第50話 顕微鏡
お披露目パーティーの狂騒からほどなくして、季節は秋から冬へと足早に移り変わろうとしていた。
師走に入る前の、十一月中旬のことだ。
俺の病院「金田病院」は、正式に開業してからも相変わらずの盛況(主にボッタクリ価格の外国人患者と、お忍びでやってくるVIPな日本人患者)ぶりを見せていた。
だが、俺の心は別のところにあった。
東京・京橋の『田中製造所』に依頼していた、あの極秘プロジェクト——『暗視野顕微鏡』の完成の報せを、今か今かと待ちわびていたのだ。
「先生! 東京の田中社長からお電報です!」
ある日の午後、息を切らせて駆け込んできたユキが、一枚の紙きれを俺に手渡した。
『ケンビキョウ カンセイセリ スグコウ タナカ』
短い文面だが、俺の心臓は高鳴った。
ついにできたか!
日本のエジソンたちが、俺の百科事典の丸写し設計図を現実のものにしてくれたのだ!
「結さん!
東京へ行くぞ!
ついにアレが完成したんだ!」
俺は白衣を脱ぎ捨て、結さんの手を取って新橋行きの汽車に飛び乗った。
田中製造所の玄関先では、田中大吉社長をはじめとする職人たちが、まるで我が子の晴れ姿を披露するかのように、誇らしげな顔で俺たちを出迎えてくれた。
彼らの目の下には濃いクマができている。
きっと、連日連夜の徹夜作業だったに違いない。
「金田先生!
お待ちしておりました。さあ、こちらへ!」
通された実験室の机の上には、黒光りする重厚な真鍮製の顕微鏡が鎮座していた。
俺が持ち込んだ令和のオーパーツ顕微鏡のような洗練されたデジタルなデザインではないが、無骨でありながらも、どこかスチームパンク的な機能美を感じさせる、素晴らしい造形だった。
「社長……これは」
「ええ。先生のアイデアをもとに、特殊なコンデンサ(集光器)を組み込みました。
斜めから光を当て、背景を暗く沈み込ませることで、透明な試料を浮かび上がらせる……『暗視野』の機構です」
田中社長の声は、興奮で微かに震えていた。
「早速、試してみましょう」
俺は鞄の中から、あらかじめ用意しておいた『見本』を取り出した。
プレパラートに挟まれた、梅毒患者から採取した膿のサンプルだ。
これを顕微鏡のステージにセットし、光源のランプを調整する。
俺は息を詰め、接眼レンズを覗き込んだ。
「……!」
見えた。
真っ暗な漆黒の背景の中に、銀色に輝く極細の糸くずのようなものが、ウネウネと蠢いている。
間違いない。梅毒の病原体、梅毒トレポネーマ(スピロヘータ)だ!
令和のデジタル顕微鏡のようなAIの自動マーキング機能はないが、それでも十分に視認できるクリアな映像だった。
明冶二十年の日本の技術力で、見事にこれを再現してのけたのだ!
「素晴らしい……!
完璧です、田中社長!
俺が望んでいた通りのものです!」
俺が顔を上げて叫ぶと、田中社長と職人たちは「おおおっ!」と歓声を上げ、互いに肩を叩き合って喜んだ。
結さんも、目を丸くして俺と顕微鏡を交互に見つめている。
「先生、本当にこれであの恐ろしい病の正体が……?」
「ええ、結さん。
これさえあれば、あの目に見えない悪魔を、誰もがその目で確認できるようになるんです」
俺は興奮冷めやらぬまま、田中社長に向き直った。
「社長!
これと同じものを、もう一台!
すぐに追加で発注させてください!」
「承知いたしました!
すぐに取り掛からせます!」
俺は完成した第一号機の『暗視野顕微鏡』を丁重に木箱に収め、結さんと共に横浜へと持ち帰った。
家に着くや否や、俺はすぐに筆を執り、鍋島侯爵夫人に宛てて手紙をしたためた。
田中製造所への紹介の御礼と、顕微鏡が見事に完成したこと。
そして、この新しい「目」を使って、更なる医学の発展に尽くす決意を書き綴った。
さて、道具は揃った。
次は「研究者」を探さなければならない。
俺はそのまま、オランダ商人のヨハンさんの店へと足を運んだ。
「やあ、ミスター・カネダ!
