第58話 凱旋と頼もしい(?)留守番部隊
明冶二十一年の三月。
長かった船旅を終え、俺たちを乗せた客船は、予定通り年度末ギリギリに横浜港へと滑り込んだ。
「着いた……!
やっと帰ってきたぞ、日本に!」
甲板から懐かしい横浜の街並みを見下ろし、俺は大きく深呼吸をした。
潮の香りと、蒸気船の煙、そして街の活気が混ざり合った、この時代特有の匂いだ。
ベルリンの凍てつくような冬から一転、日本のうららかな春の日差しが、長旅でガチガチに凝り固まった体を優しく解きほぐしてくれる。
「一様、無事に戻ってこられて本当に良かったですわ」
隣に立つ結さんが、俺の腕にそっと触れて安堵の微笑みを浮かべた。
その背後では、初めて踏む極東の地に目を白黒させているポーランド人の女性研究者、ゾフィアとテレサが、欄干から身を乗り出さんばかりに景色を見つめていた。
「オー……ここが、ニホン。
ヨコハマですか」
「ゾフィア、見て!
あんなにたくさんの船が!」
「二人とも、落ちないように気をつけてね。
ここはとても活気のある素晴らしい街よ」
メアリーさんが、姉のように二人を窘めながら笑っている。
タラップを下りて岸壁に降り立つと、そこには俺の目を疑うような光景が広がっていた。
「金田先生ーっ!
田中社長ーっ!
よくぞご無事で!」
「バンザーイ!
バンザーイ!」
なんだなんだ!?
小泉ハナさんを筆頭に、第二国立銀行の柳澤頭取、鈴谷の旦那など、横浜の財界の重鎮たちがズラリと並んで俺たちを出迎えてくれていたのだ。
おまけに、なぜか日の丸の小旗まで振っている連中までいる。
その熱烈な歓迎ぶりたるや、まるで日露戦争から帰還した東郷平八郎か、はたまた凱旋将軍のようである。
「いやはや、先生は本当に日本の誇りですな!
コッホ研究所での大成功の噂は、すでに電信でこちらにも届いておりますぞ!」
柳澤頭取が感極まったように俺の両手を握りしめ、ブンブンと上下に振った。
「あの『暗視野顕微鏡』の特許の件も、我が銀行が全力でバックアップいたしますゆえ!」
「いやいや、金田先生の『ペニシリン論文』こそが真の奇跡です!
これで横浜から梅毒の恐怖が消え去るのですからな!」
鈴谷さんも負けじと俺の肩をバンバン叩く。
なんだか、俺がいない四ヶ月の間に、俺の評価が「もぐりの有能な医者」から「国家の英雄レベルの医学者」へと勝手にインフレしている気がする。
まあ、悪い気はしないが、あまりハードルを上げられると今後の「カンニング創薬」がやりづらくなるんだが。
そんな熱狂的な歓迎の様子を、ドイツから連れてきたゾフィアとテレサは、ぽかんと口を開けて見つめていた。
ヨーロッパでは「女性である」というだけで冷遇されていた彼女たちにとって、自分たちの新しい雇い主(俺)が、極東のアジアでこれほどの大人物(に見える)として崇め奉られていることは、良い意味で強烈なカルチャーショックだったようだ。
「ミスター・カネダは……ニホンの王様ですか?」
「シッ、テレサ!
失礼よ。
でも、すごいVIPなのは間違いないわね……」
二人がヒソヒソと囁き合っているのが聞こえる。
違う、俺はただの元・三流私立探偵だ。
王様でもなければVIPでもない。
強いて言うなら「横浜のボッタクリ病院長兼パン屋の元締め」である。
俺たちはその足で、横浜港を代表するあの高級ホテルへと直行した。
集まった財界人や、どこから聞きつけたのか新聞記者らしき連中を前に、田中社長と一緒に『成果発表会(という名の自慢大会)』を行うことになったのだ。
田中社長が暗視野顕微鏡の成功とコッホ先生の狂乱ぶりを熱弁し、俺は(あくまでメアリーたちとの共同研究のサポート役として)ペニシリンの可能性について、もっともらしく語った。
フラッシュ(マグネシウムの閃光)が焚かれ、俺たちはすっかり時の人である。
怒涛の歓迎行事と発表会を終え、ようやく解散の運びとなった。
俺たちはホテルが手配してくれた人力車に分乗し、山手の丘の上にある我が家——元イタリア領事館を改築した『金田病院』へと向かった。
病院の立派な門をくぐると、そこには見慣れた顔ぶれが俺たちを待っていた。
「一様! お帰りなさいませ!」
「ミスター・カネダ!
