスを「南米の知恵」として付け加える。
「まずは、部屋の湿度を徹底的に上げること。
蒸気を吸わせて、気道を楽にしてやれ。
それから、脱水症状が一番怖い。
ゾフィアたちが作ってくれた『経口補水液(塩と砂糖の水)』を、少しずつでもいいから絶え間なく飲ませるんだ」
「蒸気吸入と、経口補水液……!
わかりました、すぐに指示を出します!」
ハナ先生が目を輝かせて立ち上がった。
俺の、この(ネットで医療小説を書くレベルの)情報提供によって、明冶時代の名医たちの診断は飛躍的に精度を増す。
どこまで俺の素人判断(AI頼み)が信用できるかは不安もあるが、この時代にはハナ先生やメアリー先生という「本物の医者」がいる。
彼女たちが俺の情報を医学的知見でフィルタリングしてくれるから、致命的なミス(酷いこと)にはならないという安心感があった。
とはいえ、万能ではない。
俺のPCがいくら正確な病名を弾き出しても、対処する方法が限られているのだ。
いきなり「ステージⅣの胃がんです」と診断が出たところで、開腹手術の技術も抗がん剤もないこの時代では、どうしようもない。
それ以前に、結核ですら、まだストレプトマイシンを量産できない俺たちにとっては不治の病の域を出ないのだ。
「……俺たちの戦いは、まだ始まったばかりだ」
俺は、カンファレンスを終えて足早に病室へと向かうハナ先生の後ろ姿を見送りながら、固く拳を握りしめた。
PCの知識による的確な診断アシストと、ゾフィアたちが進める新たな薬の開発。
そして、ここにやってくる患者たちへの真摯な治療。
俺たちは、自分たちの限界を自覚しつつも、この三つの車輪を必死に回し始めていた。




