第57話 リクルート
ベルリン大学のコッホ研究所での「歴史的プレゼン」は大成功に終わり、俺たちはホテルで祝杯を上げた。
田中社長は特許と顕微鏡の注文でホクホク顔だし、メアリーさんは世界的な学者たちに論文を認められて誇らしげだ。
結さんも、俺の事業が国際的に評価されたことを心から喜んでくれている。
だが、俺の「ヨーロッパ洋行」の目的は、これで終わりではない。
むしろ、ここからが本番とも言える。
「さて、北里先生にお願いしていた件だが……」
数日後、俺はホテルのラウンジで、北里柴三郎先生とコーヒーを飲んでいた。
北里先生は、俺が持ち込んだ暗視野顕微鏡の虜になり、今や俺たちの最強の協力者となっている。
「ええ、金田先生。例の『優秀な女性研究者』の件ですね。
心当たりをいくつか当たってみました」
北里先生は、少し困ったように眉をひそめた。
「正直に申し上げますと、今のヨーロッパの学術界でも、女性が研究職として一人立ちするのは極めて困難な状況です。
大学の助手や実験補助員として優秀な成績を収めていても、女性であるというだけでポストが与えられず、不遇をかこっている者は少なくありません」
やはりそうか。
マリー・キュリー(キュリー夫人)がノーベル賞を受賞し、女性科学者の地位を確立するのは、まだ少し先の話だ。
北里先生のような進明な人物であっても、当時の社会通念上、女性研究者を積極的に登用することには限界があったのだろう。
「ですが、先生。
日本の横浜という、極東の地で新しく設立された病院の研究機関……そこでなら、彼女たちも思う存分、腕を振るえるかもしれません」
北里先生は、俺の顔を真っ直ぐに見つめた。
「先生のその『性別や国籍にとらわれない』開かれた精神には、私も深く感銘を受けております。
私の知る限りで、最も優秀で、かつ現状に不満を抱いている女性を一人、ご紹介しましょう」
北里先生の口利きで、後日、俺たちが滞在しているホテルで面接を行うことになった。
約束の時間。
ホテルのラウンジに現れたのは、質素だが仕立ての良いドレスに身を包んだ、知的で意志の強そうな若い女性だった。
「初めまして。
ゾフィア・レヴィンスカと申します」
彼女は、流暢なドイツ語で名乗った。
年齢は二十三歳。ポーランド出身だという。
ポーランド出身の優秀な女性科学者……俺の頭の中の百科事典データが、ピコンと反応した。
マリー・キュリー(旧姓マリア・スクウォドフスカ)と同郷か!
年齢はキュリー夫人より三、四歳上にあたる「先輩」格だ。
キュリー夫人がパリのソルボンヌ大学に進学するために、家庭教師をして資金を貯めていた時期と重なる。
面接の進行は、アメリカの医師免許を持ち、語学も堪能なメアリーさんに一任した。
俺は、結さんと共に傍聴し、時折メアリーさんに通訳してもらうだけだ。
「ミス・レヴィンスカ。
あなたのこれまでの研究内容と、なぜ日本という遠い国でのポストに興味を持たれたのか、お聞かせ願えますか?」
メアリーさんの理路整然とした質問に対し、ゾフィアは臆することなく、堂々と答えた。
彼女が大学の実験室で行ってきた細菌培養の基礎研究や、化学物質の抽出に関する知識は、メアリーさんを唸らせるほど高度なものだった。
「私は、ただ純粋に科学の真理を追究したいのです。
ですが、ここヨーロッパでは、女性が自らの名で研究を発表する機会は皆無に等しい。
……ドクター・メアリー、あなたが小泉先生と共に書き上げたという『ペニシリン』の論文の話は、すでに研究所の噂になっています。
女性が中心となって、世界を変えるような創薬研究ができる環境……それが日本にあるのなら、私は喜んで海を渡ります」
ゾフィアの目には、研究に対する飢餓感と、野心が燃えていた。
俺は直感した。
この女性は、絶対にうちの「創薬事業」の要になる。
メアリーさんが俺に目配せをし、小さく頷いた。
合格だ。
「よし。ミス・レヴィンスカ、採用だ。職場は日本の横浜になるが、君の研究成果に見合った、正当な給金を約束しよう。
ペニシリンの大量生産と、新たな抗生物質の探求……君の力を貸してほしい」
俺がメアリーさんを通じてそう伝えると、ゾフィアの表情がパッと輝いた。
「ありがとうございます、ミスター・カネダ!
