第59話 研究室の稼働と新薬開発
新年度となる四月。
金田病院の組織改革は、怒涛の勢いで進められた。
まずは、ドイツから連れてきたゾフィアとテレサの「職場」と「住まい」の確保だ。
彼女たち二人の生活拠点は、俺や結さんたちが住んでいる母屋(旧・イタリア領事館の居住区画)の一室をまとめ、立派な相部屋として用意した。
初めての極東暮らしで心細いだろうから、当面は一緒の方が安心だろうという配慮だ。
「オー!
こんなに広くて明るい部屋、ベルリンの下宿よりずっと快適ですわ!」
「ベッドもフカフカ!
ミスター・カネダ、ありがとうございます!」
二人は大喜びで荷物を解いていた。
そして、肝心の「研究所」の場所だが。
俺は、病院の二階にある、南向きで最も日当たりが良く、面積も広い部屋をメインの実験室に充てることにした。
さらに、一階にある、かつて俺が『手術室代わり』として壁も床も真っ白なタイル張りに改装させた部屋も、細菌を扱うための「特別研究室」として彼女たちに明け渡すことにしたのだ。
「タイル張りなら、試薬や培養液をこぼしてもすぐに水洗いできるし、消毒も徹底しやすいからな」
「素晴らしい環境ですわ、一様!
ヨーロッパの大学でも、これほど清潔なラボはそうそうありません!」
ゾフィアが興奮気味にタイルを撫でる。
そこに、俺たちがあの田中製造所から持ち帰った『暗視野顕微鏡(第二号機)』をはじめ、ヨハンさん経由でヨーロッパから買い付けたビーカー、フラスコ、シャーレなどの大量のガラス器具、そして大きな実験用の作業机を運び込んだ。
「さあ、ここが君たちの戦場だ。
今日から存分に暴れてくれ」
俺が窓際に顕微鏡をセットし、二人にラボの鍵を手渡すと、彼女たちは姿勢を正し、軍人のように敬礼してみせた。
「ハッ!
お任せください、所長!」
「テレサ、私たちは所長じゃなくて『メアリー代表』の部下よ。
ミスター・カネダは『オーナー』です」
「アー、ソウダッタ!」
日本語とドイツ語が混ざった二人のやり取りに、俺は苦笑した。
当面の彼女たちの主な仕事は、病院に治療にやってくる「紳士諸君」の血液サンプルから、あの梅毒の元凶である『スピロヘータ』を探し出し、ペニシリンの効き目を顕微鏡下で確認・記録していくことだ。
俺はしばらくの間、自室に引きこもり、金庫の中に隠してある『オーパーツ(令和のAI搭載デジタル顕微鏡)』を使って、こっそりと彼女たちの診断結果をダブルチェックするつもりでいた。
いくら優秀とはいえ、暗視野顕微鏡を使ったスピロヘータの観察は、まだこの時代では未知の技術だ。見落としがあってはマズい。
だが、俺の心配は杞憂に終わった。
ゾフィアの観察眼は驚くほど鋭く、テレサの手際も日に日に上達していった。
一週間も経たないうちに、俺が裏で確認するまでもなく、彼女たちは正確に病原体を特定できるようになっていたのだ。
「よし、梅毒のルーティンワークは完全に任せられそうだな。
……次は、本丸だ」
俺は、研究所のメンバー(メアリー代表、ゾフィア、テレサ)と、病院長の小泉ハナさんをラボに集めた。
「ペニシリンの量産体制は、君たちのおかげで安定してきた。
だが、俺たちの目標は梅毒の撲滅だけじゃない。
次は……『結核』だ」
俺がその単語を口にした瞬間、ラボの空気がピンと張り詰めた。
結核。
当時の日本、いや世界中で猛威を振るい、不治の病として恐れられていた「労咳」。
コッホが結核菌を発見したのは一八八二年(明冶十五年)だが、この明冶二十一年現在、有効な治療薬は影も形も存在していない。
「結核の、治療薬……?
そんなものが、作れるのですか!?」
ハナさんが震える声で尋ねる。
「ああ。放線菌(土壌中の微生物)の仲間から、結核菌を死滅させる物質を抽出できるはずだ。
まずは、その敵の姿を正確に捉え、培養することから始める」
実はこれ、俺のオーパーツと未来の知識を組み合わせれば、意外とショートカットできるのだ。
何せ、俺はPCのデータで「結核菌がどういう形をしているか」を知っている。
患者の痰からそれを探し出し、暗視野顕微鏡や俺のデジタル顕微鏡で特定し、他の雑菌からうまく分離して培養液で増やしていけば……あら簡単。
世界初ではないけど生きた結核菌を観察するのは多分初になるだろう……いや、とっくにコッホさんあたりはしているな。
だが俺達が目指すのは治療という、ノーベル賞級のプロジェクトがスタートするわけだ。
「これには、病院関係者全員の協力が必要だ。
ハナさん、結核と思われる患者が来たら、細心の注意を払って痰のサンプルを採取してくれ。
ゾフィアとテレサは、それを徹底的に分析し、培養を試みるんだ」
俺の言葉に、全員が力強く頷いた。
これは、人類の歴史を変える戦いになる。
だが、結核の特効薬開発は、一朝一夕で成し遂げられるものではない。何年、いや十数年かかるかもしれない長期戦だ。
そこで俺は、病院の収益源と、世間の「金田病院ブランド」を高めるため、もっと『簡単に作れて、実用的な薬』の開発も並行して進めさせることにした。
「あまり手を広げすぎるとパンクするから、できることからでいい。例えば……『解熱鎮痛剤』だ」
俺が黒板に化学式(の簡単な図解)を描きながら説明する。
「柳の樹皮から抽出される『サリシン』という成分がある。
これを化学的に少し弄ってアセチル化すれば、胃への負担が少ない強力な解熱鎮痛剤(アスピリンの原型)ができるはずだ。
ゾフィア、君の化学の知識なら合成できるだろう?」
「柳の樹皮、ですか?
……なるほど。構造式さえ分かれば、実験室レベルでの合成は可能だと思います!」
ゾフィアが目を輝かせてメモを取る。
「それから、夏に向けての対策だ。
水に塩と砂糖を絶妙な配合で溶かした『経口補水液』。これを作る」
「塩と砂糖の水、ですか?
それがお薬に……?」
メアリーさんが不思議そうに首を傾げた。
無理もない。この時代、冷房病(クーラー病)はないが、炎天下での過酷な肉体労働による「熱射病(熱中症)」は確実に存在するはずだ。
ただ、それが「水分と電解質の喪失」によるものだという医学的認識が甘いだけである。
「ああ。コレラのような激しい下痢や、夏の脱水症状には、ただの水を飲むより劇的に効く。
点滴の代わりになる『飲む点滴』だ。配合比率を研究してくれ」
さらに俺は、日本の伝統的な生薬(漢方)にも目を向けた。
「喉の痛みを和らげる生薬成分を練り込んだ『のど飴』。
これも、パン工場(離れ)の設備を使えば簡単に作れるはずだ。
美味しくて効く薬なら、飛ぶように売れるぞ」
解熱剤、経口補水液、のど飴。
俺の次々と繰り出される(未来の市販薬の)アイデアに、研究スタッフたちは圧倒されながらも、やる気に満ち溢れた顔でラボへと散っていった。
よし。
これで創薬部門は、長期的な大目標(結核)と、短期的な収益目標(実用薬)の両輪で回り始めた。
もぐりの医者から、本格的な「製薬ベンチャー」への脱皮。
俺の起業家としての血が、騒ぎ始めていた。