今日はまた、どんなご注文で?」
「ヨハンさん。研究用のガラス器具類——フラスコやビーカー、シャーレなどを大量に追加発注したいんだが」
俺がリストを手渡すと、ヨハンさんは目を丸くした。
「オー!
これほどの量……本格的な研究所でもお作りになるおつもりですか?」
「ええ。そこで相談なんですが……」
俺は声を潜め、ヨハンさんに尋ねた。
「ヨーロッパの方で、優秀な『女性』の研究者で、研究先を求めているような心当たりはありませんか?」
すると、ご都合主義と言われようが何だろうが、ヨハンさんはポンと手を打った。
「実は、ちょうど良い話があるのですよ。
私の本国からの手紙に、優秀な頭脳を持ちながら、女性であるというだけで大学から冷遇されている若い研究者の話がありましてね」
ビンゴだ!
俺は内心でガッツポーズをした。
「ヨハンさん、その人に手紙を書いて、横浜へ来るように説得してもらえませんか?
渡航費は全額こちらで持ちます。
騙されたと思って、これで手配をお願いします」
俺はそう言って、ぽんと現金五十円をヨハンさんのカウンターに置いた。
五十円。現在の価値で約百万円。
決して安い金額ではないが、未来のキュリー夫人のような逸材をスカウトできるなら、安い投資だ。
「オー!
ミスター・カネダは太っ腹ですね!
分かりました、すぐに手配しましょう!」
ヨハンさんがホクホク顔で請け負ってくれた。
さらに都合の良いことに、ヨハンさんからの情報によれば、今ヨーロッパでは、のちに『日本の細菌学の父』と呼ばれる北里柴三郎氏が、ドイツのコッホ研究所でめざましい成果を上げ始めているらしい。
極東のアジアの小国と侮られていた日本の評価が、北里氏の活躍によって、細菌学を志す若き研究者たちの間で少しずつ変わりつつあるのだという。
これなら、ヨーロッパの女性研究者が日本に来るハードルも、少しは下がっているはずだ。
俺は意気揚々と顕微鏡を持ち帰り、旧・イタリア領事館の病院の一角、元々診療所だった部屋を改装して作らせた「創薬研究室」へと運び込んだ。
「メアリーさん!
小泉さん!
ちょっとここへ来てくれ!」
俺は、暇を持て余して子供たちと遊んでいた二人の女医を研究室に呼び出した。
「一様、どうなさいましたの? そんなに慌てて」
「ミスター・カネダ、何か面白いものでも見つけたの?」
俺は二人の前に、黒光りする田中製造所製の『暗視野顕微鏡』をドンと置いた。
「これを見てくれ。
俺が特別に作らせた顕微鏡だ」
俺は、梅毒患者の膿のサンプルをセットし、二人に接眼レンズを覗き込ませた。
「こ、これは……!」
「オー・マイ・ゴッド……!」
二人は息を呑み、顕微鏡から顔を上げて俺を見つめた。
その顔には、驚愕と信じられないものを見たというような、言葉にならない衝撃が浮かんでいた。
「見えるだろう?
あのウネウネと動いている細い糸のようなものが。
あれが、梅毒を引き起こしている悪魔の正体……『スピロヘータ』だ」
俺は得意げに説明し、さらにそのサンプルに、俺たちが作った『ペニシリン水溶液』を一滴垂らした。
「もう一度、覗いてみてくれ」
二人が再びレンズを覗き込むと、そこには驚くべき光景が広がっていた。
さきほどまで元気に蠢いていたスピロヘータたちが、ペニシリンに触れた途端に動きを止め、次々と溶けるように死滅していくのだ。
「……信じられない。
あの不治の病の病原菌が、目の前で……」
「ミスター・カネダ!
あなた、これを一体どこで!?」
二人の女医は、完全にパニック状態だった。
「これ……お二人の連名で、論文にして発表してみませんか?」
俺が涼しい顔でそう提案すると、二人は「こいつ、頭がおかしくなったのか?」とでも言いたげな、ものすごくひどく驚いた顔で俺を凝視した。
まあ、無理もない。
この明冶二十年において、梅毒の病原菌の発見も、それを死滅させる抗生物質の存在も、世界の医学界の常識を根底から覆す、あり得ないほどのオーパーツ的知識なのだから。
だが、俺は本気だ。
俺の頭の中にある知識を、この二人の優秀な医師の手を通じて、世界に解き放つ。
歴史の歯車を、俺が力ずくで回してやるのだ。