待ちくたびれましたわよ!」
白衣姿の明日香さんとイルサさんが、目に涙を浮かべて駆け寄ってくる。
その後ろでは、少し背が伸びたユキをはじめとする三十人近い孤児たちが、「先生ー!」「おかえりなさーい!」と元気いっぱいに飛び跳ねていた。
「ただいま。
みんな、立派に留守を守ってくれたみたいだな」
俺が荷物を下ろして彼女たちを労うと、明日香さんが胸を張ってふんす、と鼻息を鳴らした。
「ええ、もちろん!
一様がご不在の間、態度の大きい外国人患者には、予定通り『院長不在の特別割増料金(通常の三十倍)』をビシッと請求してやりましたわ!
それでも泣きついてくるお馬鹿な殿方が後を絶たなくて、もう病院の金庫の扉が閉まらないくらいパンパンですのよ!」
……マジか。
三十倍ってことは、一回の梅毒注射で現在の価値にして数百万から一千万円近い額だ。
それをポンと払う連中がいるのも恐ろしいが、顔色一つ変えずにそれを取り立てる明日香さんたちも相当に逞しくなっている。
さすが元高級娼婦。
男の足元を見るスキルにかけては、俺のハードボイルドな凄みなど遠く及ばない。
「パンの事業も絶好調です!
ホテルの支配人さんが、『カレーパンが足りない! 明日は倍持ってきてくれ!』って毎日のように仰るんですから!」
ユキが誇らしげに報告してくれる。
その後ろで、小麦粉で真っ白になった子供たちがウンウンと頷いている。
どうやら、俺が不在の四ヶ月間、金田病院とパン事業は全く揺らぐことなく、むしろ右肩上がりで成長を続けていたようだ。
俺がいなくても回る優秀な組織ができつつあるのは喜ばしい。
喜ばしいのだが……。
少しだけ、ほんの少しだけ、院長としての俺の威厳が「単なる集金マシーンの設計者」に成り下がっているような、一抹の寂しさを覚えるのは贅沢な悩みだろうか。
「まあ、みんなよくやってくれた。本当にありがとう」
俺は気を取り直し、後ろに控えている二人を前に促した。
「紹介しよう。
ドイツのベルリンから連れてきた、新しい仲間だ。
ゾフィア・レヴィンスカと、テレサ・ルジツカ。
彼女たちは、これからのうちの『創薬事業』の要になる超優秀な研究者だ」
ゾフィアとテレサが、少し緊張した面持ちで「ハジメマシテ」とたどたどしい日本語で挨拶をする。
船の中で、メアリーさんと結さんから特訓を受けた成果だ。
明日香さんとイルサさんは、すぐに彼女たちの手を両手で握り、歓迎の意を表した。
「まあ、遠いところからよくいらっしゃいました!
私、明日香と申します。
日本のことなら何でも聞いてちょうだいね!」
「オー!
ワタシ、イルサよ。
ヨーロッパの言葉ならワタシに通訳を任せて!」
言葉の壁はあるが、同じ病院を支える女性陣として、すぐに打ち解けられそうな雰囲気だ。
皆で荷解きを済ませ、一息ついたところで、俺は小泉ハナさんに病院の現状を尋ねた。
「ハナさん、入院患者の様子はどうだい?」
「はい、一様。現在、二階の特別個室に数名の患者様がいらっしゃいます。
皆様、日本人のお金持ちの方ばかりでして……」
「病名は?」
「……全員、『あれ(梅毒)』でございます」
ハナさんが少し顔を赤らめて答える。
「まあ、予測はしていたけど、極端だよな……」
俺は苦笑いしながらカルテの束をめくった。
外国人患者はボッタクリ価格で日帰り注射(それでも来る)だが、紹介状を持った日本人の名士たちは、世間体を気にして「極秘の長期療養」という名目で入院していく。
男はみんな「そっちの遊び」が好きだから仕方がないのだろうが、明冶のお偉いさん方の性事情が、俺の近代的な病院のベッドを占拠していると思うと、なんともシュールな気分である。
「よし。皆、大広間に集まってくれ!」
俺はパンとポンと手を叩き、子供たちを除く、病院の主要スタッフ全員を呼び集めた。
メンバーは、俺、結さん、メアリーさん、小泉ハナさん、明日香さん、イルサさん、そして新顔のゾフィアとテレサ。
美女七人に男一人という、相変わらずの逆ハーレム会議である。
「四月の新年度から、この病院の体制について、きちんと組織を固めることにする」
俺は黒板の前に立ち、チョークで大きな四角を描いた。
「これからは、この『金田病院』を傘下に持つ本格的な『研究所』を置く。
ペニシリンの量産化や、今後開発する新たな薬の製造は、すべてその研究所で行うことにする」
「研究所、ですか!」
ゾフィアとテレサの目が輝いた。
「そうだ。
そして、その研究所の『代表』には、アメリカの正規医師資格を持ち、今回のペニシリン論文の立役者であるメアリー先生に就任してもらう」
「オー!