……あ、あの、実はもう一つ、お願いがありまして」
ゾフィアは少し言い淀んだ後、身を乗り出した。
「私の同郷の友人で、どうしても研究の道を志したいと願っている少女がいるのです。
彼女も一緒に、日本へ連れて行くことはできませんでしょうか?」
「友人、ですか」
俺は少し考えた。まあ、異国で働く上で、同郷の友人がいるのは心強いだろう。
それに、横浜の病院(旧イタリア領事館)には、部屋ならいくらでもある。
「いいだろう。
明日、その友人を連れてきなさい」
翌日。
ゾフィアが連れてきたのは、『テレサ・ルジツカ』と名乗る、十九歳の少女だった。
ゾフィアの妹分にあたるという彼女は、若さゆえの情熱と、研究者として一人生きていきたいという強い野望を隠そうともしない、アグレッシブな目をしていた。
だが、メアリーさんの面接(口頭試問)の結果は、少し厳しいものだった。
「ミスター・カネダ。
テレサは確かに熱意はありますが、基礎的な化学の知識や実験手技については、まだ未熟ですわ。
即戦力としては少し物足りないかもしれません」
メアリーさんの冷静な評価に、テレサは悔しそうに唇を噛んだ。
「……ですが、私にはやる気があります!
どんな下働きでも、床掃除でもします!
どうか、研究室に置いてください!」
「テレサ……」
ゾフィアが心配そうにテレサの肩を抱く。
即戦力ではないか。
だが、俺の病院の創薬部門は、これから立ち上げるばかりだ。
ペニシリンの製造工程——青カビの培養から抽出、精製に至るまで——は、今のところ俺の知識とイルサさん・明日香さんの手作業に頼っている。
これを本格的に事業化し、大量生産のラインに乗せるには、ゾフィアの頭脳と、彼女を補佐する若く体力のある「助手」が絶対に必要になる。
「……条件がある」
俺は腕を組み、二人のポーランド人女性を見据えた。
「テレサ。
君はまず、ゾフィアの『助手』として、彼女の指示のもとで研究室の基礎から徹底的に学んでもらう。
給金はゾフィアより低くなるが、それで構わないか?」
「はいっ!
もちろん構いません!
ありがとうございます!」
テレサは顔を輝かせ、深く頭を下げた。
よし、これで創薬部門のコアメンバーが揃った。
田中社長の特許申請と顕微鏡の追加受注も、ベルリン大学とコッホ研究所の全面サポートを取り付け、万全の態勢となった。
俺たちのヨーロッパでのミッションは、これにてコンプリートだ。
「よし、日本へ帰ろう。
横浜が俺たちを待っている」
採用を決めたゾフィアとテレサは、すぐにでも移動できるという。
俺は、帰りの船便の手配を急がせた。
行きは優雅な一等客室だったが、急遽二人を追加したため、彼女たちの客室はランクを落としたものになってしまった。
「申し訳ないな。
急な手配で、狭い部屋しか取れなかった」
俺が謝ると、ゾフィアとテレサは顔を見合わせて笑った。
「とんでもありません、ミスター・カネダ。
研究する場所を与えていただけるなら、船底の倉庫でも構わないくらいですわ」
「ええ!
早く日本のラボ(研究室)を見てみたいです!」
彼女たちの不満のない明るい様子に、俺も結さんもホッと胸を撫で下ろした。
こうして、極東のもぐりの医者(俺)、日本の天才職人(田中社長)、アメリカの女医、元男爵夫人(結さん)、そして二人のポーランド人女性研究者という、およそ当時の常識では考えられない多国籍かつ異色のパーティーが結成された。
俺たちは、コッホ研究所の偉大な学者たちと、日本の医学の未来を背負う北里先生に見送られ、ベルリンを後にした。
横浜の金田病院に、この新たな「頭脳」が加わる時。
俺の創薬事業は、いよいよ本格的な産声を上げるのだ。




