第54話 初めて?の洋行
横浜港を出発したフランスの客船は、太平洋からインド洋へと抜ける長い航路を、ゆっくりと、だが力強く進んでいた。
十一月下旬に出航し、予定では一月半ほどの船旅。ドイツのベルリン大学への道のりは、気が遠くなるほど遠い。
「まあ、今回は日本郵船を……って、まだ開通していなかったか」
俺は甲板のデッキチェアに寝そべりながら、海風に吹かれて一人ごちた。
この時代、日本の海運業はまだ発展途上だ。
三菱の岩崎弥太郎率いる郵便汽船三菱会社と、渋沢栄一らが立ち上げた共同運輸会社が熾烈なダンピング競争を繰り広げ、共倒れを防ぐために合併して「日本郵船」が誕生したばかり。
本格的な欧州航路が開設されるのは、もう少し先の話である。
何ぐずぐずしているんだ三菱さんよ、と心の中で悪態をつきつつも、仕方がないので今回はフランス船籍の船のお世話になることになった。
「一様、お寒くはありませんか?」
結さんが、温かい紅茶の入ったカップを二つ持って、甲板に現れた。
彼女は、長旅に備えて新調した仕立ての良いウールのコートに身を包み、潮風に髪をなびかせている。
「ああ、ありがとう。
結さんこそ、船酔いは大丈夫かい?」
「はい。
一様がご用意してくださったお薬(俺がPCの知識で調合した酔い止めもどき)のおかげで、とても快適ですわ」
結さんが俺の隣のデッキチェアに腰を下ろす。
俺にとって初めての海外渡航だが、俺の「南米帰りの(自称)もぐりの医者」という嘘の経歴上、船旅には慣れているという設定を貫かなければならない。
内心では初めて見る大海原のスケールの大きさにビビり散らかしているのだが、そこはハードボイルドに(あるいはただの強がりで)平然を装っている。
「これから一月半、向こうに半月滞在して、帰りにまた一月半。三ヶ月半の長旅になるな」
俺が紅茶をすすると、結さんは優しく微笑んだ。
「でも、一様とこうして長くご一緒できるのは、私にとっては初めてのことで、とても嬉しいです」
「そうだな。
横浜の病院では、外国人患者の相手やパン事業で、ゆっくり話す暇もなかったからな」
現金の他に、俺はポケットに忍ばせたスマートフォンだけを持ち歩き、生命線であるノートPCは、屋敷で見つけたあの大きな金庫に封印してきた。
一応、家庭の医学と百科事典のデータだけはスマフォに移しておいたので、向こうでも調べ物はできなくはない。
充電は、船の発電機から何とか電力を拝借する算段だ。
乗船中は、俺たちにとって思わぬ「蜜月」の期間となった。
結さんとは、鍋島侯爵夫人のお墨付きで婚約したとはいえ、これまでは病院の二階での「同棲」にとどまっていた。
だが、この船の中では、結さんは俺の正式なパートナー(妻扱い)として遇されている。
長くて退屈な船旅、そして毎晩のように開かれる一等船客向けのディナーやダンスパーティー。
そんな非日常の中で、俺たちは急速に距離を縮め、ついには結ばれることとなった。
まあ、結さんも元男爵夫人であるけど、初めてではなかったし、結婚も決まっているのだから、自然な流れといえば自然な流れだ。
……そして、もう一つ。
同行しているメアリーさんとも、実は……。
彼女とは、結さんとの婚約が決まる前、俺が彼女の理不尽な梅毒を治療し、病院に雇い入れた直後からの関係だった。
アメリカ人の彼女は、そのあたりが非常にオープンで、命を救ってくれた俺への「お礼」という名目で、何度か夜を共にしていたのだ。
それを結さんも薄々感づいているのか、あるいは知ってて黙認しているのか。
驚くべきことに、この暇を持て余した船上で、ついにはメアリーさんと結さんが一緒に……という、夢のような(いや、令和の倫理観からすれば完全にアウトな)展開にまで発展してしまうことがあった。
若さゆえの過ちというか、明冶の男の甲斐性というか、俺のハードボイルド路線は完全に崩壊し、第二文芸部の先輩が言っていた異世界ハーレムの主人公そのものになり下がっている。
だが、遊んでばかりいたわけではない。
メアリーさんとは、ドイツで発表する予定の「論文」の内容について、連日連夜、綿密なすり合わせを行っていた。
「ミスター・カネダ。
ペニシリンの製造方法についてですが、あなたの言う『南米のシャーマンの教え』という設定は、コッホ研究所の学者たちには絶対に通用しませんわよ」
メアリーさんが、客室のテーブルに広げた論文の草稿をペンで指し示しながら、鋭く指摘する。
「ああ、分かっている。
だから、あの部分は完全にカットしてごまかすしかない」
「でも、どうやって青カビからあの物質を抽出したと説明するおつもり?」
俺は腕を組み、スマフォの百科事典アプリ(オフライン)で『アレクサンダー・フレミング』の項目をこっそりと確認しながら答えた。
「『細菌のコロニーを培養しているシャーレに、偶然アオカビの胞子が落ちて繁殖した。すると、そのアオカビの周囲だけ、細菌が死滅して透明な円(阻止円)ができているのを発見した』……という、あの有名な神話(史実)をそのまま使おう」
「偶然の発見、ですか。それは……確かに、科学の世界ではよくあることですわね」
メアリーさんは納得したように頷いた。
俺はさらに念を押す。
「シャーマン云々の話は、俺が初期の着想を得たという程度にとどめておいてくれ。もし向こうの学者に『シャーマンから教わった』なんてバカ正直に言おうものなら、オカルト扱いされて、最悪の場合『魔女狩り』みたいな目に遭うぞ」
俺が少し脅すように言うと、メアリーさんは「ノー!」と身震いして、シャーマン設定を論文から完全に削除することに同意してくれた。
しかし、どんどん言い訳が苦しくなってきているな。
自業自得だという面は拭いきれないが、そろそろアカデミックな場面では、俺が表に出ないように(メアリーさんと小泉ハナさんを矢面に立たせるように)立ち回らないと、本当にまずそうだ。
そんなこんなで、論文の推敲と、結さん・メアリーさんとの親密な時間を過ごしているうちに、船はスエズ運河を抜け、地中海へと入った。
そして、洋上で迎えた「年越し」。
明冶二十年が終わり、明冶二十一年(一八八八年)の元日だ。
フランス船の食堂では、大晦日の夜から盛大なカウントダウン・パーティーが開かれ、シャンパンの栓がポンポンと抜かれていた。
「ハッピー・ニュー・イヤー! 一様!」
「あけましておめでとうございます、一様」
着飾ったメアリーさんと、あでやかな着物姿の結さんが、両脇から俺にシャンパングラスをぶつけてくる。
田中社長も、少し顔を赤くしながら「いやあ、船の上で新年を迎えるとは、なんともモダンな経験ですな!」と上機嫌だ。
俺はグラスを傾けながら、満天の星空の下、波の音を聞いた。
昨年は、長野のオークションから始まり、謎の猫に導かれてこの時代にタイムスリップし、病院を立ち上げ、多くの命を救ってきた。
そして今年は、ドイツのコッホ研究所で、歴史を変える論文を発表し、未来のノーベル賞級の研究者たちと対峙するのだ。
「……今年も、忙しくなりそうだ」
俺は、夜風に吹かれながら、静かに、そして不敵に笑った。
待っていろ、ヨーロッパ。
極東から来たもぐりの医者と、天才職人と、二人の美女が、世界の医学の常識をひっくり返してやる。




