第55話 上陸
長かった洋上での年越しと船旅も、ようやく終わりを告げた。
予定よりも少し早まり、一月強でイタリアのナポリに入港。
俺たちはそこから汽車に乗り換え、雪の残るヨーロッパ大陸を北上して、目的地であるドイツ帝国の首都・ベルリンへと向かった。
実は俺も、同行している田中社長も、それぞれの事業を抱えて結構忙しい身だ。
俺は横浜にできたばかりの病院とパン事業、田中社長は東京の製造所。四ヶ月近くも本業を留守にするというのは、経営者としてかなりきつい決断だった。
だが、今回ばかりは致し方ない。
これも医学という「文明の進化」のためだと割り切るしかないのだ。
「それに、この『暗視野顕微鏡』は、人類が病魔と戦う上で絶対に不可欠なツールになる。
いずれ誰かが作り出すものだが、俺がカンニングで少しばかり早く世に出しただけのことだ」
車窓から流れるどんよりとした冬のドイツの景色を眺めながら、俺は一人ごちた。
結さんとメアリーさんは、初めて見るヨーロッパの雪景色に歓声を上げている。
汽車がベルリンのターミナル駅に到着すると、プラットホームには、厚手の外套に身を包み、立派な口髭を蓄えた日本人の紳士が、首を長くして待っていた。
のちの「日本の細菌学の父」、北里柴三郎先生その人である。
「ようこそおいでくださいました、田中社長!
そして金田先生ご一行!」
北里先生は、俺たちを見つけるなり小走りで駆け寄り、両手で田中社長と俺の手を固く握りしめた。
その眼光は鋭く、未知の学問に対する情熱で爛々と輝いている。
俺たちは北里先生の案内で、駅前の豪奢なホテルへと案内された。
だが、ホテルに到着して一息つく間もなく、北里先生の「学者魂」が爆発した。
「金田先生、田中社長!
さあ、もったいぶらずに見せてください!
あの『生きたまま細菌が見える』という魔法の顕微鏡を!」
荷物を解くより先に、北里先生は身を乗り出してせがんできた。
子供がおもちゃをねだるような、純粋で熱烈な眼差しだ。
仕方がない。
俺は田中社長と顔を見合わせ、苦笑いしながら厳重に梱包された木箱を開けた。
「これが、その顕微鏡です」
ホテルの客室はすでに夕闇が迫り、薄暗くなっていた。顕微鏡の威力を十分に発揮するには、光源となる明かりが圧倒的に足りない。
だが、北里先生はそんなことはお構いなしに、自らが研究所から持ち込んでいたというプレパラート(何かの細菌のサンプルらしい)をステージにセットし、ランプの心細い光を頼りに接眼レンズを覗き込んだ。
「……!」
北里先生の動きが、ピタリと止まった。
そして次の瞬間。
「おおおおっ!!
見える!
見えるぞ!
染色していないのに、細菌が……まるで夜空の星のように、はっきりと輪郭を保って動いている!」
静かなホテルの客室に、奇妙な、歓喜の絶叫が響き渡った。
結さんとメアリーさんが、ビクッと肩を揺らす。
北里先生は、何度もレンズから目を離しては顕微鏡の構造を確かめ、再び覗き込むという動作を繰り返し、狂喜乱舞していた。
翌朝。
北里先生は、まるで宝物を扱うように、その重厚な暗視野顕微鏡を自らの両手で大事そうに抱え込み、俺たちを伴ってベルリン大学のコッホ研究所へと向かった。
荘厳な石造りの大学の門をくぐり、俺たちは研究所の建物へと足を踏み入れた。
案内されたのは、応接室ではない。
様々な実験器具と薬品の匂いが充満する、研究の最前線である「ラボ」のど真ん中だった。
そこには、一人の初老のドイツ人紳士が、腕を組んで俺たちを待ち構えていた。
鋭い鷲鼻と、知性の塊のような深い瞳。
ロベルト・コッホ先生、その人である。
「プロフェッサー・コッホ!
ついに到着しました!
これが、私が申し上げた日本の顕微鏡です!」
北里先生が、興奮気味にドイツ語でまくし立てる。
もはや、俺たち「開発者」の挨拶などそっちのけだ。
北里先生は、コッホ先生の前に顕微鏡をドンと置き、自らセッティングを始めた。
「さあ、教授。
覗いてみてください!」
コッホ先生は、半信半疑といった表情で、ゆっくりと顕微鏡を覗き込んだ。
その瞬間、あの北里先生と全く同じ反応が起きた。
「……Mein Gott(我が神よ)!」
コッホ先生が、ドイツ語で感嘆の声を漏らし、目を見開いた。
「なんだこれは……!
背景が完全に沈み込み、細菌だけが光を放って浮き上がって見える!
生きている……細菌が生きたまま観察できるのか!」
そこからは、もう俺たちの入る隙は一ミリもなかった。
コッホ先生と北里先生は、研究室にあるありとあらゆるサンプル(結核菌やコレラ菌など、致死性の高いヤバいものまで)を次々と顕微鏡にセットし、ドイツ語で激しい議論を交わし始めた。
「プロフェッサー、これなら運動性のある細菌の動きもリアルタイムで観察可能です!」
「うむ!
この光の当て方は……コンデンサの構造が革命的だ!」
その熱気にあてられ、研究室にいた他のドイツ人研究者たちもワラワラと集まってきた。
彼らも交代で顕微鏡を覗き込んでは、「ウン・グラープリッヒ(信じられない)!」と叫び、頭を抱えている。
俺と田中社長、そして結さんとメアリーさんは、部屋の隅にポツンと取り残された。
なんと、半日。
彼らは丸半日もの間、俺たちを完全に放置して、一台の顕微鏡を囲んで大興奮の議論を続けていたのである。
「……俺たち、ここに来る必要あったか?」
俺が呆れたように呟くと、田中社長も苦笑いしながら肩をすくめた。
だが、この半日の放置プレイこそが、俺たちの持ち込んだ「武器」が、世界のトップ・オブ・トップの学者たちに完全なる白旗を上げさせた証明だったのだ。