私がトップですか!?」
メアリーさんが驚きの声を上げる。
「さらに、研究所の『副代表』を兼任する形で、この金田病院の『病院長』には、済生学舎出のエリートである小泉ハナ先生に就任してもらう」
「ええっ!?
わ、私が病院長ですか!?」
ハナさんが立ち上がり、オロオロと俺とメアリーさんを交互に見つめた。
「一様、私のような若輩者が、あんなに立派な患者様たち(お金持ちの梅毒患者)を束ねる病院の長だなんて、とても……!」
「大丈夫だ、ハナさん。
資格の面でも実力の面でも、君たちがトップに立つのが一番対外的な収まりが良い。
お役所や東京の偉いさん方も、君たちの名前があれば文句は言えないからな」
俺はニヤリと笑った。
「俺はあくまで『オーナー兼創薬の裏方』に徹するつもりだ。
面倒な事務作業やクレーム処理は俺がやる。
君たちは、純粋に医学と研究に没頭してくれ」
俺の言葉に、二人の女医は顔を見合わせ、深く頷いた。
「ユキたちに任せているパンの製造販売は、今のところ俺の直轄でそのままにしておく。
だが、あれもカレーパンの売上がエグいことになっているから、いずれは『製パン会社』として組織化(法人化)していかなければならないだろうな」
本当は、ペニシリンが量産できた暁には、それを全国に売り捌くための「販売専門の会社」も作りたいところだが、欲張るとパンクする。
とりあえず今は、『創薬部門(研究所)』を立ち上げ、安定稼働させることが最優先事項だ。
「よし、体制は決まった。
みんな、俺の無茶振りに付き合ってくれて感謝する。
明日からまた、忙しくなるぞ!」
俺が会議を締めくくろうとした、その時だった。
「ニャ〜〜ン」
という、甘ったるく、どこか人を舐め腐ったような鳴き声と共に、診察室のドアの隙間から、あの「謎の猫」が悠然と姿を現した。
「あら、いらっしゃい」
結さんがしゃがみ込むと、猫はトコトコと歩み寄り、結さんの豊かな胸元に顔をスリスリと擦り付け始めた。
そして、俺の方をチラリと一瞥し、「フッ」と鼻で笑うような、明らかにマウントを取るようなスケベ顔を見せつけた。
「……お前、俺がいない四ヶ月間、どこで何をしてたんだ」
俺がジト目で睨みつけると、猫はゴロゴロと喉を鳴らしながら、今度は新顔のゾフィアとテレサの足元へと移動し、彼女たちのスカートの裾にじゃれつき始めた。
「オー!
カワイイ・ネコチャン!」
「フワフワですねえ!」
テレサが顔をほころばせて抱き上げると、猫は抵抗するどころか、彼女の腕の中で完全にリラックスし、あろうことか「ハラテン(お腹を見せる服従ポーズ)」の体勢になったではないか。
「おい!
お前、俺の前では絶対にハラテンしたことないくせに!
初対面の美女には即オチかよ!」
俺が抗議の声を上げると、女性陣は一斉にクスクスと笑い出した。
「ふふっ、一様。
猫ちゃんも、新しい女性スタッフを大歓迎しているみたいですわよ」
「ミスター・カネダは、猫にも嫉妬するんですね!」
明日香さんとイルサさんがからかってくる。
……絶対にオスだ、こいつ。
しかも、俺をこの明冶時代にタイムスリップさせた張本人のくせに、俺に対するリスペクトが一切感じられない。
まあいい。
この猫がもたらした奇妙な縁が、俺をここまで連れてきてくれたのは事実だ。
美女たちと、一匹のスケベ猫。
そして、俺の頭の中にある未来の知識。
極東の港町・横浜から、俺たちの『医学革命』の第二幕が、今、賑やかに上がろうとしていた。




